音無の里<後編>


 あかねは、静かに目を覚ました。そして、それと同時にとめどなく涙が溢れてくる。あかねの
目の前に泰明はいなかった。
 晴明に、泰明の居場所を尋ねても、知らないと首を振るばかりだった。幸せになれという泰明
の言葉。泰明なしで、一体自分がどうして幸せになれるというのだろうか? 幸せになれるという
のなら、その術を教えてほしいくらいだった。
 泰明が、どんな姿になろうと、自分は泰明を愛すと、そう誓っていたのに…。
 あかねは、その後も何度も何度も晴明の家を訪ねた。
 そして、晴明はあかねのその思いに根負けしたかのように、話し出した。泰明の姿がとても
見られないような姿になってしまったこと。そして、それをあかねが自分のせいだと自分を責め
るだろうからと、出て行った泰明の思い。そして、すっかり変わってしまった泰明をあかねはき
っとわからないだろうと言うことも…。そして、最後に晴明はこう言った。
「もし、変わり果てた泰明を見つけることが出来たなら…」
と。
 あかねは、必死に探し続けた…。

 泰明は、人目を避けるように、寂しい山間にある隠れ里で生活していた。昔、聞いたことのあ
る音無の里。そこでは、音や声が聞こえないから、人は誰はばかることなく泣けるのだと言う。
 晴明の元を出た時には発することが出来た言葉も、今はすっかり声が濁ってしまい、聞き取
ることも困難なものだった。
 しかし、それでも泰明は呼びたかった。この漆黒の闇の中で。愛しい者の名前を…。あかね
と…。決して届くことは無いだろう、誰にも聞かれることは無いだろうこの里で…。この声で…。
「あ…か…ね…」
 果たして、その音として発せられているのかもわからぬ言葉…。決して届くことは無い言葉の
はずだった。
「泰明さん…」
 泰明は、耳を疑った。あまりにも焦がれているから、その声を欲していたから、幻聴を聞いて
しまったのかもしれない。この声は、誰にも届くはずのない声。その声に返事が返ってくるはず
がないのだ。
「泰明さん…」
 しかし、その声は、自分を包む温もりとともに自分の頭上から降ってくるではないか…。
 泰明は、そんなことかあるはずないと、自分に言い聞かせながら、しかし、抱いてはいけない
と思っていながら抱けずにはいられない希望を込めてゆっくりと後ろを振り返った。
「あ…か…ね…?」
「うん…」
「あ…か…ね…?」
「そうだよ」
「何故…?」
 泰明は、信じられないと言わんばかりに、涙を流す。
「だって…幸せになれって言われても、泰明さん無しでどうやって幸せになれば良いのかわか
らないもの…。ねぇ? 私を幸せにしてくれるんでしょう?」
 そう言ってあかねは、微笑んだ。
「私の…こと…な…ど、忘…れたほ…うが幸…せにな…れる…とい…うのに…」
 そう言ってすっかり変わってしまった泰明は、困ったようにあかねを見つめる。
「だって、泰明さんは泰明さんだもの…」
 そう言うと、あかねは泰明にくちづけた。
 その瞬間、暗闇の中に強い光が差し込む。あまりの眩しさに、二人はギュッと目を瞑る。
「あ…あぁ…」
 泰明が呻き声を上げる。
「泰明さん? 泰明さん!!」
 あかねは、泰明の身体をギュッと抱き締める。
「うっあぁ…」

 そして、光が去った後、二人が静かに目を開ける。
「泰明さん…」
 あかねの瞳が涙で潤む。
「元に、戻っている…?」
「うん…」
 あかねは涙を流しながら、泰明の身体を抱き締める。
 泰明もまた、あかねの身体を強く抱き締める。
「ありがとう、あかね」
「どうして? 私、何もしてない…よ」
「私を好きでいてくれてありがとう…」
 泰明の声は、涙を含んでいた。
「ありがとう…」
 そんな二人を漆黒の闇の中、優しくしく光を放っている星達が、静かに二人の未来を見守っ
ていた。

 真実の愛の前では、神さえもその手綱を緩めてしまう時がある。
 それを、人は奇跡と呼ぶ…。


                       終


 山吹さんからのリクエストで「玄武のどちらか×神子で、切ないテイストの入ったほんわか甘い話」でした。ほんわ
か甘くと言う部分が、抜け落ちてしまったような気がしますが、どうでしょうか…(苦笑)? 
 文の初めの和歌の意味は、「相模嶺の小峰を見て見ぬふりをするように、忘れようとしているあの人の名を呼んで、
声をあげて泣く」と言う意味です。
 忘れたふりをしていれば、そのうち忘れられるだろうと思っていたのに…。それでも忘れられなくて、あの人の名を
呼んで泣いてしまった。あの人のことを忘れるなんで、出来るはずがない…。泰明さんっぽいかなぁと思って、この歌
を選んでみました。
 音無しの里と言うところでは、声や人が誰にも聞かれることはないと言われているのですが、本当は、伝えたい、伝
わるべき言葉だったら、人に届くべきじゃないかなぁと思って、こんなタイトルにしてみました。