2003年05月20日

水鬼は羊の臭い −溺死者列伝−

 1845年8月25日、バイエルン王国皇太子マキシミリアン2世とプロイセン王女マリーとのあいだに継嗣 が誕生し、父王の名を貰ってこの子にルードヴィッヒ2世と名づけた。1848年、その国王はローラ・モンテ スという踊り子との醜聞から退位を余儀なくされ、皇太子マキシミリアン2世が王位を継ぎ、それに伴い王 子はこの年生まれた弟オットーと共にミュンヘンを離れ、山間部のホーエンシュヴァンガウ城で少年時代 をすごした。この城は父王の建てた城で、芸術を愛するヴィステルバッハ王家の持ち物らしく、壁一面に は中世の説話『ローエングリン』などを題材とした絵画で埋め尽くされていた。ルードヴィッヒ2世はこのロ マンチィックで耽美な世界に一発でのめりこんでしまう。
 そしてこの王子の一生を変えてしまう出来事が15歳のときに起こった。ワーグナーとの出会いである。 その日王子はミュンヘンの宮廷劇場でオペラ『ローエングリン』を観劇し、夢にまでみたあの世界が眼前 に広がっていることに身を震わせて感動した。そしてワーグナーに心酔した。1864年、父マクシミリアン2 世の急逝により、18歳にして王位に就いたルードヴィッヒ2世が初めて下した命令はワーグナーの召喚で あった。だが、世間知らずの青年王にありがちな、ワーグナーに傾倒して執務を疎かにするなどというこ とは無く、若き国王は真面目に政務に従事し、容姿端麗で気さくな人柄から国民の厚い信頼を得てい た。
 時代はナポレオン政権の崩壊からヨーロッパ再編が加速、ドイツでも十数カ国の王国と幾つかの自由 都市からなる連邦国家が誕生した。バイエルン王国はこの連邦の中にあって第二席に位置する国力を 備えていた。しかし、その連邦も内実はまったく機能をなさないもので、隣国オーストリアを巻き込んだ国 家建設を目指す大ドイツ主義と、オーストリアをのぞいた国々で作る連邦国家小ドイツ主義の二論が対 立していた。この論争のさなか、強烈な指導力を持って統一ドイツの達成を目論む男が現れた。連邦の なかでも最大規模を誇るプロイセン王国の宰相ビスマルクである。鉄の宰相の異名をとる彼が動きだし たことで、ドイツ統一は現実味を帯びてきたのである。折もおり、ルードヴィッヒ2世はこの難局に即位し たのだった。
 バイエルン王国もこの流れに抗えるはずもなく、いかにすべきかが問われていた。芸術を愛するバイエ ルン国民はその多くが保守的で、実をいうと国王の愛するワーグナーは革新的な音楽を創作する新教 徒としてかなり嫌われていた。パトロンであるルードヴィッヒ2世はバイエルン王国の行方が不透明なこの 時勢に国王と国民が対立することは適当でないと考え、せっかく召喚したワーグナーに国外退去を消極 的に勧め、またワーグナーもこれを受け入れた。去ったのちもこの二人の交友は続き、ワーグナーの死 までに700通を超える消息のやり取りが行なわれたという。
 二年後、1866年プロイセンとオーストリアがドイツ統一について対立、戦争となった。ルードヴィッヒ2世 はオーストリアに加担、これにより北ドイツ(プロイセン側)対南ドイツ(オーストリア側)の構図が鮮明とな り深い亀裂を生じたが、たった七週間で戦況は確定し、戦闘はプロイセンの大勝で幕を閉じた。これによ りバイエルンはプロイセン主導の北ドイツ連邦からはずれ、なお多額の賠償金を求められた。
 翌年、ルードヴィッヒ2世は婚約を発表し半年後に破棄している。相手は従姉妹のゾフィー。戦後という こともあり婚礼は伸ばし伸ばしになっていたが、敗戦の沈滞した空気を一掃する慶事に国を挙げての祝 賀ムードは最高潮に達していた。ゆえに国王の婚約破棄は国民の落胆を誘った。なぜ婚約は破棄され たのか、ゾフィーの姉のエリザベートへの思慕、女性を愛せない性倒錯者など様々な憶測をよんだが、 理由は不明であった。このこと以降、国王は極度の人間不信に陥ることとなる。
 1870年の普仏戦争を期にビスマルクはドイツ帝国を打ち立てようと画策していた。普墺戦争のときに結 ばれた屈辱的な条約により、プロイセンの同盟国となっていた大国バイエルンを帝国に引き入れるようと 考えたのである。この話にルードヴィッヒ2世は、王として格が上であるバイエルン国王と、国力が上位で あるプロイセン国王が交互に皇帝に即位することを提案した。しかしビスマルクはこれをよしとせず、プロ イセン国王を皇帝に推挙する代わりに、この帝国下でバイエルンのみ外交、軍事、鉄道などの特権を認 めるとする提案をした。ルードヴィッヒ2世は国家国民のためにはこれが最良の策であろうと考え、これを 受け入れた。1871年1月、ここにプロイセン支配によるドイツ帝国が誕生した。
 このことがさらにルードヴィッヒ2世の精神を蝕んでゆく。自己の判断とはいえ、国政を放棄した国王に 存在価値は皆無であった。ルードヴィッヒ2世は中世の伝説の中へとその身を沈め、中世の古城の再現 に力を注ぐようになった。すでに即位当初のあの長身の美男は何処かに消え去り、外出することも少なく なっていたために肥え太り、歯も失われ、城に閉じこもったきりの痛々しい姿から国民は王を『孤独の 王』と呼んだ。この時すでに、国王の生活は幻想の中にあったといっていい。名高いノイシュヴァンスタイ ン城やリンダーフォフ城といった城の建築に国費を投入し、尊敬してやまないルイ14世や16世、マリー アントワネットと共に「ひとりで」食卓を囲み、日々ワーグナーの歌劇のなかに遊んだ。1871年、対外交渉 の出来ない兄に代わり、ヨーロッパ中を飛び回っていた弟オットーが突如精神病悪化を理由に軟禁され た。たった一人のよき理解者であった肉親を奪われた国王の孤独はさらに加速していった。
 城建設が絶え間なく続くバイエルン王国では、財政破綻寸前まで追い込まれていた。首相であったルツ はこれ以上の財政逼迫はまずいと考え、1886年、ルードヴィッヒ2世を「パラノイア(偏執症)」と診断した 書類と共に、6月12日ノイシュヴァンスタイン城の国王を逮捕、ミュンヘンのベルク城に軟禁した。翌日は 聖霊降臨祭(whitsuntideあるいはペンテコステ)であった。朝からの雨のなか王は散歩をしたいと申し出 た。まず午前、精神科医であるグッテンと看護人が付き添い散策は行なわれた。今度は夕方、再び王が 所望したので今回はグッテンのみが付き添うことになった。ところがいつまでたっても二人は戻らなかっ た。心配した人々は午後8時に捜索を開始、10時過ぎにシュタルンベルグの湖で二人の帽子を発見。十 一時過ぎ、二人の遺体を湖中に見つけた。
 なぜ二人が水死したのかは謎である。しかし、想像はつく。ルードヴィッヒ2世はグッテンの制止を聞か ずどんどん遠くへと歩みを進めてしまっていた。グッテンが掴みかかると王はこれを振り払い何かしらの 方法で殺してしまった。王はこのことに愕然として自らも死を選んだのであろう。
 王は今もミュンヘンの聖ミヒャエル教会に眠っている。


 長尾政景は長尾景虎のちの上杉謙信の従兄弟にあたる武将である。天文十七(1548)年越後の実権 をめぐり晴景と景虎が対立すると、政景は晴景についてこれと争うも敗退、かたちばかり景虎に臣従し た。天文二十(1551)年、今度は父房景と共に造反するも、これまた敗退、降伏した。景虎は政景が臣従 するためにはもっと血縁を深める(従兄弟でもだめなのか?)のがよいと、実姉仙桃院を嫁させた。これ により政景の叛意は消えた。それが証拠に弘治二(1556)年、家臣団の不和を理由に家督を放棄した 「景虎出奔」の際、政景の制止により長尾家の瓦解が防ぐことができたとされている。また景虎も政景を 信頼し、関東出兵や越後を離れる際は本拠地春日山城の守備を任せた。
 永禄七(1564)年、この年謙信は宿敵武田信玄と川中島で対峙していた。政景もこれに従軍していた が、謙信の軍師の宇佐美定満が城主を勤めていた野尻城(新潟県魚沼郡湯沢)へ招待され、のこのこと 出かけていった。この城近くには野尻湖という湖があり、毎年ここで舟遊びをするのが恒例の行事となっ ていたからである。定満と政景の同乗した船は岸を離れ、湖の中ほどでなんと転覆。これにより、二人と 政景の息子が溺死した。政景38歳の出来事であった。
 ところがこれには裏がある。実は政景に謀反の動きありと知らされた謙信は定満に命じ、政景暗殺を 企んだ。定満は船遊びを理由に政景をおびき出し、まんまと上意打ちを果たしたのだが、運悪く船から 転落、歳もあり溺死したらしい。後日二人の死体を引き上げると、政景の遺体には無数の刀創があった という。


 溺死者をよく「土左衛門」と云う。享保の頃(1716−1736)、江戸に成瀬川土左衛門という力士がいた。 身体が頗る肥え太り、まるでふやけたようであった。それから水死者を「土左衛門のようだ。」というよう になり、下って水死者の代名詞になってしまったのである。


 屈原(前343?−前278?)は名を平、号を霊均という。楚王の一族の出であり、楚の懐王に仕え、三閭大 夫にまで登りつめたが、上官大夫の讒言により放逐された。この時『離騒』という詩を作り、自分には非 がないことを詠った。これが懐王の耳に届き再び復官を許されたが、その子頃襄王のとき再び追放の憂 き目に遭い、『懐沙譜』を作り、懐王への悲哀とわが身の不遇を嘆きつつ、五月五日汨羅江に身を投げ た(これを悼んで、その地方では五月五日に笹にくるんだもち米を汨羅江に投げ込んで、屈原の霊を慰 めた。これがちまきの始まりである。)。
 二度目の放逐以前のこと、楚は連合国である斉が秦に攻められようとしていたとき、秦の使者・張儀 (戦国時代の縦横家)の「領土を六百里割譲」する約束を信じ、斉との連合を解消した。ところが秦が割 譲したのは、六百里どころかたった六里で、これに腹を立てた懐王は大軍を率い秦を攻めたてたが、斉 の協力のない楚軍は大敗を喫した。その後も歯車の噛み合わない楚の政治は悪化の一途を辿ってゆ き、疎んぜられた屈原の心配通り、秦へと併合されてしまった。
 中国で起こった文化大革命の折、『駱駝祥子』で知られる作家老舎は紅衛兵の辱めの前に、「身を以 って諫めんと入水し、難に殉ずる」という一文を残して首吊り自殺をしている。屈原の詩も老舎の声も、い ずれも国の腐敗を止めることはできなかったのが残念でならない。


 中国の詩人をもうひとり。李白は「酒一斗、詩百篇」といわれるほどの酒好き。酒さえあればご機嫌であ った。この人も屈原同様、任官放逐の繰り返し。が、違っているのはそこに「憂国」の二文字のないこと。 結構ショウもないことで官位を追われている。安録山の乱のときも流罪になっているが、ケセラセラと物 見遊山にでも行くかのように出立している。
 李白が死んだのは当塗という地であるとされるが、死についてもこんなお気楽な噂がたっている。
 夜、李白は湖に船を浮かべて酒を飲んでいた。漆黒の空の只中には丸い丸いお月様。ボウと眺めるう ちにふと、湖面にこの月が映し出されているのに気がついた。映し出された影のあまりの美しさに、李白 は無性にこれに触れてみたくなった。船から身を乗り出していま少しで手が届くというところで…ドボー ン。
 酔っていたせいもありそのまま白玉楼中へ。あくまでも伝説ですが。


 中国では水死者の霊は羊の臭いがするという。どんな臭いだかよく分からないが、日本の土左衛門と 同じで、水死体が羊の姿によく似ているせいと云われている。


 元歴二(1185)年三月二十四日、未明からはじまった壇ノ浦での船戦は、平氏五百艘、源氏八百艘の 船団が縦横に走り回るまさに一族存亡を賭けた戦いとなっていた。午後三時、潮目が変わり盛り返した 源氏の勢い留める所を知らず、平氏の敗色が濃厚となった。
 『平家物語』には、安徳天皇が、
「尼前、我をば、いず地へ具して行かんとするぞ」
と、訊ねると、
「君は末だしろしめされ候わずや。先世の十善戒行の御力によりて、いま万乗の主と生まれ給えども、悪 縁にひかれて、御運すでに尽きさせ給いぬ。まず、東に向かわせ給いて、伊勢大神宮に御いとま申させ 給い、その後、西方浄土の来迎にあずからんと思召し、西に向かわせ給いて、御念仏候うべし。この国 は、粟散辺土と申して、心憂き境にて候。あの波の下にこそ、極楽浄土とて、めでたき都の候。それへ具 し参らせ候ぞ」
と二位の尼が応え、念仏して、
「浪の下にも都の候ぞ」と、天皇を抱き、身を翻して入水したとなっている。
 ところが、時の関白藤原(九条)兼実の日記『玉葉』には、「旧主御事不分明(元歴二年四月四日条)」 と書かれ、生死不明となっている。また『吾妻鏡』にも、「先帝没海底御(文治元年四月十一日条)」と あり、死亡は確認できていない。そこで生まれたのが「安徳帝生存説」である。
 この説には二種類ある。まずひとつめは「漂流説」。助け出された帝は船で漂い落ち延びたというも の。この類は長崎県対馬、鳥取県三朝、高知県、鹿児島県、山口県などがある。特に対馬と三朝の話 は面白く、いずれも宗氏(対馬の豪族)によって助け出され対馬にむかったが、一方の話では無事にた どり着き、もう一方では潮に流され着いた先が三朝であったという。
 もう一つが「身代わり説」。誰かが身代わりに入水して帝は落ち延びたというもの。これで一番有名なの は、宇佐八幡宮宮司宇佐公通の息子公仲が身代わりとなり、帝は宇佐で宮司を務めて暮らした話。でも この伝承では三十八歳のとき自殺してしまうという悲劇的な最期となっている。
 争乱のただ中、貴種が密かに落ち延びてどこかで生きているという話はよくある。織田信長しかり、明 智光秀しかり、豊臣秀頼またしかり。そういえばこの戦いの立役者源義経も平泉から落ち延びたという話 もあるくらいですからね(大陸に渡ってジンギスカンになったというのは明治大正期の創作)。 




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