占星術の起源をたどると、どうしても幾つかの地域に行きついてしまう。エジプト・メソポタミア・インダ
ス・黄河のいわゆる四大文明と括られる地域である(実際はこの地域の研究しか進んでいないため、他
の地域の文明との比較対照ができないだけなのだが…)。この地域はいずれも大河を背景に発達した
文明であるため、河川の氾濫により都市が消滅することが度々あった。そこで、氾濫を予知する技術、
暦が開発された。この暦は太陽や月などを中心として作られたが、どうしてもわずかな誤差を生じる(自
転公転の問題や観測点の差など)ため、細部にわたる年月の測定は星の観測によりなされた。ここから
生まれたのが『占星術』である(現在『西洋占星術』と呼ばれるものの元となっているのはメソポタミアの
占星術=バビロニアの占術に、エジプトの星座と中国の「ホロスコープ」が交じり合い成立したとされてい
る。)。
中国の占星術というと真っ先に『三国志』を思い浮かべる方もあるだろう。「堕星秋風五丈原」は特に有
名で、蜀の軍師諸葛亮が陣中で死を迎えるとき、亮の将星が輝きを失い落ちていくのを魏の軍師司馬
仲達が発見し、蜀軍に攻め入ろうとする。この将星の存在こそ、東洋占星術の中心をなしている。
西洋の星座のようなものが中国の占星にもあるにはある。西洋では「形が似ている」から星座に名前を
つけたのに対し、中国では「この位置にあるから」という理由で名づけられている。
わかりやすいように説明しよう。中国には陰陽の考えがある。左右の手が向かい合うように、すべての
ものは対をなすのである。天地も例外ではない。ゆえに地に皇帝があれば天にも皇帝がある。これを天
帝といい、天の中心に座している北極星(現在の北極星〈こぐま座α星〉ではなく〈こぐま座β星〉)をあて
た。皇帝がいるのならその家族もあるはずで、北極星の間近に太子〈こぐま座γ星〉・庶子・后宮・天枢
の四星を選び、五つの星をまとめて「北極」と呼び表わした。そうすると、皇帝の周りには廷臣がいるの
が道理で、北極星を丸く囲むように並ぶ星を左方に八星、右方に七星選び、紫微垣(天帝の住まい)の
「左垣」「右垣」とし、それぞれの星に「上宰・少宰」「上輔・少輔」などの名をつけた。同様に近習、将軍士
卒、后妃女御の類を配し、天全体があたかも地上の宮廷の如く機能するようにしたのだ。つまり、将星と
はその人の位に比定される星の盛衰により占われるのである。
オリオン座は誰にも知られた星座である。全天の中にあってこれほど探しやすい星座もない。なぜなら
構成される星の多くが三等星以上であるためで、オリオンの腰帯に当たる三ツ星(中国名「参」)にいたっ
ては、すべてが二等星なので特にわかりやすい。
このオリオンは海神ネプチューンの子で、無双の猟師を高言したためヘラの放ったさそりに刺されて死
んでしまうが、これを哀れんだ月神ディアナが夜空にその姿をあらわしたとされる。だが天でもさそりに追
われ、東天にさそりが現れると西天に隠れてしまうのだという。
エジプトではこの星座はオリオンではなく「オシリス」であると考えていた。オシリスは太陽神ラーと天空
の女神ヌトの子で、妹のイシスを妻とし、地上にあってはエジプトの王として君臨した。人民に小麦の栽培
を教え、法律を定め神々を奉賛することを奨励した。人々はこの善政を喜びオシリスを敬愛した。ところ
が弟のセトは快く思わず、王位を簒奪せんとオシリスを暗殺し、箱に詰めてナイル川へ流してしまった。
イシスはこの箱を探し出すと天に夫の復活を祈り、蘇ったオシリスとの間に一子ホルスをもうける。しかし
セトは再びオシリスを殺し今度は細かく刻んでナイルに流してしまった。それでもイシスはその遺体をす
べて集めると今度はアヌビス神に頼み夫を蘇らせた。神々はもう二度とオシリスが死なないよう、冥府の
王とした。まあこのあとセトとホルスが激しい争いを繰り返し、二十数年(ここがやけにリアル)ののちオシ
リスの判断でホルスが王位に就くのだが、それはまた別の話。
隣り合うオリオン座とおおいぬ座(こいぬ座とともにオリオンが連れる猟犬とされるが)は元を正せば冥
神オシリスと冥官アヌビス(犬頭人身の神)をあらわしたものらしい。ヨーロッパでもおおいぬの正体は冥
府の番犬ケルベロス(竜の尾と三つの頭を持つ猛犬)であるともいわれるので、エジプトからの影響は強
く残っているのかもしれない。東洋でもおおいぬ座のα星シリウスを「天狼星」と呼ぶから、何かしらある
のだろう。ちなみに妹のイシスは現在おとめ座に変化している。
日本には星の神話がないといってもいい。そのないなかで必ず語られるのが、「天津甕星(あまつみか
ぼし)」の話である。『日本書紀・国譲り』のくだりで、まつろわぬ者を次々と平定してきた武甕槌命(たけ
みかづちのみこと)と経津主命(ふしつぬしのみこと)であったが、この天津甕星だけは平らげることがで
きず、代わりに武羽槌命(たけはづちのみこと)が鎮圧したという。
天津甕星は別名「天香香背男(あまのかかせを)」という。香香とは「輝き」であるし、甕(みか)は「いか
めしい」の意味といわれている。つまり「天のいかめしい星・輝き逆らう星」とでもいうのだろうか。どうやら
これは金星のことらしい。西洋においては「ルシファー」とサタンになる前の大天使の名で呼ばれる金星
は、太陽(アマテラス)が沈むと現れ強烈な光を放つ。他の星と違い、一定の周期で現れないためこう呼
ばれたらしい。ではこれを鎮圧した武羽槌命とは何者か。
武羽槌命は正しくは天羽倭文武羽槌命(あまはしどりたけはづちのみこと)といい、倭文氏の祖神であ
る。倭文氏は機織を職掌とし天皇に仕えた。ここでぴんときた人はおそらく正解である。そう、武羽槌命
はこと座のヴェガ・織女星であると考えられる。0.1等星のこの輝きは他を圧倒する明るさであり、宵の口
には沈んでしまう金星を山の端に押し込むだけの迫力がある。星は星をもって制するとすればこれが一
番妥当な考えではないか。
日本の神話が出たついで、住吉神社の話をしよう。住吉の神は「表筒男命(うわづつのをのみこと)・中
筒男命(なかづつのをのみこと)・底筒男命(そこづつのをのみこと)」の三柱をさし、航海・和歌の神とし
て知られる。この神もまた「星神」であるらしい。
この「筒(つつ)」は古語で「星」を表す。夜間航行において星の存在は大きい。目当てにする星を「あて
ぼし」というが、このあてぼしは何も北極星ばかりではなかった。南の水平線ぎりぎりに見える「南極老
人」カノープスや、黄道に等間隔で現れるレグルス(しし座)・アンタレス(さそり座)・フォーマルハウト(み
なみうお座)・アルテバラン(おうし座)の四星を「王の星」と呼び目印にした(これはペルシャのことだが、
日本にも似たものがあるらしい)などなど。
従来「海の渦」の神格化であるとか言われていたが、ここにある話を挿入すると違った見方が現れるの
ではないか。
この物語は『和歌三神』といって西行を主人公とした話である。西行が旅の途中、摂津国の歌枕・鼓ヶ
滝を訪れ、
伝え聞く鼓ヶ滝に来て見れば沢辺に咲きしたんぽぽの花
と詠じて悦にいっていた。道に迷いある一軒のあばら家に一夜の宿を頼んだが、そこの翁と姥、そして一
人の娘にことごとく歌を直され、
音に聞く鼓ヶ滝をうち見れば川辺に咲きしたんぽぽの花
と、より優れた和歌を得た。実はこの三人は和歌三神で、慢心した西行を戒めるため現われたのだっ
た。
この三人、翁・乳母・娘は住吉の神であり、三者がなぜこの姿で現われるのかというと、この世に歌詠
みとしてあらわした姿、柿本人麻呂・山部赤人・衣通姫に由来するといわれている。だがこれを「北極老
人・南極老人・織女星」の三星とみたらどうであろうか。織女は天空(表筒男命)の、北極老人は中心(中
筒男命)の、南極老人は水平線(底筒男命)の「あてぼし」であった。そうすれば、少しは「航海の神」とし
ての姿が見えてくるように感じるのだが…。
時は唐の時代、玄宗皇帝の治世、開元(かいげん)のとき。一行(いちぎょう)上人は名高い僧であると
ともに天文や暦にも通じ、仙術をも修め、玄宗より「天師」という号を授けられていた。
ある日、一行を一人の老婆が訪ねてきて、
「私は王婆(王姓の婆さん)というものだが、息子が人殺しの罪で捕まってしまったので助けてほしい。」
と頼んだ。
一行も、以前世話になった姥の頼みなので助けてやりたいが、
「法は私が口を利いても曲がらない。」
と断った。老婆は一行を罵って帰っていったが、気になって仕方の無い一行は、なにを思ったか大甕を
据えさせ、寺男に、
「町はずれの路地の角に、荒れはてた庭がある。そこへ出かけて、隠れていなさい。昼から日の暮れ方
までにやってきたものをこの袋で、ひとつのこらず捕えてきなさい。」
といって、大きな布袋をわたした。
寺男は、いいつけどおり荒れた庭で隠れていると、どこからともなく異様なもの音がしたので、これに頭
から袋をかぶせ、引きずって寺に持ち帰った。一行は用意した大甕の中へ袋ごと押し込めて、
蓋をし、その上から泥封をした。
次の日、玄宗から召喚の状があり、参内すると、
「天文博士が昨晩から北斗七星が消えたと申してきた。何事か。」
と問われた。
一行は素知らぬ顔で、
「それは一大事。北斗七星が消えたとは聞いたことがございません。おそらく、無実の者が殺人の罪に
問われているのを天帝がお怒りになられているのでしょう。」
と答えた。
玄宗はそのような者があるかを調べさせ、慌てて王婆の息子を解き放った。その日から、一行は大甕
の中から捕まえてきたものを一つづつ放してやった。中から出てきたものは七匹の豚で、七夜目にやっ
と北斗が元通り夜空に輝いた。
北斗の精は豚であるという話はこの話のほかにも、北斗を信仰していた徐武功という男が、豚を食べ
なかったことで無実の罪から救われた話がある。また二十八宿の一つ『奎宿』(うお座とアンドロメダ座に
またがる宿)は豚の意味(この宿は文章を司る神なんだけれどなぁ…)を持ち、タイでは天の川を『豚の
道』と呼ぶらしい。ヨーロッパに目を向ければ、プレアデス星団(すばる)と並ぶヒアデス星団の「ヒヤデ
ス」とはローマの「仔豚」という言葉が語源と言われている。
なんだか空は豚でいっぱい。『はれときどきぶた』みたいにそのうち降ってきるのかも。
ヨーロッパで「星を書いてください」と頼むと必ず「☆」を書く。現在日本で頼んでも同じように描くであろ
う。しかし、以前の東洋の星は「○」であった。アメリカの「星条旗」。これは「☆」を描く。でも相撲の「星取
表」には負けたといって「★」は描かない。「●」である。
これはヨーロッパと東洋の気候の差に起因する。ヨーロッパはからっとした気候で、東洋、特に日本と
比べて湿気が少ない。夜空を望めば満天の星が、はっきりと見て取れる。空中を浮遊する水滴の邪魔を
受けないからだ。光は本来四方八達するので、光源から仏の後光のように全体に筋を放つ。これが「☆」
として図案化された。ところが日本ではきらきらとはしない。湿気により光を半減し、一つの丸として見え
るのである。ゆえに「○」で表されるようになったのだ。
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