(3)   金融資本主義のつまずき、世界不況、米国の覇権の行方

第一次世界大戦で英国のポンドは金本位制の崩壊と共に基軸通貨の地位を失った。ベルサイユ体制下の欧州・中近東は、独立し不安定な多数の民族国家と過大な賠償金で超インフレのドイツでのファシズムの台頭を抱え、危機の20年であった。つかの間の繁栄は米国の証券市場の崩壊で破られ、大恐慌下の世界経済はブロックで分断され、再び戦乱を招いた。それからの回復要因としてルーズベルトのニューディールは十分でなく、第二次世界大戦の軍需拡大こそ重要な回復要因といわれている。

 

その戦時中にブレトン・ウッズにおいて、国際通貨基金と国際復興開発銀行の設立が承認され、通貨価値の安定=為替相場の安定のため、金1オンス=35米国ドルと定め、ドルに対する各国通貨の交換比率を決定した。唯一、金と連結するドルが基軸通貨となった。ソ連圏の成立は、資本主義世界と社会主義世界の対立=冷戦時代をもたらした。

米国は、欧州戦後復興のためマーシャル・プランで多額の資金供与と西側陣営強化の軍事援助を行い、やがて貿易の再開・経済復興と共に欧州に滞留蓄積されたドル資金が「スイスの子鬼たち」によってポンドやフランの為替相場に流れ、流出した多額のドルにより、ドルと金の実勢価格とのバランスが崩れ、米国は財政赤字と貿易不均衡によるドル価格の下落=ドル安に苦しんだ。

 

1971年、ニクソンはドルと金価格・ドルと各国通貨との調整=ニクソン・ショックを実行し、為替と通貨の管理は、金との交換をなくした管理通貨体制となった。ドルは米国政府が印刷し使用されるが、その価値を実質的に担保するモノはなくなった。ミルトン・フリードマンの貨幣数量説=マネタリズム理論(景気循環は、ケインズのような財政政策でなく、貨幣供給量と利子率によって決定される、新自由主義。)が採用され、マネーは信用だけを担保に使用・流通する時代となった。為替は商品売買の決済=実需とかかわりなく、自由に売買できることになった。先物市場も整備拡大され、「マネー」という投機商品が、グローバル市場で、実需の510倍の規模で取引される中で、適正な価格が決定され、鞘取りで機会利得を獲得できる時代となった。

こうして生まれた金融資本主義は複雑な計算を瞬時にこなすコンピューターの利用を前提とし、規制を打破し新しい金融商品を生みだし、民衆の支持を受けながら発達を続けた。マネー・マーケット・ファンド=MMFは、小口取引が認められなかった利率の高い国債の資産運用を、投資信託方式で中産階級に解放した。クレジット・カードは、小切手支払いの手間を省き、やがて付与されたローン機能は、過剰消費を促す原因ともなったが、低所得層への零細融資=金融の民主化として歓迎され、銀行を儲けさせた。銀行・証券の州をまたがる取引の禁止規定は、訴訟により撤廃された。市場にマネーの流通を阻害する規制があっては公正な価格決定ができない。金融自由化は国内だけでなく、貿易相手国にも受け入れさせることが必要となった。

 

市場における価格決定と認識論

ここで、市場における価格決定と認識論との相似関係について一言付け加えたい。市場では不特定の参加者が、特定のものの価格についてせりをかけて決定する。参加は自由、価格の発言も自由で最高値が決定値となる。このプロセスは、認識=神学・形而上学などのえせ科学と異なる科学的理論の決定過程と同じ。ある理論の真偽は、それから演繹的に導出される反証によって否定されるまでの仮説・推測であるにすぎない(カール・ポッパー)。認識の真偽は、事実によって証明されねばならないが、その証明はそれを覆す新たな事実によって無限に新たにされる。その決定までの無限の過程が、市場における価格決定過程に類似する。

小泉改革を、市場原理主義とけなし、市場における決定を信じることが誤りであるかのごとき主張は誤っている。市場における価格決定に対する、机上のそれの誤謬を決定的に明らかにしたのが、ソ連社会主義体制の崩壊であった。

 

金融自由化=金融資本主義時代の到来を迎え、そのためのインフラ整備が各国の課題となった。米国が先を走り英国が追随した。しかし日本は戦時中の官僚システムが生き残り、資金の統制を継続した。1ドル360円の為替レートで輸出入貿易が始まり、朝鮮特需で息をついた日本は、技術導入と経営改革で力を蓄え、旺盛な国内需要と貿易自由化の恩恵を享受しつつ、金融自由化には背を向け続けた。外貨は厳しく使用制限し、国内資金も銀行・証券業界を通じて資金調達を規制、官主導の「開発主義体制」で高度成長路線を成功させた。

その成功体験が官僚の世界認識を誤り、現状に安んじる業界の意向を受け、自由化=規制緩和を後回しにしている間に政官業が癒着し、既特権の網の目が形成され、円高恐怖・外資恐怖で、改革は一向に進まないままでバブルを破裂させてしまった。バブル後の十数年の停滞は、不良資産の処理もあるが、金融自由化とグローバル化のためのインフラ整備に必要だった。 

 

少し時代は戻るが、1955年、右と左の社会党が統一した。それを受け、自由党と日本民主党による自由民主党=保守合同が実現した。この55年体制下で自民党一党政権が1993年まで続き、二大政党実現を目指して小選挙区制を導入、2009年ついに民主党政権が両院で過半数を制することになった。最後の自民党政権=麻生内閣は、永く続いたデフレから脱却中にリーマン・ショックに襲われ、選挙に大敗した。

 

 基軸通貨国の貿易収支と黒字国の米国債購入

そもそも世界貿易の発展のためには通貨が円滑に供給されねばならない。米国には商品・サービスを輸入して、ドルをばらまく義務がある。米国の消費が世界の資金循環=景気を支え、その貿易赤字=過剰消費を、黒字国の資金運用の安全志向が米国債購入が支えるという相互補完の関係が成立した。

米国の過剰消費が、ドルの暴落をもたらすという懸念は長くささやかれたが、ドルは87,10ブラックマンデーで調整後は、89年ソ連崩壊後の平和の配当と、軍からの数学者の大量金融証券界への移動によってもたらされた高度数学利用の金融商品の開発で、金融資本主義は、イラク戦争・アフガン対テロ戦争の浪費にもかかわらず、つかの間の繁栄を享受できた。

その金融商品が、住宅価格上昇という流れの中で、上昇分にローン設定し消費を促す仕組みがサブプライム・ローンまで広がり、そのリスクを複雑に分散させる商品、そのリスクに対する保険まで拡大し、金融膨張が極限まで達した時、住宅価格はすでに下落を始めていた。世界中にばらまかれた住宅関連のリスク分散商品は破綻した。

リスクは部分に止めるべきなのに、限度を越えてばらまかれたリスク分散商品は、住宅価格の下落と共にリスクそのものとなり、所有者の財務を危機に導き、リーマン・ショックをもたらした。過大融資の見過ごしや、なぜリーマンを救済しなかったかを非難する前に、

@     米国の過剰消費が世界経済を支え、過大融資やリスク分散がまたそれを支えていた

A     さらに米国民衆のクレジット・カードによる過剰消費が、GDPの7割を占める個人消費として、世界各国からの製品を受け入れた

B     米国貿易収支には赤字が積み上げられたが、輸出国はドルの運用に米国債を選んだというドル資金の循環が、米国の国際収支の赤字を緩和し、ローンでものを買う米国民の過剰消費を助けた、などを考慮する必要がある。

要するに、米国経済・通貨に依存した世界の金融資本主義体制が、米国内の事情で大災害を起こした。しかし英国ポンドがドルに基軸通貨の地位を委譲した時のように、米国経済が行き詰っているわけではない。ドルに替わる単一通貨はない。ユーロにも円にもそんな力はない。今後が注目される所以である。

 

冷戦が終わり、ベルリンの壁が崩れ、東側諸国の市場経済への復帰が始まった時、ミッテラン政権の中枢にいたジャック・アタリ氏は、米国の一国支配の危うさを是正するためにドイツと協力して統一欧州を模索し、ヨーロッパ復興銀行を作り、自ら総裁として東側の復興に当った。99年発足した統一通貨ユーロは、ドル暴落に際しユーロ圏の防波堤となった。リスボン条約は09年発効した。NHK[19892009壁崩壊が世界を変えた]0911.10

アタリ氏はいう。資本主義世界は欧州大戦後国際連盟を作り、第二次大戦では国際連合・IMF・世界銀行を作った。戦後東西に分かれた世界経済は、結局市場経済に統一され、ドルを基準通貨とする金融システムがグローバル化した。しかし各国が主権国家として存在する現在の体制では「市場を制御するルール」がない。欧州が経済統合してユーロが共通通貨となり、弱い国の通貨が狙い撃ちされる事態は回避され、議長も、財務相も選出され、政治統合が視野に入ってきた。しかし、国連の安全保障理事会とIMF・世銀が合体した世界政府が出来なければ、世界経済を誤りなくリードすることは出来ない。温暖化問題すらスムーズに処理できないほど各国の利害調整が難しい現状では、それは期待できないだろう。

幸い、リーマン・ショックでは,国際協調の下最悪の事態は回避できた。デフレはまだ続きそうだが、当分この体制で事前の策を探るしかない。      (3)おわり

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