4 村田聖明氏の大戦下米国留学記とわが米国観      2012,1,12−31

                                   木下秀人

終戦を旧制中学1年で迎えたから、小生の米国知識は戦後に始まった。田舎だから進駐軍を見ることも少なく、現代日本文学全集の少年文学集で若松賎子訳の小公子が米国育ちの少年の率直さが老公爵の心を和ませていく話は、今にして思えば米国庶民文化の英国貴族文化に対する勝利宣言ともいえるものだった。父の蔵書でシンクレア・ルイスの真鍮の貞操切符、これは分からなかったが、鶴見祐輔の北米遊説記では、モルモン教という一夫多妻の新興宗教があること、サタデー・イブニングポストという新聞があることを教えられた。英文で読んだワシントン・アーヴィングのリップ・ヴァン・ウィンクルは浦島物語として面白かった。大学時代にエーリッヒ・フロムやカレン・ホルネイなど精神分析のフロイド左派を読み、人格の形成・社会の動因について学ぶところがあった。中屋健一先生の宿題で日比谷のCIE図書館に通い米西戦争の原因を調べ、イエロー・ジャーナリズムの存在を知った。内村鑑三を読んだがキリスト教徒にはならなかった。卒業してロマン・ローランのラーマクリシュナの生涯で、若年で無名の彼を一躍有名にした世界宗教会議がボストンであり、円覚寺の坊さんの通訳で行った鈴木大拙氏がケーラス氏の下に止まって大成したこと、西田幾多郎氏との交友を知り、神谷美恵子氏がフレンド派の学校で体験する瞑想を深く受け止めた。猿谷要氏の著書には、現代米国の依って来る歴史的背景を教えられた。

 「風と共に去りぬ」を読み、黒人差別のKKKを知り、それを批判する人々もいることを確認できた。アイゼンハウアーが大統領離任演説で嘆いた産軍共同体は、マーシャル・プランによるヨーロッパ復興と共に明らかとなった東西対立=冷戦下で膨張を続け、米国はベトナム、イラク、アフガンと軍事介入の魔手を広げてしまった。そのなかで、ケネディ政権下で始まった公民権運動=フリーダム・ライダーの記録2011NHK日本賞受賞作品は、人種差別撤廃という大義のために身を挺した米国人の姿を活写して感動的で、昨年それが作られた意味を考えさせる。

 

さて、村田氏の本は、まさに最後の留学生として日米開戦の1941年に渡米し、サンフランシスコの語学学校に7月入学、白人家庭のスクール・ボーイとして働くうちに129日を迎え、邦人有力者は翌日拘束されるが、本人は翌年2月「敵性外国人登録」はするが学校へは通えた。219日大統領は軍に市民・外国人を排除できる地域設定健を付与、316日月謝が切れるのを機に学校をやめた。翌日、FBIが来たが事情聴取だけで帰る。この日大統領、「戦時転住局」を設置し転住センター設置開始。陸軍はすべての日本人を、太平洋岸から75マイルの「第一地域」から内陸の「第二地域」に移すことを決定。自発的に立ち退く場合、移動先は強制されないというので、下宿先の邦人の親戚の住むヴァイセイリアという町に一緒に326日に移り、28日たくさん荷物が届く。総勢14名。映画を見たり、ドリットルの東京空襲のニュースを聞いたり。邦字新聞もある。62日、第二地域の日本人にも40キロ以上の旅行禁止と消灯令が発令。

64日入管事務所から、1月前に出しておいた、働いて学資を得られるよう身分変更の申請が回ってきたので手続きするようにとのこと。その手続き研究のため陸軍事務所に行き、中西部の大学に入る方法はないかと尋ねると憲兵司令官に手紙をここで書けという。それを発送して、ミズーリ州の大学入学申請の手紙を送った。この大学は昨年秋、英語力さえあれば入学許可すると返事をくれた大学。翌日がミッドウェー海戦米軍大勝利のニュース。8日憲兵司令官から拒否の返事、15日大学から拒絶の返事でがっかり。しかし英語学校の先生がわざわざ尋ねてきたり、町の人々の人情が127日を境にして変わったとは思えない。手紙を書き、友人とビルの屋上で知ってる限りの歌を歌って慰める。

85日、アリゾナ州の収用所行きで荷物作り、翌日トラックに載せ発送、この町の4ヶ月の印象は、人情味に溢れ、美しく心地よいものだった。モハベ沙漠はモハベ・インディアン保留地、最高気温は50C、雨は少なくコヨーテ、ガラガラヘビ、さそりが住み植物はメスキートと潅木のみという。そこにポストン収用所が三つのキャンプに分かれてあり、キャンプは二列に並んだ14の居住棟のほか食堂、娯楽室、トイレ、シャワー室、洗面所、洗濯室、アイロン室の棟が居住棟の中央に並ぶ幾つかのブロックで構成され、居住棟は27畳ほどの部屋4室で、一室58人=2所帯が同居。壁には釘が出ていた。ベッドは折りたたみのキャンバス張り、わら入りのマットレスに軍用毛布。最初は親戚の女性たちと住んだが、やがて男たちと同居。夏はサンドストームで砂が寝ている顔にもかかり、しかしシャワーは熱い湯が出る。トイレには仕切りがなかった。

キャンプにはアメリカ人の官吏はいたが、基本は自治で、住民代表が構成する議会があり、住民が選ぶ行政官補佐がいた。仕事で働けば報酬が出た。ブロックの世話人は共用バラックに事務所を持ち、そこに教会、託児所、図書館、などがあり、空いた部屋は小中学校の教室となり、村田氏が英語や日本語を教えるのに役立った。野外で映画を上映することもあった。

村田氏は、早速皿洗いの仕事にありついた。鐘が鳴って住民が食堂に集まる。お茶と水を注いで回る。食事が終ると各自洗い場に食器を持ってくる。大きなステンレスの水槽のお湯に石鹸を溶かし何百枚の皿を洗う。月16ドルで陸軍2等兵と同じだった。後には全員に月7ドルが衣料手当てとして支給された。「衣食住」が保障された。若い人は楽団を組織し、ダンスパーティーも行われた。大部分の成年男子は就労し、働かない中高年にはメスキートを拾って彫刻する人も現れた。

 日が経つにつれ慣れ落ち着いてきた。ここには外部生活にない良さがあった。回りはみな同胞という心安さ、白人社会における少数民族意識からはなれ、移民として渡来以来はじめて感じる平穏があった。だから翌年村田氏が永久出所許可をえてここを去ろうとした時、まだここにいるのが安全という人がいた。真夏の平均気温43度、しかし湿度は低く日陰だと汗は流れない。水の蒸発と扇風機で冷やすクーラーを自費で備えしのぎやすくなった。シアーズ・ローバックのカタログで自由に買い物ができ、売店には冷たいもの、日用雑貨、新聞があった。収容所の周りには有刺鉄線が張ってあったが、炎天下の広大な荒蕪地、脱走など不可能。最初は屯所に兵隊がいたがそれもいなくなり、日が落ちてから外に出てメスキート林を散策できた。1942816日駅に着いた住民の買い物を80人で取りに行く。電気冷蔵庫、ダブルベッド、電気ミシン、机。

この頃の感想、「ここの生活にいささかの愛情さえ感じはじめる。できるだけ機会を求めて自己を鍛え磨きたい。」

職業紹介所ができ、日本語を教えたいといったら、通訳・翻訳の成人教育部に配置されたが、最初はバラックの残材で机や椅子を作り、やがて米人職員の講演の通訳、倉田氏の提案で英語教育に発展した。月給は19ドルとなった。英語教室は二クラス、初日は98日、食堂の隅で大声を出しても届かず、生徒は殆ど小学校も4年程度の人たち。そのうちに学力に応じて初等・中等・高等にわけ、村田氏は30人の高等科を担当、生徒は母位の年配の女性で男子は1人、教材はリーダーズ・ダイジェストを使った。12月以降、要望に応えて日本語教室を開き,さらに忙しくなった。夜の中級と上級を担当し、教材は自作で謄写版、授業は英語で行ったので、英語の勉強に大いに役立った。ハーバード大学のエリセイエフ、ライシャワー両教授編の日本語教科書2巻は現代古典の文学・漢文・日本史・軍事・新聞・手紙・電報まで含む語学将校向けの教材だった。富山房の英和大辞典、研究社の和英大辞典、啓成社の大字典の写真復刻本は、生徒も何冊か注文した。二世たちの日本語熱には、戦時中の米国政府が日米両国語を駆使できる人材を求めていたという実利もあった。村田氏はそれに気付かなかったが、生徒の半分が若い女性、良い生徒で、励みになった。愛を告白され途方にくれた。歌舞伎「義経千本桜」上演を主宰し、ガリ版刷りの文芸誌「もはべ」を発行する60がらみのハーバードで学んだという男性もいた。

収容所に入る前には、日系二世はこの収用所転住を批判していると思っていたが、彼らは唯々諾々と受け止めた。二重国籍の彼らにとって戦争は、二つの祖国の戦いであった。一世たちは米国の公立学校に学ぶ彼らを日本人学校にも通わせた。二世たちは圧倒的に親日だったが、その理由は、白人米国人による差別だった。

戦争3年=1943年春、ポストンに二世たちに入隊勧誘の波が押し寄せ、志願しなくとも召集される。今志願するほうが有利だと強調した。相当数が志願した理由は、キャンプ生活の退屈から逃れるためだった。510日、20名の志願兵の壮行会が開かれた。一人ずつ台に上り、女性にレイをかけてもらい観衆が拍手、親族は赤いバラの造花をつけてもらって、トラックに乗り「蛍の光」を歌って終り。米国国歌などなく、日本と違って悲壮感はなかった。

日本との通信は、国際赤十字を通じて電報が打てるとわかり、19421012日ブロックマネジャーに託した電報は、1222日日本赤十字を通じ父の手に届いた。父からの返電は翌年21日に届いた。それから2週間後、真珠湾攻撃の4日前に上海の友人が出した手紙が、12ヶ月かかって転送されてきた。

19431128日入国管理局の役人が来た。大学に行くため働きたいからと身分変更の申請をし、禁足令で行けなかったのに、書類が村田氏を追ってアリゾナ州サンルイズに回され、係官が申請者を収容所まで尋ねてきた。状況は村田氏に有利になっていた。保証人の大伯母は強制収用で収入を失い、村田氏は学業のためには自分で稼ぐほかなかった。管理官は了解し分類変更の書類を作り署名した。1月1日「戦時転住局の許可さえあれば、働きながら認可された学校で学ぶことを認める」という返事をくれた。

次は入学できる大学を探すこと。すでに何度も断られていた。しかし19434月、戦時転住局は、外部に就職先のあるものには永久出所許可を出す方針を明らかにし、当地当局は大学入学希望者に助言をしてくれ、シカゴが良かろうとなり、そのためには外部に仕事を求め、就労のための出所許可を得るのが良いとなった。運よくユタ州に住む知人の世話で、ソートレーク市で食堂経営する日本人が雇ってくれることになり、1週間後に無期限出所許可申請手続きを終えた。外部に仕事のあるものは出所させるのが転住局の方針だった。512日許可が下り、17日出発と決めた。生徒たちにはショックだったが、惜別の辞を書いて贈ってくれた。英語高等科の婦人方も餞別をくれた。88日から300日足らずを過ごした収用所だった。

パーカー駅に同じ列車でフェニクスへ行くという生徒がいて、S嬢からのすばらしい手紙とA嬢からのお弁当を渡してくれた。列車は途中で降りてバスとなるが8時間間がある。モーテルでシャワーを浴び本物のベッドでぐっすり眠った。端の下で過ごした仲間は、モーテルでまともに扱われたことが信じられなかった。バスはソートレークまで24時間、とちゅうの食事は米国人の客がハンバーグとコーヒーをおごってくれた。

ソートレーク市で知人に会い、ディズニー映画の幕間に、真珠湾攻撃とコレヒドール要塞陥落の日本のニュース映画を見た。27日食堂に主人にお礼に行き、転住局の分室でシカゴに向かう許可を得て、列車でシカゴに向けて出発した。デンバーで超特急に乗り換え、隣席の男性は爆撃機でアリューシャンからの帰り日本戦闘機に襲われ顔にやけどがあったが、日本に行ったことがある、日本をこよなく愛する、アメリカ人の半数が日本へ旅行し、その美しさと日本人の親切をしったなら戦争は起こらなかっただろうといった。529日午前シカゴに着いた。

教会運営の宿泊所が満員なのでYMCAに泊まった。ポストンで雇っても良いと連絡がついていたK弁護士を訪ね、ノースウェスタン大学はどうかというが、行ってみると海軍委託研究があって敵性外国人は入れられないという。シカゴ大学は夏期講習はないという。結局YMCAのカウンセラーから聞いたセントラルYMCA大学の夏学期に登録に行く。書式に記入させるだけで身分に何の関心も持たなくて拍子ぬけ。会計窓口で授業料を払うと大学1年生。国を出てから2年目で念願のアメリカの大学に入れた。就職係に聞いて近くのYMCAホテルの食堂のパスボーイとなり、住居もそこに移す。仕事は汚れた食器を集めて洗い場に運ぶこと。同僚は156歳の黒人少女たち。勤務は16日から始まったが午後39時、翌日は59時、翌翌日は511時。4日目は疲れてトレイを落とし食器をこわしてしまったが文句は言われず、しかし辞任して15時間半で8ドル78セントを受け取った。大学は町の中心部の高層ビルにあり夏学期は621日に始まる。

K弁護士事務所はYMCA大学の隣にあったので、時々立ち寄った。彼はアイルランド系で親切に話し相手になってくれた。アメリカの主流はWASPであり、ユダヤ人やアイルランド人が差別されていること、日米戦争はルーズベルトが仕掛けさせたのだと、大統領をボロクソに言って驚かせた。

1943年半ばから、戦争のニュースは日本軍の劣勢ばかりとなった。5月末政府は第三次戦争国債を発行、「バターン氏の行進」を宣伝に使った。シカゴにはBeat the JapとかLose talk does reach Tokyo など反日ポスターが溢れていた。しかし日本人と知って話しかける人もいた。922日の新聞は、東京で疎開が始まり、学生の徴兵延期特例廃止を伝え、1021日神宮外苑の学徒壮行大会を伝えた。「祖国の急を知りながら、安閑としてこの汚い町で塵埃を吸っているのは心苦しい」と日記に書いた。昼も夜も勉強や仕事に忙しく、新聞もゆっくり読む閑がなかったが、11月戦後日本処理に関するカイロ会談があったことを知った。

それより先715日、国務省が,第2次交換船で帰国の申込書を送ってきた。後にこれは父が帰国者から聞き、外務大臣に働きかけたと分かった。しかし両親の想像と大違いで、既に収容所を出て大学生活を享受する村田氏は、帰国せず残って学問する道を選んだ。1944122日父宛のその電報は、10ヶ月かかって1123日に届いた。

夏学期の前半は経済・英語・極東史の3科目、後半は心理学・地質学・英語。秋からシカゴ大学と思ったがだめで、YMCAに英語・政治学・生物学・ドイツ語など5科目登録、授業料120ドル。19441月、フィラデルフィア学生転住委員会から、シカゴ大が日系人を入れるようになったという。29日知能検査を受け、31日適性検査。申込書を憲兵司令官に送付。27YMCA新学期,ドイツ語・社会学・自然科学・米国史。414日憲兵司令部から調査官が来て3時間半事情聴取、狂信的愛国者でないかが主か。

YMCA食堂のあと勧められたアルバイトは精神病院の受付事務。週日は午後59時半、土日どちらか午後1時からで、勤務日は翌朝まで宿直。部屋代・食事代・洗濯代無料で月30ドル。患者の扱いに戸惑う。同僚の女性に好かれたり、同じく日系男性に羨ましがられるが精神不安定の院長に愛想が尽きて辞め、大学で知り合った日系2姓のアパートに移る。

1944619日そこにFBIが訪ねてくる。シカゴ支局で尋問。渡米動機、中学の軍事教練、国家観、天皇観など、ノースウェスタン大学へ入学打診に行った時、検事局の許可を得なかったことで近くの検事局へ行かされ、検事補の尋問を受け無罪放免の名刺をもらう。それをFBIに渡しアパートの家宅捜索を受け日記帳と武道大会の写真、友人がくれた戦陣訓の序の英訳を持っていった。午後5時終る。持っていった書類は、3ヵ月後に帰ってきた。さらにFBIの尋問調書も35年後の19796月、写しが送られてきた。情報の自由法により請求した。

大都市の高層ビルの大学では殺風景なので、緑の校庭のある大学に転校を照会し、ミネソタ州カールトン大学を推薦された。手紙を出しシカゴにある代表事務所を訪ね、大変結構といわれ、日本人というが全く気にしない。YMCAの単位取得証明書を送り、入学許可は75日に届いた。YMCA13ヶ月44単位のおかげで2年生に編入。戦争のせいで女子800名男子60名という不均衡で、残った男子は何らかの理由で戦争にいけない者、中南米・ギリシャ・トルコ・アイスランドの外国人が数名で、全員かつての女子寮に入れられた。大学のあるノースフィールドは人口4500人、州都セント・ポールから60キロ離れている。一帯は麦やとうもろこしの農場、牧場、町には食堂が23軒、映画館が1軒、他にセイント・オラフという大学があり、学生は大事にされた。1966年創立の大学は町の中心部から歩いて10分、寮監は中年の婦人、22歳の村田氏は最年長で、寮生は日本に関心ありよく部屋に来て遅くまで雑談した。村田氏は柔道を演じたり、「東西は理解しあうことで仲良くできる、そのために私はここにきた」と話してほめられ、女子学生とも友達となる。教授陣にも人気がありミネソタ大学で陸軍の依託学生に日本チリを教えている教授に頼まれ200人の依託学生の前であらかじめ出させた質問に答え、食事後も部屋に招かれて談笑した。

1944年も半ばを過ぎると、戦後の日本をいかに処理するかが問題となり、中心は天皇制だった。米国の利益のために天皇制を温存しようという説と、天皇制は廃止して共和制にしなければならないという説があった。後者を代表する論文は、孫文の息子=孫科が外交専門誌の載せた「天皇去るべし」で、中国・アジア学者=オーエン・ラティモアも「アジアの解決」で「日本が改革で民主的君主制を達成できるとするのは間違い。日本国民は天皇制を引っくり返すだろう。われわれが天皇を利用しようとするのは大きな間違い」と主張した。ワシントン在住の日本人ジャーナリストの「日本を降伏させる最も効果的な方法は、空襲で皇居を抹殺すること」という発言にはこの人が満州国擁護論を書いた人だけに驚いた。この種の主張が学生新聞にのったので、反対論を1945414日に載せてもらった。「教育ある日本人は、天皇の先祖が天から降ってきたゴッドなどとは信じていない。そんな神話はむしろ外国人の心の中にある。誤解が生ずる原因は、二つの対照的な文化の間に、理解を生み出そうという知的な努力がなされなかったからだ。日本語のカミはgodでもGodでもない太古の英雄、アニミズム的概念で自然そのものでもある。天皇は国家の象徴で、国家の概念は国民と重なっている。兵隊が天皇のため死ぬのも、同胞のため死ぬのも、祖国のため死ぬのも同じだ。三つのものは一つ。日本の1968年の革命は、君主制の覆滅でなく君主制の無名からの復活であった。この天皇制の破壊は、超ゆべからざる文化的抵抗に直面するだろう。」編集者は、この小論を国務省・軍の上層部・グルー大使の意見と同じようだと註した。

夏休みにシンシナティ出身の女性の豪邸に招かれ、さらに反対方向のトリードーの女性宅で歓迎されサマー・コテッジに泊まる。父君は帰りに学費の心配までしてくれた。

シカゴ大学の夏学期を申込み、神学校の寮に泊まり、アルバイトは学生向きの食堂のパスボーイ食事つき時間40セント。夫がマンハッタン計画に係る女性の応接間で広島に原爆投下を知る。シカゴ大学には陸軍の依託学生がいて811日軍服の学生が「WAR IS OVER!」という号外を持ち込んだ。ポツダム宣言受諾の用意ありと連合国に伝えた。14日正式受諾で、シカゴ大学礼拝堂で特別祈祷式。

村田氏が日本に帰らぬうちに、村田氏に最初に英語を教えた先生が日本語を覚え、進駐軍として日本に上陸、はるばる大阪―加古川を経て村田氏の田舎で父君に会った。先生を通じて1046年1月以降、家族との手紙は検閲なしでできるようになった。

19451213日、ノースフィールドのロータリークラブで日本人学生として紹介され、「皆さんにお伝えしたいことは、この4年間この国にいて一度も不愉快な経験をしたことがない」と挨拶した。昼食が終って会長・役員に握手。「あなたにあえてうれしい。ジャップと握手しても何の違いもないですね」と会長。この町の人にはジャップは蔑称でなかったのかもしれない。

19462月、45年度前学期終了卒業に必要な124単位取得、通常4年必要な課程を27ヶ月で修了した。渡米の目的は達成したが、アメリカで終戦後の祖国の現状を見ているうちに、日本で軍隊がなくなりそうな情勢を知り、もう少しアメリカに留まって大学院で博士号を取ろうと考えた。大伯母の支援は4年前提とすると、大学院は財政独立でなければならない。幸いにも入学は許可されていて、ある教授が部屋を無償で提供してくれた。しかし小さな町で仕事がない。結局シカゴに出てYMCAに泊まり、シカゴ大学の教授会館ともいうべきクォドラングル・クラブの皿洗い=昼食+皿洗い2時間、夕食+3時間、時給60セントで学校が始まるまで午後は働いてよいという仕事を獲得する。大学院の苦学体制ができた。

194632日、新しい職場で初仕事。給仕が運んでくる汚れた皿を木の枠に立て、皿洗い機で洗う。洗ったら230枚積み上げて調理場へ運ぶ。コーヒー茶碗は別な枠に伏せ、石鹸で落ちない口紅は拭う。クラブで一番きつい仕事。相棒はアメリカ人学生1人の他は南部から来た黒人男女。話すのはでたらめ英語だったがすぐ仲良くなった。1人の女性が敗戦日本に同情的で、「私たちは日本が勝つことを祈っていました」とささやく。料理人は3人とも兵隊帰り、海軍で青森に行った人あり。給仕のハイスクールの少年はよく話しに来る。支配人は学費稼ぎを知っていて327日、大学が始まると一日3時間月50ドルの給仕の仕事に替わった。一学期140ドルの授業料も払えそう。給仕で歩きながら耳にする教授たちの会話が面白い。欧州から亡命の学者が多く、給仕仲間は女子学生で無駄話も気晴らしになった。父母との手紙も多くなり、物も送れるようになった。収容所で教えた二世の女性が、在日米軍の軍属となり日本へ行き、両親に会うこともあった。

12月、クラブのチェッカー=給仕長に昇進、時間70セント、人扱いの技術を自然に身につけた。給仕の食事改善もできた。ボーナスが45ドル出て腕時計が買えた。同僚の女子学生に求婚には悩まされた。

大学院入学当初は、働きながら23年でドクターを取ろうと考えていたが、一日平均5時間、週7日労働しながらでは無理と分かった。論文を書いてマスター・オブ・アーツを取り、早く帰国して家族を支えることにした。指導教授のハーディン教授と相談しテーマは「日本の農地改革」とした。数少ない日本通のノースウェスタン大政治学のコ−ルグローブ教授に助言をもらい、23日梗概を見せると、「私の米国農政のテーマとぴったりで大変結構だ。博士論文にも仕えるくらいだ」といわれた。23月で論文をまとめ、口頭試問は522日、質問はなぜか53日施行された新憲法に集中し1時間。合格し祝福されたが以外に心は弾まなかった。

6月の末、礼拝堂で卒業式、万感迫ったあふれる涙を拒むすべを知らなかった。6年間、悔いなく闘って一応の勝利を収めた満足感に浸った。

クラブでは1946年度935ドル所得があり、税引850ドル。これに食事代月50ドルを加算すると実質1350ドル。授業料を払い家へ物資を送ったのに、預金数百ドル。これで帰国前に旅行ができる。

帰国について、極東軍事裁判の通訳となれば旅費がただになるというので試験に合格し仮任命となったが、正式返事を待つ間に、ワシントンで議事堂・議会図書館・アーリントン国立墓地、ニューヨークに移ってロングアイランドの国際連合仮本部で安全保障理事会、ボストンでノースフィールドで厄介になった教授の遺児たちと再会、駐日大使だったグルー氏の娘さんと会う。終わりはナイヤガラの滝見物、821日シカゴに戻る。陸軍省から返事がないので、ワシントンのペンタゴンまででかけて、米国市民でないので公務員になれないと知る。

それではと国務省に出国許可を申請、書類は東京のGHGに回されて1948年になってやっと司法省入国管理局シカゴ事務所から呼び出された。学業の目的で入国し、それが終ったのに残留しているのはなぜか。帰りたくて国務省の許可を待っている。それなら待って下さい。待ち焦がれた出国許可が届いたのは19484月、帰国前にクラブの給仕仲間が、航海の無事を祈ってパーティーを開いて餞別をくれた。サンフランシスコではドルー・スクールを訪ねたが知っている人はいなかった。元米軍輸送船ジェネラル・メイグス号は424日出港、58日横浜港に着いた。入国手続きで「留学」がなく、「引揚者」とされたので、日銀で両替に「引揚証明書」が必要となり、その受領で霞ヶ関往復の混乱があったが、横浜で無事受領、駅でそれを提示すると故郷までの切符を渡してくれた。列車の椅子はアンペラでおおわれ、窓は板張りだった。我が家は7年前と変わらず、両親と姉・弟妹が待っていた。

米国という国の広さと底の深さを感じさせる村田氏のこの本は、英文でも出されている。An Enemy Among Friends1991講談社。

 

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