洛北大学のある日ということで。    (「竜淵」   直 様より頂戴)
「……遥。アブない」

 志堂明が一緒に昼食を取っている森下遥を怯えたような目で見たのは、彼女が教授を見てうっとりしていたからである。


「可憐よね!」


「……じいちゃんが?」


 友人の視線の先、四つ向こうのテーブルには味噌汁を啜る仏教学科の渡辺教授しかいない。志堂は曖昧に頷いた。


「六十過ぎにしては、可愛い……かもな?」


 しかし猫背の老人をして「可憐」とはこれ如何に。森下遥二十一歳。自他共に認めるじじいフェチである。どこに惚れるかというと枯れ具合と老人特有のゆっくりとした動作だというからかなりのマニアだ。


「渡辺先生はね〜、おっとりさんなのよ」


 嬉しそうに言う遥は美人である。黙ってさえいれば芦屋のいいとこのお嬢様なのだが、中身は須磨在住のマニアックなオヤジなのである。好きな食べ物は大概が酒のつまみに分類されるし、ネタとしてのホモが好きだと公言して憚らない、ナナハンを乗り回す豪快なお嬢様である。志堂は一回生のときに彼女に「真夏の須磨海岸にゲイを探しに行こう!」と誘われ、丁重にお断りした過去を持つ。


「そんなんやったら、うちの川口先生かっておっとりさんやで?」


 スプーンを銜えたまま志堂が言うと、遥は鼻で笑った。


「川口さんは駄目。策略家だもん。市川さんがいっつもハラハラしてるやん」


「腹黒いんやで。俺ずっと騙されとってん」


「どしたん?」


「あんな、漢文読むとき、「文法はどうでもえからきちんと訳してみ?」って言われ続けてたんやけど、それって文法きっちり押さえとかへんかったらきちんと訳されへんやん?それやのに俺は「そうかあ、文法はええのかあ」とぼんやりしとったわけや。二年も!」


「シドさん、お馬鹿さんね。そこが可愛いんだけどね」


 お姉さんぶった遥に頭を撫で撫でされて、志堂は拗ねた。トレイを持って近付いてきた鯨岡が寂しそうな顔をする。


「俺を待ってやろうとは思わへんのやな。二人とも」


「なんであんたを待たなあかんの?」


「定食は五分で食え」


「鬼!」


「大体、鯨岡が言い出したんやから、鯨岡の奢りでもええと思うんやけど?」


「うわ!貧乏人を労われや」


「でもさ〜、グループ発表ならともかく、他学科の人間まで巻き込もうなんて虫が良すぎやんねえ」


 遥が嫌みったらしく言うと、鯨岡は小さくなった。民俗学専攻の鯨岡と文献史学専攻の志堂は同じ史学科だが、遥は仏教学科なのである。鯨岡は調子の良い笑顔で取り繕った。


「いやさ、コラボレーションちゅうやつやん?」


「コラボのブームは終わってんで。クジラ?」


「しかも陰陽師やろ。ブームに乗るにしても遅いわ」


 立て続けに突っ込まれて鯨岡は「うきゅう」と呻いた。言い訳を口走る。


「俺かて別に好きで選んだ訳と違うんやで」


「で、シドさん。傾向と対策は?」


 そんな鯨岡を無視して遥が尋ねると、志堂は小首を傾げた。


「そやなあ。先達としては村山さん、新しいとこでは斉藤さんかな。斉藤さんはあれやけどな、イザナギ流」


「ああ、物部村やろ」


「そうそう。でも村山さんの方、押さえとくべきやな。絶対突っ込まれるわ」


「あ、待って。俺についていけるスピードで話して。メモるから!」


 鯨岡が慌てて唐揚げを嚥下すると、逆に志堂が黙り込んだ。


「志堂?」


「クジラはホンマに勉強しとるんか?」


 急に真摯な眼差しで問いかけられて、鯨岡は箸を落としかけた。


「し、してるよ!一応!」


「そんならうちと民俗学はしてることが大分違うんやろか?」


「でも基礎科目でシドさんと意気投合したなら、その時点までは同じことしてたんやろ?専攻に分かれてから、専門でシドさんに負けるなんてやっぱり鯨岡が勉強してないんやで」


「う、遥ちゃん、ぐっさり来るわ……」


「クジラ。図書館のどこに何の本があるかぐらいは覚えとかんと、卒論で苦労するで?八幡信仰とか陰陽道とかは取りあえず村山さんを読んで、それから他の論文探した方がええ。今は陰陽師が流行りやさかいに、ようさん本は出てるけど、孫引き曾孫引きできちんとした研究書は少ない」


「あ、でもあの漫画描いてる人はなかなかと違う?」


 遥が口を挟むと志堂は頷いた。


「岡野さんやろ。あの人は去年大阪の学会にパネリストで呼ばれてはったで。勉強はようしてはると思う」 


「あのさあ、志堂はどこでそんな情報を仕入れて来るんかな?」


 鯨岡がおずおずと問いかけると、志堂は緩く首を振った。


「仏教学科の掲示板。クジラは史学科のんもよう見てないやろ。浜崎先生のフィールドワークへのお誘い、締め切り明日やったで?」


「うそっ!忘れてたあ!ああ、後で行ってこな。単位がやばいのに〜」 


「ご馳走様でした」


 のた打つ親友を放置して、手を合わせるとさっさと立ち上がる。志堂は遥に言った。


「図書館に移動しよか」


「そやね。アホはほっといてね」


 突き放した物言いをするも、今回の調べ物はすべて鯨岡の為のことだから、鯨岡は慌てて残りの飯を掻き込んだ。


「噛まんと胃ぃ壊すで?」


 胃腸のあまり丈夫でない志堂が言うが、鯨岡は味噌汁で流し込んだ。


「全然大丈夫!」


「──まったく、しかり」


 ぼそりと口の中で呟くあたり、「全然」の後に否定形が来なかったことが気になるらしい。だが訂正するほどではないと思ったのだろう、志堂はそのまま歩いていく。


 図書館の地下書庫で、志堂は眉を寄せた。


「遥」


「あらら、見つかっちゃったか」


 悪びれもせずに笑う遥の手には折口信夫の全集が一冊。志堂は自分より背の高い遥の手元を覗き込んで、息を吐いた。


「小説?」


「噂の『口笛』」


「……遥。俺は男子校だったけど、そんなこと全然なかったからね」


「ええ!ほっぺにちゅーも?」


「それはあった。じゃなくて、遥!」


「あたしの高校なんか共学だったけど、全校生徒公認のらぶらぶホモカップルがいたのに!」


「その話は前に聞いた。遥みたいなのがいるから、俺は国文の奴に「柳田国男って誰ですか?」って腰の抜けるような質問をされるんや」


「折口イコールホモでしょ、みたいな?」


 からからと遥が笑う。


「正解はどっちも厭なジジイだってことやで」


 遥の手から本を取り上げて棚に戻す。


「あらら?」


「前者は民俗学学会に頭の固いじじいばっかり残したし、後者は弟子の娘をしつこくあやして「厭なじいさんだった」と言わしめとる」


 更に階段を下りながら、志堂は少し笑った。


「遥。全集の棚だけやなくて、国文の棚にも折口あるから」


「そうなの?」


「歴史の棚にはなかったはずや。ええと、三島由紀夫の裏側やったかな」


「シドさん、地下書庫の主となりつつあるのね……」


「あと慈円の隣にもいてん。慈円を棚に戻すとき、慌てとって、折口を裏側に落としたからな。あれは取るのに苦労した……」


「じえん?」


「天台座主、慈鎮和尚。歌詠み。和歌に耽溺した、九条兼実の弟」


「ああ。どっかで聞いた……。『愚管抄』か」


「そう。クジラ〜、惚けとらんで、ちゃっちゃと探せや!遥にはこれをやるさかいな」


 そう言ってA4版の本を手渡すと、志堂は鯨岡の元に歩み寄った。


「大人しくしとけって?弟子の語る折口の私生活をあたしにどうしろって?」


 妄想してやるっ、と遥が叫んだのを、志堂は聞かない振りをした。






「ねえシドさん!「その日積極的な方が受身になる」って、どうよ?」


 個室に移ってから遥に詰め寄られて、志堂は眉を寄せた。


「遥はそろそろ俺が男の子やっちゅうことを思い出して欲しいもんやな?」


「あんまり可愛いこと言うてると神戸までお持ち帰りするで、シドさん?」


 鼻先でにっこりと微笑まれる。ちょっと身を乗り出したらちゅーが出来るな、と志堂は思い、自分が異性扱いされていないことを弁えた。


「──かなわんわ」


「俺はいないからね」


 鯨岡が長テーブルの二つ向こうの椅子から宣言し、志堂は仕方なしに遥に向き合った。


「あのなあ、遥。あんなたかじんみたいなおっさんについて熱く語られても、萎えるねん」


「たかじんて、今、金髪やで?」


「どうせモノクロやったらわからへんで。深夜にしか出えへんし。あ、角度の問題やから顔が同じやとは誰もいうてへんで?」


「晩年の折口は髪の毛伸ばしてるしね」


「そんなことはどうでもええねん。それにあいつは歌詠みやし」


 志堂は拗ねたように唇を突き出した。


「シドさん、歌詠みに弱いのね?」


「俺はサラリーマン川柳しか詠めへんねん」


 母親が雅やかに和歌を詠むということが志堂にはささやかにコンプレックスになっているらしい。


「ちなみに最近詠んだ、サラリーマン川柳は?」


「香炉峰、雪は如何にと故事を付け、重ねし盃をかかあが睨み」


「ほんっとに、サラリーマンね!しかも尻に敷かれているくせに、半端に古典を引いてる辺り嫌味だわ!」


「だからへぼやと言うた……」


 現実、「かかあ」のいない志堂を睨むのは過保護な兄である。志堂はいじけたようにボールペンを転がした。


「まあ、シドさん。ちょっと真面目に語ってみてよ。遊び心で」


 遥は悪童のような笑みを、綺麗な顔に浮かべた。最近の志堂のマイブームは「遊び心」である。何をするにしてもそう言い訳するのだ。案の定、志堂は嫌そうにしつつも口を開いた。


「折口、いうたら、ぐずぐずしててかなんやんか。中身女やのに絶対、言葉を捨てよらんし、歌ばっかり詠んでるうちはええけど、文章書くようになったらあかん。あれは男の仕業やで。女はかしましいけど、ほんまのことは絶対喋りよらへんに。折口はどうやっても男やさかいにほんまのこと書こうとしよるんや。そんでぐずぐずになる」


 わかるか、という風に上目遣いに見上げられて、遥は肩を竦めた。顎を机にくっ付けているのが犬のようで情けなく、可愛らしい。


「そんで?」


「水は女の支配するもんや。月もな。女の胎には海があるし、月もあるやろ。女は生まれながらに何でも知ってるけど、それを語ることはあらへん。本質は混沌やからや。語る必要がない。語らんでも「知ってる」ねんから。いらんことは仰山喋るで?女は陰行の生き物やもんな。正体見たら怒って帰りよる。そやけど折口はどうにも男やろ。語らいではおられん。言葉を尽くして伝えようとする。けども本質は混沌や。どんだけの言葉を持っても伝えきらん。ほな元始の言葉の方が近い。そやから大和言葉を使う。せやけどあれは誤解されやすい。ほな、体で伝えるしかないやろ?」


「それは、シドさんの解釈なんやね?」


 志堂はふうと息をついて笑った。


「俺は折口と真剣に遊ぶつもりはないで。ただの推測や。一つだけ思うんはな、俺は折口信夫っちゅう人間は、最初から全部知っとって、どうして自分が知っとるか、っちゅうことをなーんも不思議に思わんとおったんやろうということぐらいやな。思い出した端から書いていくさかいにあんなにこんがらがった文章になるんやと思うけど、弟子が聞いたら怒るかいなあ?」


 愉しそうに喉の奥で笑う志堂に、遥も笑って言い切った。


「それこそ遊び心ってもんよ!」


 鯨岡の発表資料が出来るのは、閉館間際のことである。




影   (『竜淵』   直様より頂戴)

  帰ろうとして倉庫の扉が開いているのに気付いた。

「何をしとるんえ?」


 物陰でごそごそしている二人に声を掛けると、甲斐荘が白い顔を出して安心したように笑った。その頬が、ちょっと汚れている。


「岡本。ええとこに」


 もう一人は榊原で、やっぱりこいつもちょっと汚れている手を上げた。


「おう、岡本。手伝ってくれへんか?」


 と言われても。


「……何しとるんや。埃だらけやんか」


「絵を探してるねん。卒業制作、この辺にあるって先生に聞いたんやけど」


「そう。安兄と村上さんの」


 だから手伝って、と重ねて言われて、自分も卒業制作に思案しているところだから頷いてしまった。


 だがこんなことなら物音がするからといって倉庫なんか覗くんじゃなかったと後悔したのはすぐだ。薄暗い中を窓から差し込む明かりだけを頼りに探っていくのだから手間がかかるし、埃も舞い上がる。大体、榊原の兄さんだの村上さんだのが卒業したっていうのは隣に建っている工芸学校の方で明治の話だから、うちの学校がまだない頃だ。つまりは整理が追いつかずにぐっちゃぐっちゃになっているってことで。


 何枚か額に入っている絵を捲ってから、ふと気付いた。


「甲斐荘は、もう卒業したやん?」


 だって彼は二級上だ。今も研究科に在籍しているけれど、なんでこんなことしているんだろう。それをいえば今年卒業した榊原もなのだが。


「え?そやけど村上さんの絵、見たいやん?」


「つまりは榊原に付き合ってやってるってこと?」


 そう、と頷いて、軸を開けていた彼は顔を輝かせた。


「おお!熊や!」


「熊?」


 のっそりと出てきましたよ、という風な熊は穏やかな表情をしている。作者は「村上震一」。なるほど、お目当ては引き当てたらしい。


「……それ、さっき見たような……」


 奇妙な顔をしたのは榊原で、戸棚を漁って一本の軸を取り出した。


「あ、違う。でもこれ、似てるなあ」


 広げたのはやはり熊の絵で、こちらは笹薮を掻き分けて出てくるという構図だ。どちらもやはり穏やかな表情をしている。


「あのさ、取り合えず外に出えへんか?喉が痛いわ、ここ」


 いい加減薄明かりの中で見るのにも疲れたしと、外に出ると甲斐荘が自分の汚れた手を見て唸り、榊原は無頓着にそれを尻で拭いた。がしがしと頭を掻く。


「安兄さんのが見つからん」


「それ、探してどうする気なのさ?」


「どうにもこうにも。画題でちょっと考えとって……」


 何だか歯切れが悪い。多分急に思い立ったのだろう。そんな漠然とした理由で喉を痛めたのか、俺は。だが仕方がない。雨林、苔山、紫峰と兄どもが続けて日本画家になった家だ。息子に夢を託した親父さんの根性にも恐れ入る。


 甲斐荘はと見てみれば彼は件の熊の絵を二枚見比べて唸っていた。


「何や?」


「この熊、見たことある……」


 明るいところでじっくり見れば、確かに見覚えのある「顔」で。


「──動物園の熊や」


 結論を出したのは榊原で、さすがに動物を描くだけのことはある。と思わず感心した自分に、いやこの辺で生の熊を見られるのは動物園ぐらいやろうと内心で突っ込みを入れた。


「せやけど、村上さんはやっぱり上手いなあ……」


 甲斐荘は一人うっとりしている。そういえばこいつの卒業制作は女の立ち姿だったなあと思い出す。あれは村上さんが随分気に入りで、少し手を加えるようにとかなんとかいわれていたはずだが。


「……鳥かな。鳥で行くか」


 ぶつぶつと榊原が呟く。画壇は急速に動いている。新しい場を作ろうとする動きもある。ちょっとした焦りもあるんだろう。


「俺、お前の風景画好きやで?」


 ちょっと吃驚したような顔をする榊原が面白い。な、と相槌を求めれば甲斐荘も「ああ」と笑う。


「榊原の絵は体が震える。ぞくっとする」


 さらりと言った甲斐荘に榊原は太い眉を情けなく下げた。


「……そんなん今更言うなや」


 まあ確かに。ここまで埃に塗れてから言われるのもつらいだろう。


「そやけど榊原が新しいことしたいっちゅーねんなら、止めることもないやろ。それに村上さんの絵も見られるっていうし」


「一石二鳥ってこっちゃね」


「そういうこと。まあ、煮詰まってるから気分転換っていうこともあるけどね」


 ははは、と笑う甲斐荘の影が、西日にゆらりと伸びる。鮮やかな朱と影と。


「──これもありかな……」


 瞼に瞬く幻燈に気が引かれる。小さい呟きに榊原が溜め息を吐いた。その高い鼻も夕日が染める。頬に暗い影が落ちて。


「これもありなんやろね」


 卒業制作は陰影の映えるものにしようと漠然と思った。