お気に入りの歌(『歌葉』キャンペーン入賞)

  
    試合開始のコール忘れて審判は風の匂いにめをとじたまま 穂村弘

 五月の風は格別だ。
 匂いはもちろん、五感のすべてを刺激する特別な何かがあった。しかし僕はある年齢を境に、四月の風も五月の風も区別がつかなくなってしまっていた。哀しかったけれど、ああ青春が終わってしまったんだと変に納得もした。
 きっと審判は、五月の風を何十年ぶりかに感じたんだろう。
 目を閉じ、大きく深呼吸をして、すでに失ってしまったものとこれから失うであろうものの狭間にひとり立ち尽くす球審。選手と大観衆の視線が彼に注がれている。飽和状態となっていく試合への期待感。異様なまでに張り詰めた静寂が支配する世界だ。
 やがて風の匂いは幻のごとく消え去り、静寂は審判の「プレイボール!」の声によって破られるだろう。彼は悟ったのだ。どんなに試合がつまらないものになろうとも、何かを失っていくのが人生なのだと。
 「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。(略)すべてのものは、これによってできた。(略)この言に命があった」(『ヨハネによる福音書』第一章冒頭)という聖書の一節をイメージさせる歌だ。
 また、神が天と地を創造し、一日目に「光あれ」と言った『創世記』の場面が歌の背景から浮かびあがってもくる。









言葉を信じる、言葉に力を込める


  角川『短歌』1月号の特集「ここが知りたい作歌のポイント」のなかの小松原康生氏の文章が印象に残った。
 要約すると
    @呪詛的、言霊的呪縛力をもつ歌 ⇒私が一番詠いたい歌。
   A比喩としては距離があるが外(ほか)には代替の言葉がない比喩を使った歌 
                ⇒比喩だいすき。この距離感が難しいんだよね。
   B叙景歌をもっと詠もう ⇒叙景歌でありながら叙情歌となりうる歌が詠みたいなあ。
   C時には重い歌も詠もう ⇒外見はいっけん軽そうにみえて実は重い歌って理想です。
  そして、
    歌作の一番のポイントは、勇気を出して言葉の実験をする事 ⇒勇気づけられるお言葉です。

  この5つのポイントは来年1年間の座右の銘としよう。
 
  特に@について、
 「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも、あはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。」という古今和歌集、仮名序の分が引用されているが、あらためて私も言葉の力を信じ、また言葉に力を込める思いで歌を詠んでいこうと大晦日に誓うのでありました。

  三十一拍のスローガンを書け なあ俺たちも言霊を信じようよ  佐佐木幸綱

                                                                                                    2001.12.31.








馬の歌アンソロジー


言葉しかしゃべれぬヒトに生まれたるわれを包んでしまう馬の眸(め) 宮本美津江

動物園に汝(なれ)と来しこと忘れゐるよこしまな馬に心奪はれ 長江幸彦

馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ 塚本邦雄

暮れ果てて馬も荒野もなき街のジーンズのかたき着心地にゐつ 大塚寅彦

バースデイゆたかにうねるクリームをすくえばしろい馬のたてがみ 加藤治郎

死ぬ日まで連れてゆく馬 脳に棲むロシナンテという海馬一頭 近藤達子

晩秋の光の中に透明の馬あらわれて時計を吐けり 松平盟子

シャガール展閑散として会場に馬の臭いの充満したり 岡部桂一郎

手に重き埴輪の馬の耳ひとつ片耳の馬はいづくにをらむ 大西民子

いつの日か倖せを山と積みて来る幻の馬車は馭者のない馬車 稲葉京子

負け馬に乗り換へほくほく往く生もたのしからむがわれは勝ちたし 栗木京子

風を抱く疾(はや)さで走れ馬よ背の騎手が翼に見えてくるまで 宮本美津江

一瞬のちの未来へ触らむと差し出(いだ)す首ああ断たるるな 佐佐木幸綱

美しき脚折るときに哲学は流れいでたり 劫初馬より 水原紫苑

一マイル走り終へたる馬の肌よりあたたかき晩年を母に 山田富士郎

後年のしずかな時間草はらにならびて立てる馬と青年 井辻朱美

四肢高き馬のほとりにゐし夢の馬の数のみ殖えてゆきたり 大西民子

母の名は茜、子の名は雲なりき丘をしづかに下(くだ)る野生馬 伊藤一彦

海べりの馬小屋に馬は眺めゐつ海原に棲む青きひかりを 高野公彦

しんしんと雪(ゆき)ふるなかにたたずめる馬(うま)の眼(まなこ)はまたたきにけり 斉藤茂吉

夕霧は捲毛(カール)のやうにほぐれ来てえにしだの藪も馬もかなはぬ 斉藤史

首垂れて砂漠の風に立ちつくす馬そのままに夕ぐるるなり 岡野弘彦

灰色の馬の尾にしばし打たれゐし蝦夷の夕陽は沈みてゆきぬ 坂井修一

人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどのかそけさ 釈迢空

道に死ぬる馬は、仏となりにけり。行きとゞまらむ旅ならなくに 釈迢空

たまきはる宇智(うち)の大野に馬並(な)めて朝踏ますらむその草深野  万葉集1-4(fromあとりさん) 

あらたまの年は奔馬の勢いで雪野を駆けてゆけその雪野 加藤治郎

夢に来し木馬やさしくわれを嘗め木馬になれとはつひに言はざり 山田富士郎

祭日の午後の画面に立つ馬の四肢しんかんと輝(て)るさびしさは 大辻隆弘

厩昏(く)れ馬の目はてしなくねむり麦たくましく熟れてゆく音 佐佐木幸綱

馬駆けて馬のたましひまさやかに奔騰をせり したりや! <葦毛>  斉藤史

荷をひきて港につきし馬の目の動かず海に向けられており 玉井清弘

純白の稜線駆くる裸馬われをこそ乗せてはならぬと思ふ 時田則雄

<あゆみ寄る余地>眼前にみえながら蒼白の馬そこに充ち来(こ)よ 岡井隆

あをあをと馬群らがりて夏の夜のやさしき耳を噛みあひにけり 岡井隆

水飼場まみづの匂ひくらやみに牛・馬らのみ聖家族なす 浜田到

佇ちてゐる荷馬(にうま)のまなこしづかなるひたすらにして瞬きにけり 宮柊二

塞(さい)出でてい行く曠野(ひろの)の寒ければ馬上の人は袖を口に当(あ)つ 宮柊二

奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり 葛原妙子

夕ぐれの野をかへる馬の背後(うしろ)見て祖先のやうなさびしさをしぬ 前川佐美雄

夏のかぜ山よりきたり三百の牧(まき)の若馬耳ふかれけり 与謝野晶子

馬といふけものは悲し闇深き巷(ちまた)の路にうなだれて居ぬ 前田夕暮

もし馬となりゐるならばたてがみを風になびけて疾(と)く帰り来(こ)よ 大西民子

しゆわしゆわと馬が尾を振る馬として在る寂しさに耐ふる如くに 杜澤光一郎

にんげんは牛馬(うしうま)となり岩負ひて牛頭馬頭(ごづめづ)どもの追ひ行くところ 斉藤茂吉

棚に飾るガラスの馬を核として二人つきりの寂しさに棲む 荻原裕幸

舗道(いしみち)に棲むたましひも秋となり馬なりし世の声ひびかする 水原紫苑

ゆふぐれに君二人ゐる恋ほしさや紅き馬にて身ぬちをめぐる 水原紫苑

「秋だからさくらは無(な)い」と幾たびも抱きしめて告げよ蒼眸の馬 水原紫苑

空間を馬のかたちに変へしひと われはやさしき鞍ならなくに 水原紫苑

木馬にてながく旅せし恋人をあたためゐたりその木馬焚き 水原紫苑

太陽をわが墓としてあゆみつつ馬上の恋にこころいそぐも 水原紫苑

言ひつのるひとと向かひゐてわがうちの橋渡りゆく人馬を感ず 水原紫苑

蔑(なみ)されて美(は)しき東洋黒馬の踏みたつごときSUSHI・BARの椅子 米川千嘉子

桜の日父に似る人あらはれてさなりわれ駅馬(はゆま)使ひといひたり 米川千嘉子

八月の馬乳のような陽を浴びて若き日は過ぐ過ぎて誘(いざな)う 吉川宏志

馬の腹打ちたきものを体温の抜けたる顔のひと帰り来れば 前田康子

馬のごと君を撫でればやさしさはやわらかく首おとすまで 前田康子

馬の匂い立ち込める暮れ包丁に映るわたしのいつも眠い眼 前田康子

聖五月いびつに暑くなる日日のおそらく汗のアラビアの馬 林和清

われの身はテストステロン知らず過ぐ夏ぬばたまの黒馬眠り 梅内美華子

夜は大きな青馬なれば浅葱色の目をうるませて鉄路を渡る 梅内美華子

額高き銀の馬らをしたがえてねむるがごとき風はふくなり 井辻朱美

秋晴れをきららに飾り神馬ゆけり老い痩(こ)けにける己(し)が影踏みて 鏑木正雄

鏡より馬がすんなり出でくるを夜ごと眺めて痩せたり 真冬  松平盟子

馬の名でしりとりをした思い出を丸くたたんで 明日「菊花賞」   田中槐

青い馬の走る絵葉書届きしより三年音信不通の友人  安藤美保 

天より落ちし漆黒の馬流れゆくぞ俺の目の中の川をゆらりと  佐佐木幸綱

逝く秋のはるかな丘に立つ馬をまずはつつめり闇のむらさき  佐佐木幸綱

つばさ持つものかもしれぬに馬はみな<馬>の活字に閉ぢ込められて  永井陽子

                                                                                                  2002.1.1.








インターネットに批評軸は成立しないか


 短歌研究社『2002 短歌年鑑』内の座談会「2001年歌壇展望」で永田和宏氏がインターネットで欠けているものとして次の二点をあげている。

 @歌があとで読みかえすのが非常に難しい。それで歌が残らない
 A中心のない集団の中で歌の批評軸が成立しない怖さがある点

 @については、穂村弘氏が「(歌の)レベルの問題」があると反論している。
  確かに再読に値すると感じた歌は、書籍かネット上の歌であるかは関係なく誰もが自分自身のやりかたでしっかり残していくだろう。ファイルの整理の仕方によっては、検索機能などを使えるコンピューター上の方が書籍よりもはるかに読みかえすことが容易になるはずである。コンピューター上では書籍よりも再読する歌を厳選でき、かつまた場所をとらず漠然と歌を集めることも可能であるといえるのではないだろうか。
 読みかえされるべき歌が埋もれて残らない状況はインターネットでというよりも、大量の歌集が出版され、ネット上に歌のあふれる現在の短歌界全体にいえることではないだろうか。その中でいかに良質の歌をみつけ埋もれさせることなく次の時代へと残していくかが大きな課題となっていくであろう。

 Aについては、穂村弘氏が「インターネットが全然そんなレベルにはまだない」と指摘している。
 私もネット歌会に参加しているが、最初から存在する大きな支柱のもとに集まってくる結社のような集団とはまったく異なった集団であることは間違いない。さまざまな思いをもつ人が自由に集まり自由に散っていくアットホームな場。出詠するだけでほとんどコメントを残さない人もいれば、熱心に批評のコメントをし歌会の議論を盛り上げる人もいる。そういったある程度自由な幅をもった場としてのメリットも確かにあるし、それが結社にはないネット上の集団の果たすべき役割であるとも感じている。
 なおかつネット上の集団でも批評軸は成立し得るはずだ。そこに集まる者の多数が、自分なりに集団の中心となる支柱の材料を持ち寄り中心を形作っていくという心持ちさえもっていれば。それなくしてただ公衆便所のごとく自分の歌を垂れ流す人ばかりが集まる場としてとどまるならば、今後何年たってもこういった批判は消えないことも確かであろう。結社とは異なる役割がネット集団の主催者に求められているとするならばそのあたりのバランスのとりかたであろうか。
 私の知るネット歌会ではその辺のバランスは上手く保っており、結社とは異なった形での批評軸が育ちつつあるのではないかと期待を込めながらも感じている。

                                                                               2002.1.5.






『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』を読んで


私が穂村弘氏の『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(以後『手紙魔まみ』と略。)を図書館で借りてきて読んだのは昨年の8月。歌集の中の「いいな」とおもった歌はノートに書き写しているのだが、この本に関しては1首単位で歌を抜き出すのは無意味に思えたので全歌を書き写していた。


塩谷風月さんのHP(http://www1.mahoroba.ne.jp/~shiotani/)で2001年8月19日(日)に実施されたミニシンポジウム「現代短歌の焦点」(パネラー:岡井隆氏、栗木京子氏、大辻隆弘氏、加藤治郎氏、穂村弘氏、司会荻原裕幸氏)の鑑賞レポートが掲載されており、また大辻隆弘氏もこのシンポジウムについて「未来」2001年10月号の時評で触れているということで自身のHPの掲示板(http://6060.teacup.com/otsuji/bbs)に<『手紙魔まみ』の読みについて>という文を1月7日に再掲されている。それらを拝読したのを契機に遅くなったが『手紙魔まみ』について私の感想を述べてみたい。断片的、独断的な感想であり、また既にどこかで誰かが発言していることと重複しているかもしれないが、私のひとりごととして聞いていただきたい。



穂村弘氏がよくいう「愛の希求の絶対性」ということ、そして求めれば求めるほど愛の手応えが感じられない今という時代というものを体現した歌集という印象を第一に感じた。


○いますグに愛さなけルば死ギます。とバラをくわえた新巻鮭が
○海の生き物って考えてることがわかんないのが多い、蛸ほか
○伊勢エビに名前を問えばナツガタノキアツハイチと応え給えり

海の生物がでてくる上の3首。
新巻鮭の片言の物言いをかりて宣言される穂村弘氏の「愛の希求の絶対性」。しかし蛸や伊勢エビのように、お互いに考えていることがわからない、伝わらない、ちんぷんかんぷんで希薄な答えが返ってくる今という時代。


○それはそれは愛しあってた脳たちとラベルに書いて飾って欲しい

死んでフォルマリン漬けになり「愛しあってた脳たち」とラベルを貼ってもらう以外には自分たちでは確認できないような愛の氾濫した現代。考え言葉を発することが可能なときにはまったく機能していない脳の、人間の無能性。


○夜明け前 誰も守らぬ信号が海の手前で瞬いている
○さようなら。人が通るとピンポンって鳴りだすようなとこはもう嫌

そしてその時代の只中で、誰も守らない信号機のように伝わることがないかもしれない言葉を発しつづけることの絶望感。言葉は消えても機械音や電子音の鳴りやむことはない街。


○のぞきこむだけで誰もが引き返すまみの心のみずうみのこと
○暗黒の宇宙の果てでさくらんぼの種をお口にいれたまま死す

上の2首には作者の絶望感が強く映し出されているように思う。無関心が蔓延し、たとえ他人の心をのぞきこむことまでしたとしても黙って引き返すだけしかできない私たち。それだけそれぞれがこころに深い闇を抱えているともいえるのかもしれない。


○ラケットで蝶を打ったの、手応えがぜんぜんなくて、めまいがしたわ
○早く速く生きてるうちに愛という言葉を使ってみたい、焦るわ
○コンセントに差し込む奴の先っぽをもって走るの、さがしているの

手応えのない希薄な時代へめまいがするぐらい困惑を感じ、氾濫する贋の愛ではなくほんとうの愛の言葉を発したいと願い探し求める姿が読み取れる。


○こんなにもふたりで空を見上げてる 生きてることがおいのりになる

そういった絶望感の中にいながら生きることへの肯定の気持ちは失われてはいない。生きていることが「愛の希求の絶対性」への祈りになるという作者の静かな叫びが聞き取れる歌である。


○水準器。あの中に入れられる水はすごいね、水の運命として
○あなたのものよ貴方の物よ(手の中で色水になってしまうフラッペ)

たとえ私たちが生きている世界が、そして今という時代が「水準器」みたいで、私たちがその中の水のような存在でありどこへも行けないとしてもその中で生きていくしかないのだ。フラッペがとけて形をなくし色水になってしまったような現代であってもそれは私たちのものにほかならないのだから。

元来、お互いが本当の意味で愛しあい理解しあうということは不可能なことなのかもしれない。しかし、だからこそ「愛の希求の絶対性」を信じ生きていくことが意味をもちえるのかもしれない。



次に、先に述べたシンポジウムで問題になっていた「私性(わたくしせい)」についてだが、私は『手紙魔まみ』を読んではっきりと作品の背後に浮かび上がってくるひとりの人物を感じた。まみの書簡集という形で作者である穂村弘氏を隠蔽した歌集ではあるが、それゆえに私は「ほむほむ(穂村弘)」というよりはむしろまみのほうに「私性」を強く感じた。(上記の私の感想もそれに立脚したものである。)

加藤治郎氏は『「私性」を離れても短歌が成立可能であることを示した画期的歌集である』という評価をされているが、私の読みではそのようには思えなかった。短歌はほかの詩型に比べ、「私性」が非常に強いと思うのだが、『手紙魔まみ』がその短歌独特の「私性」を離れたものであるとは思えなかった。その点については、大辻隆弘氏のいうように今後多くの読者がいかなる「読み」をするかで定まっていくことなのではないだろうか。

しかしながら、穂村弘氏が『岩波現代短歌辞典』の「私性」の項目のしめくくりで、『この詩型においては常に新たな「私」の発見こそが新たな歌の発見に繋がる鍵であると言える。』と書いているように、『手紙魔まみ』が穂村弘氏の私性への新たな試みであったことはまちがいないであろう。



○手紙かいてすごくよかったね。ほむがいない世界でなくて。まみよかったですね。

穂村弘氏をはじめとした歌人がいる世界で、「愛の希求の絶対性」を信じ自分なりにこの世界をとらえて短歌で表現していきたい。短歌を詠んですごくよかったとおもえるように。そう強く感じさせてくれた歌集である。

                                                  2002.1.8.



<追記>
加藤治郎氏から、<加藤治郎氏は『「私性」を離れても短歌が成立可能であることを示した画期的歌集である』と いう評価をされている>、という私の発言について以下のご指摘がありました。以下加藤氏のコメントを抜粋し、加藤氏の発言の真意をお伝えします。

       - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
ところで、

>加藤治郎氏は『「私性」を離れても短歌が成立可能であることを示した画期的歌集で
>ある』という評価をされている

というところ、どこから引用したのかな。
どうも物忘れがひどくて…。
塩谷風月さんのメモを借りますと、

<他から発信されなおかつ「私(作者)」に回収される「手紙」という形式、システム>

というのがこの歌集の「私性」に関する、ぼくの見方です。


自己レスです。

これ大辻隆弘「未来」2001年10月号の時評からの引用ですね。
「彼は、この歌集は「私性」中心の近代短歌的な読みの枠組みを否定する構造を持っており、
「私性」を離れても短歌が成立可能であること示した画期的歌集であるとして高く評価した。」
http://6060.teacup.com/otsuji/bbs

これは大辻さんがまとめた私の発言の要旨です。
間違いとは思いませんが、

私に回収される「手紙」というシステム

の方がこの歌集の新しさとして評価したいことなんです。
       - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

加藤氏の発言、孫引きの形で引用したため発言の真意からずれてしまっていたようです。加藤氏をはじめ、みなさん申し訳ありませんでした。
<他から発信されなおかつ「私(作者)」に回収される「手紙」という形式、システム>という加藤氏の『手紙魔まみ』の「私性」についての見方は的確だと思います。

                                                           2002.1.9.


                            
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