5 終戦前後の中学1年生            2011.12.10−1、31

 木下秀人

終戦の年、旧制中学1年だったが、あの頃のことはよく覚えていない。学校は運動場の四分の3が畑、雨天体操場と武道場は機械工場、校舎の2階は、やがて機械を入れるべく壁がぶち抜かれていて、授業はどの教室だったか記憶がない。いろんな教室を渡り歩いたようだ。4・5年生は海軍工廠へ動員されて留守、学校工場は2・3年生だったらしいが、そのことすら知らず、夏休みまでの4ヶ月を、教室で学び、遠く離れた山すその農場に「こえたご」を担いで通い、働き手のいない農家の手伝いに行った。

 何の授業のときか、書道の金田先生が「天孫族、出雲族」という言葉を発せられたのを記憶している。この文章を書くにあたり、このコトバの出典を考えた。父の蔵書に「津田左右吉の「古事記及日本書紀の新研究」大正8年があった。読んだことはなかったが、図書館で調べた。全集の1巻「日本古典の研究」上のまえがきで「古事記及日本書紀の研究」は大正13年の改訂版であることが分かった。昭和15年発売禁止・裁判となった4著の中の大正12年、「古事記及日本書紀の研究」は、「新研究」の改訂版と長年の疑問が氷解した。

問題のコトバは、4ページに「然るに世間では今日もなお往々、タカマノハラとはわれわれの民族の故郷たる海外のどこかの地方のことであると考え、ホノニニギの命のヒムカに降臨せられたというのは、その故郷からこの国へわれわれの民族の祖先が移住してきたことであると思うものがあり、そういう考えから天孫民族というような名さえ作られている。そうしてその天孫民族に対して出雲民族という名もできているが、これは皇孫降臨に先だってオホムナチの命が国ゆずりをせられた、という話の解釈から来ている。」として登場する。「新研究」にも同じ記述がある。別巻2、194ページ。この書き方から察するとこのコトバは、津田の造語ではなく既に流通していたらしい。

金田先生が津田の本を読んだかは分からないが、どこかでこの言い方を知り、それに共感しこの言葉を発したことは間違いないだろう。そして小生がこのコトバに何か違和感を持ち、記憶にとどめたらしい。皇国史観など知っているはずもないが何か危険なものを感じたらしい。金田先生にそれを質したことはない。ことによると、飯田中学の教員室でその種の会話があったかもしれないと想像する。少なくとも、その頃の先生にファナティックな方はいなかったと思う。当時の学科主任の先生方には、風格のある方がおられたが、新制中学の校長に転出されたので、残念ながらわれらは教えを受けられなかった。「人間天皇」宣言がなされたのは翌年正月のことであり、雑誌「世界」4月号に載った津田論文が注文した編集者の予期に反する「皇室擁護論」だった(津田左右吉歴史論集、2006岩波文庫)ことを付け加えよう。 

その頃のことと思う。航空研究所の国産機で無着陸飛行の世界記録を樹立した責任者の富塚清が飯田で講演をされ、「日本は負ける」という発言が「非国民的」として警察に訴えられる事件があった。この話も長く記憶の底にあったが、その後丸山真男「現代政治の思想と行動」中の「日本ファッシズムの思想と運動」を読み、軍隊で兵を掌握する下士官と、兵と直接できず浮き上がっている将校を、社会における中間層と知識人の関係にたとえ、両層の隔絶が当時も今も日本社会の問題というのを読んだ時、思い浮かべたのはこの話だった。隣組や警防団が組織された時、その指導に活気付いた人がいた。そして航研機製造が日立の系列会社だったので調べるうちに、大インテリ富塚先生の率直な憂国の言が飯田で「中間層」に誤解されたことを理解した。先生は言論報告会の理事という役職で「戦争協力者」とされ、定年前に公職追放となったが、率直な物言いでユニークな方だったらしい。誰が訴えたのか、あの頃警防団で張りきっていた町内の人を思い浮かべることがある。

 5.15事件、2.26事件などのテロリズムの弁護でよく使われるのが「心情の純粋さ」だった。それにからんで思い出すことがある。上級生は皆動員されお国のために働いていたなかに、病気で残っている人がいた。その人はやせた足にゲートルを巻き、廊下を歩き回って、立たされている生徒を見つけると自分が替わると教師に掛け合い、生徒は中に入れ自分が廊下に正座するのだった。その悲壮な純粋な緊張感には忘れがたいものがあった。「国の大義に殉ずるは、われら学徒の面目ぞ、ああ紅の血はもゆる」という歌に送られて学徒は出陣して行った。

大都市は爆撃で悲惨な状態だったが、飯田は天竜川に沿って北上するB29の飛行機雲を見るばかり、食糧事情は逼迫していたがのどかなものだった。その人を戦後の教室に見ることはなかった。

 夏休みに815日があった。家にいて家族で放送を聞いたが、雑音ではっきり分からず、

父が、「ご親政かな」といったのを記憶している。戦争終結とわからなかったのは残念だが、東久邇宮皇族内閣の成立はその線上だったともいえる。

学制改革で中学は新制高校併設となり、同じ学校に6年いた。社会科で市瀬岩夫先生に「自由と平等」と出題されよくわからなかったが、解説で、この二つは相反するもので同時には成立しないといわれたのには目を覚まされた。その後、平等を目指したソビエト社会主義社会は崩壊し、自由を尊重する資本主義社会はバブルや格差拡大で苦しんでいる。

 疎開してきた先生に国語の石田天外先生がいる。工作も担当され、大工道具の使い方、のこぎりの目立て、かんな、のみ、砥石の使いかたなど、その後の家庭での工作に役に立った。

 音楽の安藤仁一郎先生は見事だった。追手町小学校にピアノはあったが、唱歌のメロディーを弾くだけ、学芸会で音楽の先生がベートーベンの「ウォーターローの戦い」という曲を弾いたことを覚えている。しかし、父君が地裁の判事でこの地に見えた安藤先生のピアノはすばらしかった。軍歌を習ったというクラスもあるが、記憶にあるのは戦後で、フォスターやシューベルトの歌曲の伴奏がきれいだった。講堂のピアノで練習する上級生がおり、そこではレコードコンサートがしばしばあった。なまの体験は女学校に来たN響の小グループで、弦楽器のハーモニーに心を奪われたのもその頃である。腹はすかせていたが校歌にあるように「都の塵も通い来ぬ」のどかな少年時代だった。

                             以上

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