(2)失われた20年―戦後日本の総括について      2011.2.13

                                 木下秀人

 戦後日本の経済発展を「開発主義」という言葉で要約したのは故村上泰亮氏であった(反古典の政治経済学―進歩史観の黄昏、21世紀への序説1992中央公論社)。まもなく亡くなられた村上氏は、バブルとその崩壊後の日本の政治経済の混迷を分析することは出来なかった。

この点について小生は、貿易自由化の一環としての金融自由化の遅れが致命的であったと論じた。米国からの執拗な自由化要請を日本は引き伸ばし続け、漸く取り組もうとしたときブラック・マンデーに遭遇し、株価・不動産バブルを起こしてしまった。それは1971年のニクソン・ショックにおける円高恐怖症の延長で、その時、金融自由化の腹を決め、必要なインフラ整備にかかっていなければならなかった。しかし、「開発主義」の成功に安心し慢心した日本には、そこまでの遠い見通しを持つ賢人はいなかった。そしてその点について、納得できる総括を見ることは出来なかった。

しかし昨年末日経12,28に、末村篤氏の「小さな物語を大きな物語へ」という論説が面白くて、末村氏を検索したところ、「日本経済の危機を招いたものは何か―金融と会計を学ぶ意味を考える」という末村篤氏の講演論文(講演は2002頃、立教経済研究56巻3号)

を発見した。わが意にかなう論文にめぐり合えて、はなはだ愉快、意を強くした。

このホームページの「2002年の初めに」で、小生は、「失われた10年」について、明治以来の「官僚の世代」を踏まえながら論じたことがある。

戦後入省の三島由紀夫と同世代=第3世代の官僚たちは、開発主義によって高度成長を実現させ、ジャパン・アズ・ナンバーワンを実現したが、金融自由化・グローバル化という歴史的変化に対応する改革を怠り、この国の未来を開く制度を構築できなかった。高度成長下で蓄積された政・官・財癒着システムの解体こそ小泉改革の眼目だったが、後継3代の自民党政権は継承どころか否定さえする始末。次の第4世代官僚たちは、めまぐるしく代わる政権に対応するのが精一杯で問題は先延ばしされるばかり。増税による社会保障制度の安定化と財政赤字の縮小、生産年齢人口減少、失業率5%、女性・パート・派遣労働への差別といった未解決の重要問題は、自民党に替わった民主党政権の課題となったが、この政権はポピュリズムのばらまきマニュフェストで政権を獲得したので、昨年始めて組んだ予算は歳入をはるかに上回る国債発行で、欧州の賢人アタリ氏に、もう手遅れと切って捨てられる始末。衆参ねじれ国会の行方は別として、内外の賢人たちの見解を紹介する。問題の財政改革については別稿。

 

末村論文を分かりやすく要約する。書かれたのは20012年ごろで、学術論文でなく講演なので、テーマの中心である「銀行を中心とする間接金融」と、それを支えたの「土地・株式の会計上の原価方式」にしぼって論じる。

1 日本経済が、米国の1930年代に匹敵する危機状態になって久しい。上場企業全体が赤字、それは戦後初めて。金融緩和で金利を下げても貸し出しが増えない。資金需要がない=「流動性のわな」という状態に戦後世界で日本が初めてなった。

企業には三つの過剰=設備・雇用・債務の過剰という病状があり、金融部門は不良債権をかかえて政府の支えが必要、政府部門は赤字累積で財政破綻寸前、唯一残った黒字部門は家計で、個人金融資産には余裕があり、失業率は先進国で最低だが、デフレ脱出ができないまま今日に至る。金融部門は、不良債権処理で戦後積み上げた剰余金を使い果たしてなお足りなかった。

2 金融システムが破綻した原因は、株式と土地という資産市場が、運用利回りという原則を離れて暴騰したこと。その根底に時価でなく原価表示を認める会計制度のもと、資産状態が時価で把握できない欠陥があった。欧米では時価評価が原則だった。戦後開発における日本モデルは、政府主導銀行中心の間接金融で、社債や株式の時価発行=証券会社が担う直接金融は長く押さえられており、土地取引には公示制度がなく、価格は不透明のまま放置されていた。

しかし1ドル360円と円安に設定された為替レートと、米国の十分の一という安く豊富な労働力、技術導入と技術開発、外需では広く豊かな米国市場に恵まれ、内需では戦災復興と衣食住の充足が経済活動を促し、高度成長が実現した。

日本システムへの違和感はヨーロッパが復興し、米国の貿易赤字がドルの流出をもたらし、金=ドル体制下で米国の金保有とのバランスが危うくなるにつれて表面化し、金融自由化=貿易為替の規制撤廃要求として突きつけられた。

3 是正のチャンスは2回あった。1度目は為替の固定相場制が変動相場制に変わったニクソン・ショックの時で、米国では以後金融自由化・グローバル化に向かってインフラ整備が次々と進められたが、日本は、貿易自由化は享受したが、円高に対する産業界の恐怖症から金融自由化は引き伸ばしに終始した。2度目はプラザ合意で、為替調整が行われ、円高不況回避の過剰流動性供給が資産バブルを発生させ「失われた年月」が始まる。1985年である。ドイツがマルク高を受け入れたのと対照的である。

プラザ合意の頃、米国は債権国から債務国に転落し、日本が世界最大の債権国となった。日米貿易摩擦が火を噴き、構造摩擦解消=内需経済への転換のため前川リポートが出された。株価と地価のバブルに対し、消費者物価は安定なのを理由に大蔵省は日銀の引き締め要求を抑え、ブラック・マンデーを迎え、円高回避の過剰流動性供給で資産バブルを発生させた。企業会計で株価や地価の原価システムは時価に変更しなければならなかったが、それをしなかった。

 4 日本的経営を支えた間接金融とはなにか。二つの仕掛け「土地本位制」と「株式の相互持合い」を信用創造メカニズムとして生み出される「含み益」を利用するシステム。資金調達において銀行=間接金融が主、証券=直接金融は従。二つの資産は原価で記帳されたままだから、時価との間に含み益が発生する。それがきちんと表示されないから土地・株式の価格が、金融資産にも関わらず利率と直結する運用益ベースに定着しなかった。

 株式の持合は、戦後の財閥解体で分散された企業体が、再結集する時の手がかりとして発生したが、外国資本による乗っ取り防止策としても利用された。銀行の株式保有は全面禁止でなく、流通株が少なくなるので株価引き上げのメリットもあった。いずれも戦後日本の高度成長と地価・株価の高騰をベースとしていた。バブル崩壊で金融機関が、巨額の不良資産を抱え、償却に長年月を要した理由がそこにある。 

 5 公的金融の優位。戦前の日本には、日本勧業銀行・日本興業銀行があって、債券を発行し国策に沿った資金配分をした。それが戦後にも受け継がれ、日本長期信用銀行・日本債券銀行が加わり、金融債が発行され、民間の社債市場の発達を阻害した。さらに郵便貯金と政府系金融機関の財政投融資が、本来投資銀行=証券市場が担うべき長期金融を支配し、商業銀行である都市銀行まで長期金融に手を出した。しかし国債市場・社債市場の整備はずっと遅れた。

 6 まとめ 金融自由化にはインフラ整備が伴わねばならない。企業会計制度は勿論、公社債市場整備、貸借に絡む司法制度の整備、地価の公示制度の整備などいずれも実行には時間がかかるものばかり。政治的決断で処理できる金融機関の不良債権処理とは問題の性質が異なる。自民党一党支配といわれた政治制度もまた改革の対象である。失われた10年が20年に延びた所以であろう。さらに米国では規制打破に民間が挑戦してきた歴史がある。ジョセフ・ノセラ「アメリカ金融革命の群像」野村総合研究所1997に明らかなように、それは証券・金融の自由化と同時に民主化の歴史でもある。規制改革に民間の自主性がない点に、日本の政治社会の未成熟を見なくてはならないであろう。

                               おわり

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