地震と津波と原発事故

                   2011.6.23−7.26   木下秀人

3.11地震は小金井の我が家で体験した。東海大地震対策で一階の壁を強化し、倒れやすいものは固定してあったので、本棚から本や書類が少し落ちただけですんだが、夜だったらあわてただろう。近所では、大谷石の塀が崩れたのが一つあった。

「東海地震」警戒時代が長く続き、三陸沖に地震があると津波警報が出るが、予想を下回ることばかりで、「想定外」の東日本地震では避難の遅れが心配された。気象庁の津波の予報が始め低くて、何度もの訂正が通じないで、未曾有の大被害を招いてしまった。平安時代の貞観の地震が「参考外」におかれ、あれだけ地震対策に金と人が投じられたのに、地域も規模も「想定外」とされ、地震も津波も千年に一度となり、原子力発電施設も破壊され、大災害となってしまった。

このとき東北新幹線は上下27本の列車が走っていたが、大地震の初期微動を検知し制動に成功、事故を起こさなかった(7.17日経、大林尚)ことは特記に値する。

たまたま、学士会のネットで、これらの地震対策に疑問を投げていた上田誠也氏を知り、東海地震説誕生のあらすじを探るうちに、原子力発電所の被災による事故を警告した石橋克彦氏を知った。衆議院で証言もしている。日本と東電は世界で賞賛される機会を失ってしまった。さらに、政府の予知を前提とする地震対策批判で大学を追われ、逮捕され有罪とされた地震学者=島村英紀氏を知った。戦後まもなく、真昼の暗黒という映画があったが、今もあるとは驚くべき話である。とりあえず報告する。

 

1 東海地震が地震対策の本命になるまで

 196111月、「災害対策基本法」制定、伊勢湾台風1959が契機。

1962年                       「地震予知―現状とその推進計画」=ブループリント発表。和達清夫、坪井忠二、萩原尊礼氏など多数の地震学者が参加した。

 警戒を要する9地域―特定観測地域―を設定

19646月、 新潟地震M7.5

1965年   「地震予知研究計画」=五ヵ年計画

19685月、 十勝沖地震M7.9

 19694月、「地震予知連絡会」発足。前年の地震予知(東海地方大地震説)の実用化を促進する旨の閣議了解を踏まえた。国土交通省国土地理院が事務局。

1973年6月、 根室半島沖地震M7.4、力武常次4月衆院科技特委で根室沖と遠州灘を空白域と発言が的中

197411月、「地震予知研究推進連絡会議」を科技庁に移設。後に「地震予知推進本部」

197511月、特定、関東、東海、北海道、4部会設置

1976年    石橋克彦、日本地震学会、地震予知連絡会で「駿河湾地震説」を発表、

 「東海地震」対策強化のきっかけとなる。

12月、文部省測地学審議会、東海地震の観測強化、常時監視体制整備を提案

19774月、 地震予知推進本部、「東海地域の地震予知体制の整備」=観測の強化、監視体制の充実、判定組織の整備を決定、「東海地域判定会」発足

19786月、「大規模地震対策措置法」制定、気象庁長官の諮問機関「地震防災対策強化地域判定会」=東海地震判定会設置。判定会、気象庁長官を経て、総理大臣が「地震警戒宣言」を発する仕組み。

1979年           強化地域指定、地震防災基本計画

19806月 「地震財特法」制定、地震防災地域における地震対策緊急整備事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律

19814月 地震予知推進本部、北海道部会を特定に吸収、関東と東海を統合 

19835月 日本海中部地震M7.7、秋田沖、特定観測地域、予知なし。

19937月 北海道南西沖地震M7.8、奥尻島、予知なし。

199410 根室半島沖地震M8.2、特定観測地域、予知なし。

19951月、阪神淡路大震災が発生、特定観測地域、これも予知できなかった。体制の再構築で「地震防災対策特別措置法」が制定された。

    7月、「地震調査研究推進本部」と改称、「予知」が「調査研究」となる

20011月、内閣府に「中央防災会議」設置、会長は首相、委員は全閣僚・指定機関の長・学識経験者。「地震調査研究推進本部」は文部科学省に移管、「東海地震に関する        専門調査会」設置

20016月 上田誠也「地震予知はできる」岩波書店、予知対策の偏り・狭さを批判

20023月 「東海地震対策専門調査会」、強化地域の見直し、被害想定実施

20035月 「東海地震対策大綱」を中央防災会議決定。予知が可能という前提で組み立ててきた対策を、建物診断強化など災害を減らす方向に広げた

7月 「東海地震緊急対策方針」閣議決定、地震防災基本計画修正

20042月 島村英紀「公認「地震予知」を疑う」柏書房、予知できない地震予知で多額の資金を使い迷走する政府・学会を批判

20052月、衆議院予算委員会公聴会、石橋克彦氏「迫り来る大地震活動期は、未曾有の国難である」と証言。誘発される原発事故問題を警告

3月 「地震防災戦略」策定

        島村英紀北大教授、開発した海底地震計をベルゲン大学の求めに応じて売り研究費を得たのが業務上横領と北大が告訴。損害賠償の民事告訴も。 

20062月 島村英紀氏、逮捕、詐欺罪で起訴、勾留171日、接見禁止。

20071  島村英紀氏、札幌地裁判決、懲役3年執行猶予4年。罪名は業務上横領から詐欺罪に変り、ベルゲン大の「だまされていない」との証言を無視。島村氏は控訴せず、20111月、執行猶予期間満了

3月 学士会で上田誠也氏「地震予知研究の歴史と現状」を講演。会報7

2011年3月、111446分、東日本大震災、気象庁、当初M7.9と速報、8.38.4と修正、その後モーメントマグ二チュードM8.8と発表、地震調査委員会はM8.8は国内最大、宮城県沖・三陸沖・茨城県沖すべてが連動する地震は想定外だったと発表。

13日、気象庁はこれを受けM9.0と修正

25日、モーメントマグニチュード9.0は従来の気象庁マグニチュードM8.4に相当すると比較表を発表。モ−メントマグニチュードは今まで未使用の指標。

 

2 東海地震説と石橋克彦氏

東海大地震説は、1969年「地震予知連絡会」の発足時からテーマであり続け、1976年、石橋克彦氏の地震学会・地震予知連絡会での遠州灘地震説の発表を契機として政官学あわせての観測・予知・対策体制の整備が進められた。しかし予知にはかばかしい成果は見られないまま阪神大震災を迎えてしまった。

石橋克彦氏は、昭和44年以来、茂木、安藤、力武氏によって論じられ、地震予知連絡会が観測強化地域に指定した「東海地方」に予想される地震像を、「遠州灘東半から駿河湾奥まで」にしぼって要点をまとめ、駿河湾地震は、安政地震1854以来空白が122年続き、前兆現象が(あるとすれば)いつ始まっても不思議ではない状態である恐れが強いから、直ちに集中観測を始めるべきであると主張した。

氏は、歴史上の地震の研究者でもあったが、貞観地震869年はまだ明らかでなかった。さらに地震による原発破壊の危険性の提唱者でもあった。「原発震災―破滅を避けるために」1997.10「科学」岩波書店を発表し、20052月、衆議院予算委員会公聴会で、「迫り来る大地震活動期は、未曾有の国難である」と証言した。

東海地震は未だに起きず、空白域のまま残っているが、東日本でまさに「想定外」だった貞観以来の大地震と津波が起り、周辺地域と福島第2原発に大被害をもたらした。氏が想定した原発震災は浜岡だったが、ポンプ故障で冷却できず、炉心溶融、水素爆発、放出放射能による被害は、予想通り福島原発で、それも主として津波によって発生した。氏は老朽化した浜岡12号機を心配したが、浜岡では廃炉となっており、逆により設置の古い福島で生きていて、未だに続く災害をもたらした。菅氏が中部電力浜岡原発のまだ動いている炉まで運転中止に追い込んだ時、よりどころとした地震発生確率87%という数字は、文部科学省・地震調査研究推進本部・地震調査委員会が、平成231月1日公表のM8東海地震が30年以内に起きるという参考値である。なお、そこには南海地震60%、東南海地震70%とあり、三陸沖から房総沖については古い数字がわからない。

 

3 上田誠也氏の地震対策批判

東海だけでなく、三陸沖にも、空白域がある中で、東海だけが大観測網の対象となっていたことは上田氏の学士会論文で知った。1944東南海、1946南海地震があったが、その東の部分は起きなかったので「これぞ次の地震」と指摘されたのが東海地震という。しかし30年経ったが地震は起きず、中期予知としては成功していない。

木下説 三陸沖が見逃された理由は書いてない。この地域には古くは869年、貞観地震があったがあまりに昔で対象外、まだ不明でもあった。近くは1896明治三陸地震、1933昭和三陸地震があったから、空白域とされなかったのかもしれない。

巨大予算のついた地震予知研究は、科学の論理では動きにくい体制となったと、現状を警告する。氏の論文は、学士会アーカイブス平成197月号「地震予知研究の歴史と現状」(講演は3月)で見ることができる。

上田氏は、プレートテクトニクスが専門で、地震予知など不可能と思っていたが、1984年、ギリシャの学者が開発したVAN法という、地下の異常を電磁気の観測によって予測する方法が、理論でもすぐれ現地で劇的な成功を収めているのを目撃し、地球科学の最後のフロンティアは、地震予知ではないかと思うに至った。

わが国の地震予知計画は、地震観測網の充実から始まったが、それを熱心にやっているうちに、予知という本来の目的を見失ってしまった。観測だけでこれから起る地震のことがわかる筈がない。そのうちに予知しない阪神淡路大地震が起った。そこで短期予知は当面不可能となり、「予知」が放棄され「調査研究」となってしまった。

短期予知は出来るに違いない。地震は複雑な現象だが、自然現象だから、科学的方法で予測できないはずがない。まず前兆現象を捉えること。それは地震計だけを並べても見つからなかったとすれば、前兆現象を地震以外に探るのが科学の常道。かつて前兆検出のために、地下水、ガス放出、地磁気・地電流などの地殻変動観測が重視されていたが、大規模な地震観測網の整備充実が始まると、それ以外には人員も予算もつかなくなってしまった。そして、1995年阪神淡路大震災は予知できなかった。

地震調査研究推進本部は、各地の30年以内に震度6弱の地震発生の確率を発表している。それは永年の先人の研究で分かっていたこと、しかし確率だから検証不可能で予知とはいえない。中期予知なら大きな地震の震源域を描いて、空白域があれば次はそこだと推測できる。そこでM7.5より大の地震の震源域のグラフがあり、空白域が3つ読み取れることは既述した。

問題は短期予知で、アメリカの西海岸に1857以来22年ごとにM6クラスの地震発生地域があり、大観測網を敷いて1985年にM6クラスが5年以内に起きると予報し、7年たって大きな地震が起り出したので72時間以内に起きると予報したが、発生は12年後だったという失敗例がある。アメリカでは短期予測には悲観論が支配的である。

しかしわが気象庁は、東海地震がM8以上なら短期予知可能と、大観測網を敷いて監視している。根拠がないわけではない。1944年の東南海地震、1946年の南海地震について、地殻変動が観測され、1985年に前兆と解析されている。難点は異常がほんの1-2日前に起り出したこと。

阪神淡路大震災後に、予知は放棄されたのに、観測網整備に大きな予算がついた。海溝の底まで穴を掘る深海掘削船が実働する。しかし短期予知研究は全くされていない。膨大な経費を運用する一種の産官学の共同体ができて、純粋な科学の論理主導では動きにくい体制になっている。反省すべきは研究体制である。

上田氏の推すのは電磁気的方法であるが、地震予知の主流派は地震・地殻変動以外の前兆現象にはさっぱり乗ってこない。阪神淡路の時は、偶然、何人かがいろいろな周波数の電磁現象の異常をモニターし、本震の数日前に異常を見出していた。これを契機にみんなで「地震電磁気学」を進めようということになった。

上田氏がVAN法に出会ったのは1984年。地中に流れる地電流を連続的に多地点で測っていると、地震の前に信号が出て震源もMも発生時期も大体分かるという。時期は数時間から1ヶ月、震央位置は100キロメートル以内、M0.7以内。ギリシャのM5以上の地震で1980年代に成功率、警告率60%くらい。もっと大きな地震の確率は高くて、劇的な成功の瞬間を何度か目撃した。ところが、当時これを評価したのは上田氏くらいで、国際学術誌で「とても信ずることの出来ない内容の論文」というのを「掲載の価値あり」と載せた。しかしその後も、地震予知関係者からは「不可能で素人仕事」と、地震学者でない彼らは無視されている。

阪神淡路以後、何人かの理解者が現れ、科学技術庁の「地震総合フロンティア計画」の中で、理化学研究所の地電流・地磁気観測を中心とした研究に予算がついて、電波伝搬異常の研究に宇宙開発事業団が金を出してくれた。感激して同志を募り、東海大学を拠点としてプロジェクトを担当、北海道から沖縄まで観測点を作って働いた。岩手山麓の観測ですごい信号が出て、2週間後にM6の地震が起きた。2000年の三宅島噴火では、4月末から急に変動が起き、伊豆半島の地磁気も異常を示した。噴火や群発地震の2ヶ月前だった。

張り切って外部評価委員会の評価を受け評価は高かったが、その前に「短期予知は不可能」という方針があって、担当官は「問答無用、あれは科学的評価、我々は政治的評価をする」と予算はつかず全国に作った観測点は潰され、同志たちは失職してしまった。

電気通信大学の早川正士教授を中心とする宇宙開発事業団のプロジェクトも同じ運命をたどった。いまや文科省の募集項目に、明示的に「地震予知」としたものはない。これでは研究するなというようなもの。しかし我々は研究を放棄はしていない。ボランティアみたいなものだが、国際共同研究や国際会議をしている。VAN法は直流だが、超低周波の地磁気変化や超長周波の信号を捕らえたという研究者もいる。電波伝搬の異常研究も盛んで世界的にも研究をリードしている。台湾では電離層の電子密度の日変化が地震の前にだけ起きないことを示し、フランスは、ソ連がやっていた人工衛星による地震電磁波研究を引き受け、地震から出る電磁放射を検出する人工衛星を打ち上げ、日本も参加しているが、衛星が日本上空を通る時データを受信して欲しいという依頼を宇宙開発事業団は足並みが揃っていないと断ったのは理解に苦しむ。

地震電磁気学的方法についてはなお基礎研究が必要。ロシアでは、キルギスの天山山脈で2.5キロアンペアの電流を地価に流す実験をした。翌々日くらいから地震が増え、数日で納まる。電流の刺激で溜まったストレスが出る仕掛けがあるらしい。ナマズを手なずけられるかもしれない。

地震短期予知は、普通の意味の科学的作業。科学の正道を歩みさえすれば成功は射程内にある。そのためには今の研究不在体制を変えるイノベーションが絶対必要。せめて地震観測に投じている人員と予算の1%を「短期予知」に投じてはと嘆く。

 

4 島村英紀氏の地震対策批判

 上田氏の東海地震対策批判は「予知可能」を前提に、予知研究にあまりにも無視されている現状に対する批判だった。そこで危険地域が東海にしぼられる経過を探っているうちに、地震予知は不可能とする島村氏の、「公認「地震予知」を疑う」に出会い、氏が「私はなぜ逮捕され、そこで何を見たか。」の著者で、この批判が元で逮捕され有罪判決を受けたことを知った。氏のホームページを検索し、氏の主張に納得した。氏の支持者は、裁判員裁判だったなら有罪とはならなかったろうという。司法改革の意義が明らかである。

島村氏の主張を概観する。

41 地震予知は難しい。

地下の状態はまだ良くわかっていない。地震は破壊現象であって、物理でも工学でもその解明や予測の成功例はない。天気予報には豊富なデータがあり、予報するための方程式があるが、地震にはプレートの衝突に伴う歪みの蓄積が地震となる方程式がない。

 日本の地震には、海溝型と内陸直下型があるが、海溝型はプレートの動きの蓄積だから、一度起きると次までの長期予知は可能。それが空白域であるが、その不確実性は「東海地震」で明らか。短期予知こそ大事だがそれが難しい。英国の科学雑誌ネイチュアが1999年「地震予知は可能か」という公開討論会をしたが、上田氏の推すギリシャも日本も参加せず、まとまった結論は「不可能で研究に値しない」だったという。

地震現象は事例が少なくそれぞれ特殊なので、定量性・再現性・普遍性という科学に必要な要件を満たすことが難しいという。

42 大規模地震対策特別措置法

略称大震法1978は、東海地震の予知可能を前提として、社会や人々の被害を最小限にするため、殆ど戒厳令のような規制を可能とする法律で、予知研究の必要を訴える学者の提言は1962年に始まった。予知が出来るか10年観測して検証しようとした。1949年発足の文部省の「測地学審議会」がこの提言を取り上げ、「地震予知研究計画の立ち上げを建議し、1965年から5カ年計画として17千万円の予算がついた。1949福井地震・1964新潟地震が背景にあった。

予知研究は大学に限られず、文部省・気象庁・海上保安庁・国土地理院・工業技術院地質調査所・電波研究所・科学技術庁などがいっせいに予算と人員の獲得に走った。1969年地震予知連絡会(国土地理院)、1979年地震防災対策観測強化地域判定会(気象庁)、1995年地震調査委員会(総理府)ができ、地震がらみの政府委員会は三つとなり重複している委員が多い。 

 予知計画の拡大と歩調を合わせるように話題となる地震が起きた。1973根室半島沖地震は、指摘されていた空白域を埋めるように起き、予知の成功とされ予算増加に寄与した。前兆となるデータが集まれば予知できると信じられ、各省庁の研究機関が別々に予算を取り観測したから、地震予知は装置産業化し、予算はいくら増えても足りず、研究競争は成果の過大発表を招き、多くの無駄を生んだ。

43 東海地震説の衝撃

 19765月石橋克彦氏の発表は、次第にニュースとなり、10月国会で氏の教室の上司浅田敏氏は、「地震予知は出来る」と証言し「予知技術がすぐ進むかは難題」と付加、観測はしたいが結果は分からないという当時の学者の考えを代弁した。11月測地学審議会は予知計画の見直しを建議した。19781月伊豆大島近海地震死者25人が起きて、予知計画の追い風となった。福田赳夫首相の指示で、19786月、大震法は成立した。

 地震学者の予知についての考えはまちまちで、「可能性はある」とはいうが「予知できる」とは明言しない。「予知できる」を前提として法律を作ろうとする官僚は困って、政府側の気象庁の役人に「常時監視していれば前兆現象が捉えられると予測している」と証言させた。世界で初めて機械観測による地震予知が実現できるなら、政府が予算を増やしてくれるなら観測網を増やし防災に役立てたいという考えもあった。しかし、地震学会は議論しなかった。「予知は不可能」と予知に向かって走ろうとする体制に叛旗を翻すほどの勇気や根拠は誰も持っていなかった。

44 観測網の整備、予知は出来なかった

 大震法成立後、予知計画は順調に進み、予算は1994年で年70億円となり、発足以来の30年間に人件費を除き1800億円、殆どが観測網の拡張・維持に当てられた。研究財政は硬直化し、日常観測に忙殺され新規研究に振り向ける余裕はなかった。大学間に縄張り争いも生じた。

 地震予知のための観測網は全国に張り巡らされたが、大学も・官庁もその維持・拡大に時間と金を取られ、日常の観測とその処理が主な研究となってしまった。予知研究は観測業務に埋もれてしまった。観測点は拡充されたが、前兆の捕捉は進まなかった。学会は議論も発言もしなかった。メディアのチェック機能も働かなかった。

 そこへ阪神淡路大地震が襲った。予知できなかった国は「地震予知」の看板を下ろし「地震調査研究推進本部」に架け替えた。「前兆の解析」や「予知を研究」する研究室や設備が姿を消した。しかし予算は劇的に増えた。740億円が補正され、以後年200400億円で推移、防災工事抜きの観測だけである。推進本部の所管を科学技術庁としたが1998年、行政監察局から「どの機関が何を観測するのか、観測結果の収集・分析の仕組みや計画の定期的見直しの仕組みもない」と、手厳しく批判される始末。地震予知連絡会も業務整理を勧告されたが、既得権を持つ官僚の抵抗と、学者の希望や要請を受けて政策を組み立てる文部省に対し、原子力・宇宙開発のように国策として政策を推進する科学技術庁には、学者の意見や要請を受け入れる余地はほとんどなかった。二つは統合されてもほとんど水と油の関係だった。その科学技術庁がもんじゅ事故を起こした。削られるはずの予算を、阪神淡路後の地震調査研究の増額が救った。 

45 東海地震対策大綱の問題点

予知前提の大震法を廃止せず2003年、政府は、予知できないことを認めないまま、不意打ちに対する防災対策を織り込んだ「東海地震対策大綱」を制定した。観測情報・注意情報・予知情報という分かりにくい3段階は、予知を前提とする大震法の下で予知が出来ないかもしれない現実を織り込むための無理であった。

 気象庁は、地震予知のため地殻の微小な変動=プレスリップを検知する「体積歪計」を多数設置した。しかしプレスリップは地震だけで起きるとはいえないし、計算に時間がかかって予知にならないかもしれない。国土地理院は、地殻変動観測に米国製GPS受信機1000台を全国に配置した。しかしスリップが地表か地殻か地震に関わるかに定説はない。観測データは隠しても非難される。発表しても問題を提起するだけ。

 対策大綱は、東海地震の被害想定を、予知成功と不意打ちに分けて発表したが、新幹線と浜岡原発の被害は予測困難として考慮しなかった。世界の原発でM8クラスの巨大地震の想定震源域にあるのは浜岡だけ。原子力委員会は設計指針を阪神淡路地震後に見直ししたかは明らかでなく、炉心溶融で放射性物質が放出される危険性は想定していない=「想定外」。

 対策大綱は、警戒宣言が、観測情報−注意情報−予知情報と時間的余裕を持って発せられるという印象を与えてしまった。警戒宣言なしに襲ってきたらどうするのか。

 すべては、地震予知は出来ないのにそれを認めず、予知できることを前提とした対策に終始している政府に責任がある。

46 超巨大地震の可能性

 東海地震を想定して大震法が制定されて25年過ぎた。まだ起きるという学者はいるが、南海地震と連動して超巨大地震として発生する説もある。過去に宝永地震1,707が、静岡沖から高知沖まで及んだ。195219682003十勝沖地震、1973根室沖地震は太平洋プレートと東北日本を載せている北米プレートとの衝突で起きた巨大地震である。プレートがぶつかり合う縄張りの境を作っているのは、プレートが海底で生まれたときの古傷ではないかというのが私の仮説で、20年かけて海底地震計を開発し、日本近海・世界の海で謎解きの基礎研究に挑んでいる。

47 逮捕と有罪判決

 島村氏は、20042月「公認「地震予知」を疑う」を出版、「政府がやっている地震対策に対しての辛口の批判としてこの本を書いた」とあとがきに明言し、最終章「フィクション2004年夏」を書いた。体積歪計3台が異常値を示したので警戒宣言を発し、判定会が召集されたが、その後3日たったがデータに変化がない。委員に地震予知の専門家はいない。どれが信号でどれが雑音か見分けられる確証は誰にもない。新幹線も東名高速も止められて経済への打撃が大きいので警戒宣言を解除したいが、その基準が決まってないので誰も言い出せないという話。

それが役人を立腹させたかどうか、島村氏は20062月逮捕された。本人はそこまで予期しなかったが、北海道大学に内部告発者がおり、副学長がそれを受け「業務上横領」で告訴した。札幌地検は、業務上横領では立件が無理だと判断してノルウェーのベルゲン大学を被害者とする「詐欺罪」で逮捕・勾留した。ベルゲン大は「詐欺にあった覚えがない」と明言した。しかし200910月検察は「ベルゲン大ミエルデ教授に売却意思・権限があるかのように装い、受領する金員を自己の用途に費消する目的で、北大が管理する国有財産である海底地震計等の売買代金名下に合計2026万円を詐取した」と懲役4年を求刑した。20071月札幌地裁は懲役3年執行猶予4年と判決し、島村氏は控訴せず、今年14年が過ぎ有罪判決は消えた。控訴しなかった理由は、被害者とされた検察側証人が「だまっされたと思っていない」と証言したのに、その事実は黙殺され、検察側の論告どおりの「理由」でなされた判決、控訴しても無駄であろうという、日本の裁判システムに対する怒りと失望である。裁判員裁判なら無罪だったとの見方があることは既述した。も一つ島村氏が書いている話、米国のナショナル・ジオグラフィックのサンフランシスコ地震100年特集で島村氏が2005年取材され「地震予知ができるという根拠が薄弱なことを指摘」し、20064月英文版では載っていたのに日本語版では削除されていたという。恐ろしい話である。

 地震計は部品を集めて作り、ノウハウを蓄積して補正しながら使うもので、北大の備品という実態とは遠い。北大は別に損害賠償の民事訴訟も提起した。ベルゲン大からの共同研究費は北大の事情で島村氏の個人口座に振り込まれ、私的消費は立証できなかった。島村氏は、逮捕・勾留で継続できなくなった海底地殻の研究を続けてもらうため研究費の残金1850万円を北大に返却することで200610月和解した。和解金は研究費の残金であって損害賠償金ではない。この時点で北大の告訴の理由は消えたのだが刑事訴訟は継続し有罪判決となった。誰が蔭にいて北大を操ったかは分からないが、操った人、操られた人、そして検察の不当な権力行使が悲しい。他方、島村氏には支援する仲間がいて、ネット上に裁判情報を詳報し国家権力に対抗した。今でも見ることができる。

東日本大震災はまたも予知なしで起き、立論の正しさが明らかとなった島村氏は、地震問題の専門家として健筆をふるっている。

 

おわりに

かつて満州で関東軍が張作霖爆殺事件1928を起こし、1931石原莞爾が独断で引き起こした満州事変がそれに続き、日中戦争から対米戦争への流れを阻止できなかったように、地震という災害に対処する政治・行政は、科学的知見だけでは動かず、一旦方針が決まると、「つぎつぎと、なりゆく、いきおい」(丸山真男)に追随するばかりで、途中で路線変更はできなかった。その中で声をあげた勇気ある学者が小数いたが、体制批判に対し「真昼の暗黒」まがいの司法権力行使がまかり通ったことは嘆かわしい。

亡くなった吉村昭氏が、三陸の村で明治と昭和の大津波についてした講演=文芸春秋2011.7を読んだ。二度とも魚が驚くほど大漁、井戸の水位の低下、沖合に発光現象などの前兆があったという。しかしこれは地震予知ではない。

関東大震災後の調査で、多くの人が死んだ火事の原因は、「昼食時だったので炊事の火」というのは俗説で、工場・学校・薬品会社の薬品の落下による発火が主原因という。小生も研究所時代にその種の地震対策に関わった経験がある。

戦時中に事故で沈没した潜水艦を引き上げたところ、兵員室に整然と寝ていて遺書まで書いてあった。外国の例を見ると錯乱して出口に殺到状態が普通という。江田島の佐久間艇長の物語は小生も知っている。今回の震災でも、阪神淡路でも、日本人が整然と行動し略奪騒ぎがないと外国人に賞賛されているが、それは関東大震災でも観察されているという。良い点を伸ばし、悪いパターンからは早く抜け出したいものである。               

おわり  

 

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