妄想の帝都(1)

 前代の都、京都の平安京はそれ以前に秦氏がこの呪術的調整をおこなったと言われている。小野氏 はこの秦氏の調整のため、叡山の山麓・小野の里に追われた。叡山・日枝の使い番の「猿」は猿女の君 の末裔・小野をあらわし、この地に「赤山禅院」を造ったのも秦氏ではなく小野の一族であったろうと推測 される(日枝の使い番の「猿」は丑寅と正反対の方角にあたる未申に関係あるともいわれている)。「赤山 禅院」にしても、六波羅の入り口に建つ「六道珍皇寺」にしても小野は常に「死」の匂いのする氏族であ り、なぜか禍事を『封じる』ことに関係し続けた。この小野氏が、東国の、それも江戸の地を四~相応の 地と見極め呪術的調整を家康の開幕以前におこなおうとしていたと言うと笑われる方がいるだろうか。
 では少々の実例を挙げてご説明させていただきたい。

 徳川家康が江戸入府をしてかれこれ400年が経つ。江戸の地は四~相応して王城にふさわしい地であ ると言った謎の多い僧侶、天海。彼はここに二重三重の結界と呪を施し、徳川の天下を裏で支えたとい われている。そのひとつに「神田明神」と「東叡山寛永寺」がある。神田明神はこの地の地霊、荒ぶる神 将門を祭る神社、寛永寺は京都の地「比叡山」に倣い「東の叡山」「東叡山」と名づけた鎮護の寺、この 二つはいずれも江戸の御城から見ると北東、鬼門に当たりこれを封じたことが分かる。
 江戸に東叡山を建立するにあたり土地の選定でちょっとした問題が起こった。「ここ」と定めた地にすで に社が建っていたのである。社の名は「小野照崎神社」。祭神は小野篁であり、この地に数百年前から 鎮座する古社である。小野篁が上野守(?)の任から帰京する折、この地が気に入り屋敷を構えたとさ れ、篁が薨した仁寿二年、住民たちにより篁を祭神としてこの社に祭られたという(福島県小野町の『矢 大神社』にも同様の縁起がある)。寺院を建てるためにはこの地しかないと考えていた天海は、これを入 谷(ここも御城の北東にあたる)に遷し予定通り寛永寺を上野の地に建てたのだが、数年後天海は似た ような体験することとなる。
 天下が徳川の手に落ちたことを確認するようにして家康はこの世を去った。~号東照大権現は奇妙な 埋葬のされ方をする。まず久能山に立ったままで埋葬、一年後これは掘り返され今度は日光に埋葬され る。この日光、もとは補陀落山という。「ふだらく」がなまり二荒山(ふたらさん)と呼ばれていたが、天海は 「荒れる」という文字を嫌い、この二荒山を音読みして「にこう」、さらに嘉字を用いて「日光」としたらしい。 そしてこの地に東照宮を建て、関八州の鎮護としようとしたのだがまたしても社が邪魔をしていた。この 社の名は「宇都宮大権現」。この世にあったときの名を小野猿麻呂という。

 ある日、男体山の神と赤城山の神がそれぞれ蛇とムカデの姿となって争っていた。この勝負は男体山 の神に分が悪く、どうしても勝てないので、鹿島の神に相談をすると、「腕のいい小野猿丸という猟師を頼 むとよい」と教えられる。男体山の神は猿丸に助勢を頼むとこれを快く引き受けてくれた。再び二柱が争 ったが、やはり蛇が負けそうになる。そこへ猿丸が現れムカデの目を射てこれを退けた。実は猿丸は男 体山の神の孫であり、ムカデを「撃った」ので後に「宇都宮大権現」となった。

 またしても小野である。この説話は後世天海が権威付けに利用した話であるといわれるが、むしろそ れ以前から二荒山唱導の中心にあった説話と見るほうが正しいだろう(後記『俵藤太と『神道集』』参 照)。『唱導』とは自らが仕える神仏がいかに優れた神仏かを回国して説くことで、よく知られたものは「白 比丘尼」や「高野聖」である。二荒山唱導衆は小野猿丸、つまりかの百人一首の「猿丸大夫」を担ぎ出し て二荒山の霊験を説いていただけでなく、自らはその末裔であるとも宣伝していた(猿丸大夫が小野氏 であった確証は無く、ただ「猿」からの発想でしかない)。それにしても小野氏が天海より先に霊地として この二荒山を押さえていたこと、さらに「大権現」として小野猿丸を祀っていたことは符合しすぎていて返 って面白い。

 小野氏は武蔵国にはゆかりが深い。まず、延喜式内社の小野神社がある。今、この社は多摩川を挟 み多摩市と府中市の両岸にある。どちらが延喜式内社かの論議があるらしいが、これは両社社を一対 として、いずれも式内社であると見るのが正しいと考えられる。理由は至極あいまいであるが、多摩川を 南北に横切る鎌倉街道にある。古代日本の国は五畿と七つの括り(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山 陽道・南海道・西海道)に別けられ、それぞれ名の示すよう「官道」と呼ばれる一本の大道で貫かれてい た。しかし、武蔵国は当初東山道に属していたため、上野国府の先で本来の大道から分岐して南下する 官道をつくり、武蔵国府と繋ぐという不自然な形式をとらなければならなかった。そこで宝亀二(771)年武 蔵国は東海道に編入され、相模国と連絡する官道が築かれることとなった。現在の鎌倉街道がこの道と ほぼ並行して走っており、多摩川を横切ったのはおそらくは現在の東京都多摩市関戸あたりであったと 思われる(『旧武蔵國東山道』はその後、上野國から鎌倉への街道として整備され、新田<新田義貞の本 貫地>と一本道で繋がるのも何かの因縁か)。この関戸から程近い地にこの小野神社があることから、 宝亀年間後東海道の整備と並行する形で、多摩川の両岸という要所に立てられたのではという推測が 出来ないわけではない。また、時代がくだり、篁の七世後胤義孝が武蔵国司としてこの地を訪れたとき、 関戸から南下した東海道沿いに篁を祭る社を建てている。この地は以前「小野小町村」といっていたが 後に「小野路」という名に変わり、社のある山を「小野路城」という砦とし義孝の子孫が築城している。さら に東海道沿いの神奈川県厚木市、古くは小野村と呼ばれていた地域に義孝の流れを組む愛甲氏が小 野神社(閑香大明神)を分祠している事も含め、官道の東海道に幾重にも自らの神を祭ったことには何 の意味があるのかとふか読みしたくなる(妄言ではあるが、この地は四~相応の地になるための条件、 西の「白虎」大道があったにはあったが、北へ伸びていて方向が悪かった。そこで小野の誰かが東海道 編入を画策した・・・とは想像たくましすぎるか)。ともかくもこの東海道編入は後に江戸の四~、西の『白 虎』を準備したこととなる(江戸の白虎は甲州街道という話もあるが、重要性から考えると東海道がそれ と見られる)。
 小野神社の祭神は「天下春命」と「瀬織津媛命」。天下春命は知知夫(秩父)国造の祖とされ、秩父地 方には多く社の存在は確認できる。瀬織津媛は川の神であり穢れを祓う神でもある(群馬県吾妻郡東村 の「甲波宿禰神社」は小野氏が上野国式内社の「甲波宿禰神社」を分祠して瀬織津媛を合祀している)。 小野氏はなぜ天下春命を祀ったのか?これは他人の考察の引き写しなのだが、天下春命を「はる」の 音から「墾(は)る」と結びつけ、「開墾の神」として祭ったのではないかというのである。しかし、ここでは 無理なこじつけより『土地神』としての天下春命と見るほうが自然である。小野神社は要所の土地神を鎮 めることに重点を置いた社であり、小野の名は地名であるという考えが無難であろう。平安京における 「赤山禅院」や「木嶋神社」と同じである。
 このほかにも実例は挙げられるのだが、それはまた別の回に譲ろう。