和辻哲郎と丸山真男・加藤周一              

2011.6.19−2013.1、27 木下秀人

(1)はじめに

 「丸山真男回顧談」上の「戦中から戦後へ」に「和辻哲郎先生の場合」という項目があり、和辻氏の「アメリカの国民性」(442月、思想)という論文が、「あれはひどい、当時の雑誌「思想」の恥ですね。……研究室で読んだのを、今でも覚えています。なんたることかと思って。最後は、強く見えるやつは意外に弱い、みたいなことでしょう。こんなギリギリのときになって、まだそういうことを言っているわけです。」と手厳しく批判されている。

 丸山氏は、同じ項目で戦後の東大の憲法研究委員会での和辻氏にふれ、「結局、和辻先生は、既成事実になったものを合理化するという人なのです。その理屈がうまいのだな。……たとえば(戦後52年刊行の)「日本倫理思想史」だって、井上哲次郎の「国民道徳論」を、あんなにボロクソに批判しているけれども、戦争中に出た「岩波講座 倫理学」論文には一言半句もそういうのはないのです。でも神がかりではなかった」と論評した。しかし助手時代に南原先生の指示で聴講した和辻の講義=日本倫理思想史については、「ある意味では実によかった。ぜんぶ津田批判だけれど、銅鐸文化圏、銅剣文化圏など古墳時代の歴史を聞き、あれを聞いたら、だれでも天皇制というのは7世紀ごろできたとわかる。天皇制については肯定的なんだけれど歴史を曲げず、神武天皇などはでてこない」と評価した。

「アメリカの国民性」は、海軍大学での講演=「日本の臣道」と併せて「戦時国民文庫」筑摩書房の一冊として刊行され、今、和辻全集14巻、17巻で読むことができる。

小生は、むかし和辻氏の「風土」、「古寺巡礼」、「人間の学としての倫理学」、「鎖国」を読み、日本の思想への関心から、「尊王思想とその伝統」は熟読した。特に違和感はなかったが戦中の和辻論文には接していなかったので、丸山氏の論評に対応する必要を感じた。

問題の2論文を読み、さらに日本精神史研究、日本倫理思想史、倫理学、熊野純彦氏の「和辻哲郎―文人哲学者の軌跡」岩波新書2009、亀井俊介=編・解説「日本人のアメリカ論」研究社1977を参照し、苅部直「光の領国 和辻哲郎」2010で和辻氏の意外な側面を教えられた。

 小生の問題意識は、(1)丸山氏の批判の内容は、加藤周一氏が「日本精神史研究」岩波文庫1992に寄せた解説と同じではないか、(2)和辻氏は欧米留学で「風土」を結実させたが、実父の死などにより早く帰国、ケーベル先生以外の外国人学者との接触に欠け、アメリカ論も、高木八尺という米国研究の専門家が身近にいたにもかかわらず交流の気配がない。そこに氏のアメリカ論・資本主義論の偏りがある。(3)苅部氏の著書の付属資料=堀豊彦氏の「斉藤勇先生追憶」は戦争末期の文学部教授会での和辻氏の「熱狂」を明らかにした。これをどう理解するか。(4)戦後の氏が、自らの「戦争責任」を肯定しなかった理由はなにか。帝国大学倫理学教授として、国家の危機に往年の井上哲次郎氏と同様の役割を担ったからではないか。最後に(5)和辻氏の本居宣長論。小生のアメリカ観と、それに影響した本として、村田聖明氏の「最後の留学生―大戦下米国留学始末記」1981図書出版社は別稿。

 

(2)   加藤周一氏の和辻「日本精神史研究」論

 和辻氏の「日本精神史研究」1926、改訂版1940、その岩波文庫版1992に加藤周一氏が解説を寄せ、この初期の論文集は「生涯の傑作であるばかりでなく、1920年代の以日本が生み出した記念碑的作品の一つでもある」と評価した。

精神史という枠組みの中で個別の対象を分析するに当たって、和辻氏は、西洋殊にドイツで洗練された方法を駆使して、日本の文化を鮮やかに説得的に語った。画期的な本で、その後の研究の先駆的な仕事となった。

文章は爽快なほど明瞭で、芸術や文学に対する鋭い感受性が論理を裏側から支える。しかし感じ方は人と時代により異なる。感受性が議論の裏打ちとなっているとき文章は説得的であり、議論の要点として表に出るとき客観性を欠き説得的でない。学者・知識人の生涯を通じての議論と立場の一貫性を保証するのは、その感受性、ものの感じ方、基本的な経験、人格と価値観の統一性である。そこに問題があると加藤氏はいう。

収める論文の大部分は1920年代の前半、いわゆる大正デモクラシー時代に発表された。文庫版の基となった改訂版は1940年刊行で、初版と意見の違うところがある。その間に15年戦争があった。時代の風潮を反映して感じ方が変ったのではないか。

1935年、和辻氏は、続日本精神史研究を刊行した。そのなかの「日本精神」で、「日本は、利益社会的発展を止揚するところの国民的共同社会への覚醒において、自ら知らずに世界の先駆者となった」という。これは20年代の著作に見られた日本文化の積極的評価と質の違うナショナリズムである。和辻氏は2.26事件の年文部省の「国体の本義」編集委員を引き受けた。その頃から和辻氏は明らかに立場を変えたと加藤氏はいう。加藤氏は、2.26事件以後の日本政府にも、その日本政府の立場に近づいた和辻氏の著作にも賛成しない。しかし「日本精神史研究」は愉しむという。

加藤氏の分析は暖かくかつ鋭く、丸山氏のふれなかった時代と知識人・学者の関わりについても明快で、あの時代にあのテーマで学者として生きることの難しさを語っている。しかし小生は、加藤氏の批判を肯定しつつ、戦中以後の和辻氏の業績の全否定には賛成しない。

和辻氏は、戦中の津田左右吉の出版法違反事件で津田側の証人に立ったし、かの蓑田胸喜一派からは攻撃対象ともされた。本人は自身を、戦中は反政府勢力に属したとの認識で、戦後になっても戦争責任追及をことごとく退けたと熊野純彦氏は記している。和辻哲郎2009岩波新書。戦時中の丸山氏や加藤氏が批判する文章は、今、全集で見ることが出来る。

 丸山氏の「和辻先生は、既成事実となったものを合理化するという人」という評価は「保守」という言葉に置き換えることが出来る。対する丸山・加藤氏は現状を批判する改革・革新派である。改革は、足元を固める保守なしでは実現できない。生きた時代の違い、そして和辻氏の置かれた立場の難しさもある。井上氏が帝国大学倫理学教授として、教育勅語の解説を書かねばならなかったように、和辻氏もやがて、文部省の「国体の本義」に関わらねばならなかった。

 

(3)和辻氏の短かったドイツ留学

 和辻氏は、192723年間のドイツ留学に出発した。熊野氏に依れば、心弾むのもではなかったという。父君の死により、米国経由で翌年2月あわただしく帰国した。照夫人と阿部次郎氏とのことが原因という説がある。外国生活に適応できなかったのではないらしい。1年に満たぬ外国生活で生まれたのが「風土」で、ギリシャ、ローマからキリスト教を経て近代につながる西欧の縦の思考に、土台としての風土という横軸を加える画期的なものだった。しかし西欧の人や社会について十分な体験がなされたであろうか。

小生は、和辻氏の日本文化への強い関心が、次の世代の中村元先生のように世界文化の中での比較論に向かわないで、ナショナリズムの匂いを脱し切れなかった理由には、時代の風潮や(大正から昭和初期の年表参照)、そもそも日本文化の西欧的手法による研究が欠けていて、和辻氏が手がける以外になかったことに加えて、和辻氏の外国・外国人との接触体験・親和性の少なさもあるのではないかと疑っている。

戦後「鎖国」を書き「鎖国がいかに日本の後進性をもたらしたかを解明した」と帯にあるが、カントが「永遠平和のために」で、非友好的な態度で進出を目論む西欧諸国に対する中国と日本の鎖国政策に触れ、西欧来訪者に対し、「中国は来航を許したが入国は許さず、日本は来航すらもオランダ人だけに許可し、その際彼らを囚人のように扱い、自国民との交際から締め出した」のを賢明と評価したことに言及していない。カントの認識論を、時間はあるが空間の認識が欠けていると鋭い指摘をした和辻氏なのに。

カントはいう。「我々の大陸の文明化された諸国家が、ほかの土地や民族を訪問する際に(それは征服と同じことを意味する)示す不正は、恐るべき程度にまで達している。アメリカ、アフリカなど、発見されたとき誰にも属さない土地のようだったが、それは彼らが住民たちを無に等しいと見なしたから。東インドでは支店を作る名目で軍隊を導入し、原住民を圧迫、戦争を起こし、飢え、反乱、裏切り、その他人類を苦しめるあらゆる悪事を持ち込んだ」=要約。だから中国と日本が来訪人を試した後、渡航制限したのは賢明という。このカントの評価を知っていて無視したのだろうか。小生は、カントの率直・過激な叙述に驚いた記憶がある。

若松賎子訳の「小公子」は1890-2年「女学雑誌」連載で評判の名訳、亡き父が米国婦人と結婚して米国庶民文化で育った少年が、英国貴族の祖父の心を捉えていく話で、英国階級文化に対する米国の自由・平等文化の勝利・それを受け入れる英国貴族の心の広さの物語だったが、和辻氏には影響された形跡なく、明治から大正初期までの日本・日本人と、米国・米国人との友好関係も考慮しなかったようだ。

バーナード・ショーが書いた皮肉たっぷりの自国民批判を枕に、ベーコンの帰納法、ホッブスの社会契約論という英国哲学が、遅れて入植した英国人の原住民圧迫=植民地拡大に貢献したという荒っぽい立論の「アメリカの国民性」には、自由と人権という建国の理想は語られず、生活する庶民の視点もなかった。

海軍大学での「日本の臣道」講話は、題名がすでにあの時代の雰囲気をにじませ、時局に対応する内容だった。帝国大学倫理学教授の和辻氏には、文部省とのかかわりは避けられず、時代の危機に処する覚悟を当事者として語らねばならなかった。小林秀雄氏は戦後に「自分は一国民として時代に処しただけだ」と語ったが、戦後の和辻氏も同じ心境ではなかったかと推測する。戦争末期の教授会での和辻氏についての次の話も、同じ文脈で理解できると思う。

 

(4)戦争末期の和辻教授

東大学生基督教青年会理事長だった英文学の斉藤勇氏の追悼号に、政治学の堀豊彦氏が寄せた戦争末期の教授会での和辻氏についての回顧談。和辻氏の葬儀の帰り、斎藤氏が堀氏に語った秘話である。

戦況芳しくなく、政府や軍部は国民精神の高揚に躍起になっていた。「大学の内にもその余勢はあり、時局迎合の教授達もあったし、心底では戦争反対の志向をもつ者が多かったにも係らず、反対するには余りにも無力と観念して無為に手を拱くといった向きが強くみられた。」「その折の或るときの文学部教授会で、当時段々に反動守旧的傾向を強くされた、故和辻哲郎教授がわが国の聖戦を主張して米英畜などに負けてたまるかと、声高らかに論ぜられた。これに対して、斉藤勇先生が戦争は悪い、戦争に聖戦などなし、彼我に五分五分の言分がある。特に一方的に、しかも人間の尊厳を汚すような米英畜などという悪罵は慎むべきであると、述べられた。すると和辻教授は更に声を励まして、斎藤先生を非国民だとして極め付けられ教授会の席で罵倒された。斎藤先生は固く黙して剛毅なる沈黙を以って対抗されたという。」斎藤先生は「爾後和辻さんとは学の内外でも交渉は絶えたと語られた。」数日後、故南原先生にこの事を話した。「先生は屹度、驚いたような面持ちで『斉藤さんはその事を君に話したのですか。それは高木君と自分しか知らないことで、斉藤さんもその他には誰にも語られなかったことである』と感慨深く言われた。」「斎藤先生が何故私如き者にこのような秘話をわざわざ語られたか分からない。私はただ疎かならない気持ちで拝聴し、今日まで堅く言外にとざしてきたのである。」

和辻氏の「かんしゃく」という、祖父にもあったという気質に発する秘話で、阿部次郎氏との絶交もそれといわれている。自分は国の危機に関わり心を痛めているのに、安全圏からの批判につい心が高ぶってしまったということであろう。和辻氏の世界認識の限界を示してもいる。既に東大学生基督教青年会会報1982.12で公表済みとはいえ、苅部氏がよくぞ載せてくれたと思う。

 

(5)和辻氏の津田被告弁護、本居宣長論と町人根性論

熊野純彦「和辻哲郎」によると、「和辻の自己認定では……戦中のほぼ全体を通じて、和辻は反政府勢力にぞくしていたことになる。和辻は、じっさい戦後にいたって、じぶんに対して戦争責任を追及する声をことごとく斥けた」という。

時局追随か否かを、本居宣長評価でみよう。明治以降のナショナリズムと天皇崇拝思想において、本居宣長から平田篤胤に継承された国学がその中心にあったからである。

一般に、宣長については、源氏物語解釈や、古事記解読などの文学的業績には異論はないが、古事記解釈における「直毘霊」=なおびのみたまに発する、古事記の記述を歴史的事実と信仰する姿勢が問題であった。宣長の同時代からそれはおかしいと批判され、宣長は反論を、口汚い言葉で書き記した。

すでに大正8年、津田左右吉「古事記及び日本書紀の新研究」などの古代研究は、国学的信仰に反する歴史学的解釈を提示していたが、戦時体制下の昭和14年、聖徳太子の実在を疑う記述を皇室に対する不敬罪として蓑田胸喜に告訴された。

和辻氏は弁護人として法廷に立ち、津田氏の研究は、古事記・日本書紀の史料としての意義の考察であって、上代史をそれに基づいて叙述することではない。史料批判には知識・悟性の立場からと、感情・感動の立場からとの二つがある。例えば太陽を天文学的にみるか、初日の出を感動して日の神として迎えるか。後者の感動は心の事実・現実。それが信じられている場合はそのほうが強い。その二つの事実を別の言葉ではっきり区別しようというのが津田氏の研究。自然科学が真理なら、後者はウソではないかとなる。その折り合いをつけることがまだ出来ていないので、神代史の物語はそのままの姿では歴史的事実ではないということを強く主張した。それが感動・信仰の立場からの誤解を招いた。原典を参照しつつ丹念に津田氏の考えをたどれば、この研究は学説が異なる人にも良い刺激を与えると私は考えている。皇室の尊厳を冒涜する・不敬にわたるなどと感じたことは一度もない。この調子で研究が進めば、皇室の尊厳の根拠や根底になっているものが学問的にはっきりする。どんな合理的な議論にもびくともしない学説の基礎が立っている。大変良いことだと感じたと証言し、南原氏を喜ばせた。

宣長論は、昭和19年「尊王思想とその伝統」(昭和27年「日本倫理思想史上下」)に詳しいが、宣長の歴史的研究と神話信仰を混同するはずがない。宣長説に対する当時の批判、宣長の苦しい反論を載せている。尊王思想の研究だから、右翼も手が付けられないまま敗戦となった。

小生は、宣長が、古事記解読が終らないどころかその始めに、古事記の記述を歴史的事実と絶対視する信仰の書「直毘霊」を書いたのが論理的におかしいと思う。結論が先にあって後はただ有り難く祖述・信仰するだけ。宣長の源氏物語講説の弟子たちはそれについていかなかった。過激な国粋論を継承したのは、宣長没後の弟子と称する平田篤胤で、宣長直系の弟子たちではなかった。

宣長論と関係しないが、和辻氏が「現代日本と町人根性」昭和610続日本精神史研究、全集4巻所収において、資本主義・ブルジョア精神・町人根性と並べ、商工業活動を貶めているのはいかがなものか見識を疑う。ゾンバルトとレーニンは引用されているが、ゾンバルトと同時代で「資本主義の精神」を論じたマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」1904−5への論及がない。自説に不利だからか、知らなかったのか。

なお、「日本精神」という昭和9年の論文も全集4卷で見ることが出来る。日本精神を鼓舞するものではないが、日本精神とは何かという問題、日本精神と反動思想、日本精神への通路、日本文化の主体、将来の実現と過去の伝統、啓蒙主義思想と歴史的・風土的考察の欠如、日本的特性としての外国崇拝、日本文化の重層性、などという区分から分かるように、軍国・国粋時代の色が濃い。加藤周一氏が認めない所以であるが、その結語に「以上によって日本精神が何であるか形式的に規定しえたと思う。それを実質的に捕らえるためには日本の精神史と風土学とを作り上げねばならぬ。それは日本精神の自己認識たるべきで、日本民族がその世界史的な使命を遂行するために欠くべからざるものと思われる。日本の学問においてこの方面は最も遅れている。力量ある優秀な青年学徒の努力を待つこと切である。」という。加藤氏はその有力な1人であった。

江戸時代に「心学」という庶民哲学があった。石田梅岩(16851744、農家に生まれ、商家で働きつつ書を読み心を養い、得心したところで講説を始め「都鄙問答」をまとめる。)儒教・仏教・神道などを総合した民衆教化運動で武士階級にも広く受け入れられた。しかし丸山氏は評価しないのは通俗的だからか、進歩・改革運動でないからだろうか。しかし小生は、今日日本の民衆道徳の基本を築いた功績ありと思う。和辻氏も、武士の士道に匹敵する町人道徳はついに形成されなかったという。しかし加藤周一氏が「日本文学史序説」下第8章「町人の時代」で、石田梅岩について、「町人の自己主張にとどまらず身分の差を超えて、徳川時代の日本人一般に強く訴えるものをもっていた」と評価しているのはさすがで、忠臣蔵も蘭学者も宣長も見事に論じられている。明治生まれの和辻氏は大正時代から執筆活動を始め丸山氏より25歳上、丸山氏には戦時中の論文執筆と兵役体験があるが、5歳下の加藤氏の一般への執筆活動は戦後という世代の差を意識すべきかもしれない。

思想家としての道元を発掘し、仏教の学問的研究の先駆者でもあった和辻氏は、キリスト教の神や神道の神でなく、仏教の空や無の思想に親近感を持っていたらしい。小生も80歳を超え、戦後社会の転変を見て、進歩・改革の困難を思い、哲学としての仏教に共感するところが多い。

        

(6)大正―昭和―平成の日本と世界と3人

和辻、丸山、加藤3氏と、内外の歴史情況を対比してみた。日本という、外圧により開国を迫られたが、武家政権だったことと国民的団結を保持できたこと、攘夷イデオロギーを意外に早く開国に転じることにより、欧米のアジア進出=植民地化の波を食い止めることが出来た。しかし日清・日露戦争後に高揚したナショナリズムが、旧来の対外進出=植民地化思想を克服できず、大敗北を招いてしまったのは誰の責任であろうか。

和辻氏は裕福な家庭から夫人を迎え、生活費援助は拒んだようだが、そこに古美術鑑賞グループとの接点が芽生え、やがてグループとの奈良旅行から「古寺巡礼」が結晶する。革命・革新という時代思潮からは遠い生活環境というべきだろう。

丸山氏も加藤氏も戦後目覚しい執筆活動で、年齢を重ねれば和辻氏に遅れているわけではない。明治末期の大逆事件によって、この国での自由な言論に絶望し、戯作者の道を選んだ永井荷風は和辻氏の10歳上にすぎない。過酷な時代のなかで和辻氏は挑戦を続けた。海舟がいうように,毀誉は他人の自由かもしれない。

以下、年表を掲げる。

明治45年   和辻23歳、高瀬照子と結婚、高瀬家は横浜の貿易商、夫人は三渓園の原家の令嬢と仲良し、古美術研究が奈良行きとなり、古寺巡礼を生む

大正3 3月 丸山誕生、長野県出身の著名なジャーナリストの次男とし大阪で誕生

4年 5月 大隈内閣、対中国21か条要求、日貨排斥運動

        和辻26歳、ゼーレン・キェルケゴゥル

  5年 6月 中国、袁世凱没、黎元洪大統領

  6年 3月 ロシア二月革命

     9月 中国、孫文、広東に軍政府

     10  ロシア十月革命、ソビエト政権成立

  7 11月 欧州大戦終る、米騒動

        和辻29歳、偶像再興

  8年 1月 ヴェルサイユ講和会議

2月 朝鮮、万歳事件

     4月 中国、五四運動、反帝・反封建・反日

        和辻30歳、古寺巡礼、丸山5歳、加藤、東京市本郷本富士町の医家に誕生

  9年    和辻31歳、日本古代文化、東洋大学教授

  10 11月 原首相暗殺

     12月 ワシントン軍縮会議、主力艦米5・英5・日3、日英同盟廃棄

11年    和辻33歳、法政大学教授 

  12  2月 中国、孫文、広東で大統領

     9月 関東大震災

 13年 5月 米、排日移民法

 14年 3月 治安維持法、普通選挙法

        中学・師範・高専に軍事教練導入

        和辻36歳、京都大学文学部助教授倫理学担当、西田幾多郎の招誘による

 15年 1月 京都学生社会科学連合会事件

     3月 丸山12歳、東京府立一中に入学、和辻37歳、加藤7歳、渋谷で小学校入学

7月 中国、蒋介石、国民革命軍総司令、北伐開始

和辻、「学生検挙事件所感」を京大新聞に発表、

「社会科学の研究は鬱憤を晴らす空想の類と別でなければならない。階級意識の昂進は破壊的手段に対する無反省な共鳴を呼び起こしてはいないであろうか。法律さえも、反対階級の作ったものだから認めぬ、という態度は、明らかに暴力的である。我々は国法に対する尊敬のゆえに不正な刑罰を平然として受けたソクラテスの立場を崇高と感ずる」と、マルクス主義やレーニン主義の研究は認めるが、暴力革命は否定、合法的手段による社会改造は決して生ぬるくはないことを主張した。革命でなく改革を求める和辻の立場を表明し、河上肇との論争となった。急進主義か、漸進主義かとも通じ、日本近代政治史を貫くテーマだったが、深まることなく終った。

日本精神史研究、原始キリスト教の文化史的意義発表

昭和2年 3月 日本、金融恐慌始まる、緊急勅令で3週間モラトリアム

        和辻38歳、ドイツ留学、翌年帰国、原始仏教の実践哲学

  3年 2月 最初の普通選挙

     3月 共産党大検挙=3.15事件       

     6月 関東軍、張作霖を爆殺

        治安維持法に死刑・無期刑を加え、内務省に特別高等警察課を設置

        中国、国民革命軍北京入場、北伐完了

    12月 英国、国民政府承認、張学良、国民政府に合流

  4年 6月 日本、国民政府承認

     7月 田中内閣、天皇に食言で総辞職

    10月 米国ニュウヨーク株式市場大暴落、世界恐慌の始まり

    11月 浜口民政党内閣、金輸出解禁、実施翌年1

  5年 4月 ロンドン海軍軍縮条約、補助艦、米10・英10・日7

     6月 加藤軍令部長辞表、統帥権干犯問題      

    11月 浜口首相、東京駅で狙撃され重唱

  6年 3月 陸軍桜会3月事件

     4月 浜口内閣総辞職、若槻内閣、高橋蔵相

     9月 関東軍、柳条溝、満鉄線路爆破、満州事変

        英国、金本位制停止

    12月 日本、金輸出再禁止、株式・商品大暴騰 

      和辻42歳、京都大学文学部教授、倫理学担当、丸山17歳、一高文科入学、加藤12歳、府立一中入学

  7年 2月 井上前蔵相暗殺

     3月 満州国建国宣言、三井合名団理事長暗殺

     5月 5.15事件、犬害首相、斎藤内閣へ

     7月 国連リットン報告書公表

        ドイツ総選挙、ナチ第1党へ

  8年 1月 ドイツ、ヒトラー内閣成立

2月 ドイツ、国会放火事件、共産党弾圧

 国連、日本軍の満州撤退勧告、日本、国連脱退

     3月 米国、ルーズベルト大統領就任、ニューディール政策

        ドイツ,受権法でヒトラー独裁容認

     4月 丸山、唯物論研究会創立記念講演会に出席、開会後直ちに解散、丸山は本富士署に検挙・勾留され、以後定期的に特高刑事の来訪、憲兵隊への召喚を受けることとなる。   

     5月 鳩山文相、京大瀧川事件

        和辻44歳、丸山19歳、一高3年生、加藤14歳、府立一中3年生

  9年    和辻45歳、東大文学部教授、倫理学担当

6月 文部省、思想局設置

     8月 ドイツ、ヒトラー総統

    10月 陸軍省、「国防の本義と其の強化の提唱」発表

    12月 ワシントン海軍条約廃棄

        和辻45歳、人間の学としての倫理学、丸山20歳、東大法学部政治学科入学、加藤15歳、府立一中4年生

 10年 2月 貴族院で美濃部天皇機関説攻撃

     3月 岡田首相、天皇機関説反対を表明、衆議院、国体明徴決議可決

     8月 永田軍務局長,省内で刺殺

        和辻46歳、東大倫理学科教授、続日本精神史研究、風土、丸山21歳、東大法学部学生、加藤16歳、府立一中5年生

 11年 1月 ロンドン海軍軍縮会議脱退

     2月 総選挙、民政205、政友171、社会大衆18

        2.26事件、斉藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監を殺害

     3月 ドイツ、ロカルノ条約廃棄、ライン非武装地帯に進駐

     9月 丸山22歳、自宅に特高が来訪、母親に高校2年の検挙が知られる。和辻47歳、加藤17歳、一高理科乙類入学

11月 日独防共協定

    12月 中国、西安事件、国共合作、抗日戦線成立

 12年 1月 広田内閣総辞職、宇垣内閣成立せず林内閣

     5月 林内閣総辞職

     7月 盧溝橋事件、

     8月 第二次上海事変、日中両軍交戦

    11月 イタリー,日独防共協定に参加、満州国承認 

    12月 南京占領、虐殺事件

        和辻48歳、倫理学上、面とペルソナ、丸山23歳、東大法学部卒業、南原研究室助手、加藤18歳、一高2年生

       丸山氏は、南原氏にいわれてやがて「日本政治思想史研究」に結実する論文を書き始める。       13年 2月 大内兵衛など労農派グループ検挙

           4月 東大文学部に国体講座として日本思想史講座開講。平泉澄担当

           9月 丸山24歳、教育招集で松本連隊に応召、即日帰郷

       14年 5月 南原繁「人間と政治」帝大新聞、原理日本社蓑田胸喜が攻撃

           9月 ドイツ、ポーランドに侵攻、第2次世界大戦始まる

              丸山25歳、南原の指示で和辻の日本倫理思想史を聴講

和辻50歳、加藤20歳、3月一高卒業

10  政治学政治学史第三講座に津田左右吉出講=特別講義、先秦政治思想史

12月 津田最終講義に原理日本社系学生が質問攻め、丸山、津田と共に行動

15年 1月 津田氏、早稲田大学辞職

    2月 津田氏の四著書、発禁処分、3月出版法違反で出版社と共に起訴

       丸山26歳、近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連

           3月 和辻51歳、加藤21歳、9月東大医学部入学、文学部の授業にも出席

6月 丸山、法学部助教授

           10月 紀元二千六百年祝賀で昭和天皇東大に行幸

       16年 6月 ドイツ、ソ連に侵攻、

           7月 丸山、近世日本思想史における「自然」と「作為」執筆、翌年8月まで続く

           12月 日本、太平洋戦争開戦

       17年     加藤23歳、中村真一郎・福永武彦・窪田啓作らとマチネ・ポエティック結成 

11月 南原繁、国家と宗教―ヨーロッパ精神史の研究 

       18年 9月 学徒出陣。加藤24歳、医学部繰上げ卒業、付属病院副手

              和辻54歳、尊王思想とその伝統

       19年 3月 丸山30歳、学友の妹ゆかりと結婚。和辻55歳、加藤25歳

        ゆかり夫人は速記を習って遅筆の丸山氏を助けた。NHKの追悼番組に出た原稿は、夫人の筆跡だったという。小生、昭和30年頃、丸山氏に近い人たちに、丸山氏の発言は記録に残すべきという話があると聞いた記憶がある。

           7月 丸山、教育召集で松本連隊、朝鮮平壌へ、9月脚気のため内地送還

      20年 3月 臨時召集で広島市宇品の陸軍船舶司令部船舶通信連隊、船舶なのに陸軍であることに注意、帝国陸海軍には、協力はなかった。陸軍は独自に潜水艦も作ろうとしていた。

              南原繁、東大法学部長、6教授に呼びかけ終戦工作

           4月 丸山31歳、参謀部情報斑で船舶・国際情報収集、和辻56歳、加藤26歳

           5月 ドイツ崩壊、無条件降伏

           8月 広島に原爆投下、ポツダム宣言受諾

           9月 降伏文書に調印、丸山、招集解除、父の貸家杉並区高井戸に住む

          10月 加藤26歳、日米原子爆弾影響合同調査団に参加、2ヶ月広島に滞在

         21年 1月 天皇、人間宣言、GHQ、公職追放令

2月 丸山32歳、思想の科学研究会に参加、二十世紀研究所に参加           

            3月 チャーチル、フルトン演説、冷戦の始まり

4月 丸山、超国家主義の論理と心理、世界に発表 

5月 東京裁判始まる、判決24年11月 

         22年1月 2、1ゼネスト中止   

            3月 和辻、国体変更論について佐々木博士の教えを乞う、象徴天皇擁護論

6月 米国務長官、マーシャルプラン発表    

            10月 欧州共産党情報局コミンフォルム設置

加藤28歳、1946文学的考察、福永・中村と共著

          23年   丸山34歳、安倍能成議長の平和問題討議会に参加、翌年、談話会となる   

24年   和辻60歳、定年で文学部教授を退官

25年   丸山36歳、講和問題についての平和問題談話会声明に参加、法学部教授

      吉田首相、南原氏を曲学阿世の徒と非難

   6月 朝鮮戦争勃発

   7月 レッドパージ始まる、

   9月 都学連、レッドパージ反対、期末試験ボイコット指示   

26年   丸山37歳、肺結核で中野療養所で手術、翌年4月回復出講

加藤32歳、フランス政府半給付留学生、パリ大学医学部などで医学研究

         9月 サンフランシスコ講和条約調印

27年   丸山38歳、日本政治思想史研究

4月 対日講和条約、日米安全保障条約発効

5月 皇居前メーデー事件

29年   丸山40歳、左肺結核の転位、中野療養所で胸部整形手術

   3月 米国と相互防衛援助協定、5月発効

30年3月 加藤36歳、フランスから帰国、東大付属病院に戻る

   5月 ソ連、東欧8カ国と友好相互援助条約

31年   丸山42歳、現代政治の思想と行動上、翌年下

   2月 ソ連共産党大会でフルシチョフ、スターリン批判演説

   10月 ハンガリー事件

      イスラエル、エジプトに侵入、スエズ戦争始まる

33年5月 中国、全国大会で大躍進を決定

9月 加藤39歳、ソ連ウズベク共和国タシケントのアジア・アフリカ作家会議準備委員会に出席、ユーゴのクロアチア、インドのケララ州などを巡り翌年1月帰国。これを機に医業を廃し文筆業に専念

34年8月 中国、廬山会議、大躍進反対の彭徳懐を解任、林彪を後任

   9月 フルシチョフ、毛沢東と会談、意見対立激化

35年5月 岸内閣、衆議院に警官隊導入で新安保条約を強行採決

   6月 国会デモで樺美智子死亡、デモが国会包囲する中で条約は自然承認。   

9月 加藤41歳、カナダ、ブリティッシュ・コロンビア大准教授、44年まで9年、ここには、ハーバート・ノーマンやジョージ・サンソムによる日本古典の収集があった

12月 国民所得倍増計画決定

和辻、自宅で心筋梗塞により死去、71歳

36年10月 丸山47歳、ハーバード大学の招きで渡米、384月まで1年半

37年10月、キューバ危機

39年 4月 日本、IMF8条国に移行、OECD加盟

    8月 トンキン湾事件、米国、ベトナムに介入

40年 2月 米国、北ベトナム爆撃始まる 

41年 5月 中国、文化大革命始まる

43年 1月 東大医学部学生自治会、医師法改正に反対し無期限スト、6月、9学部ストで紛争全学に広がり、11月、大河内総長辞任

44年 1月 加藤総長代行、機動隊に学生排除を要請、安田講堂、法学部研究室の封鎖解除。2月授業再開、丸山55歳、全共闘系学生に囲まれ軟禁状態、心不全と肝炎で入院。

    9月 加藤50歳、ドイツ、ベルリン自由大教授、483月まで4年

46年 3月 丸山57歳、定年を待たず東大教授を辞職

48年 6月 丸山59歳、プリンストンと・ハーバードの名誉博士号授与で渡米、欧州にも旅行、8月帰国

49年 9月 加藤55歳、米イェール大客員講師、51年8月まで2年

50年 2月 加藤56歳、日本文学史序説上、下は55年

4月 加藤、上智大教授、60年3月まで

5月 丸山61歳、渡英、オックスフォードでジャパン・セミナー主宰、8月帰国

51年 5月 丸山62歳、カリフォルニア大バークレイ校に招聘され、8月帰国

53年 4月 加藤59歳、スイス、ジュネーヴ大客員教授、翌年4月まで1年  

58年 1月 加藤64歳、英国ケンブリッジ大客員教授、6月まで

61年 4月 加藤67歳、メキシコ、コレヒオ・デ・メヒコ大客員教授、7月まで

加藤の外国大学での講義は、62年米プリンストン大、平成1年米カリフォルニア大デーヴィス校、3年ベルリン自由大、8年米ボモーナ大1−4月、12年中国、香港中文大2−4月と続く。戦後派の国際的知識人の活動、初期は外国事情の日本への紹介、それがまもなく日本文化の外国への紹介に転じ、次々と各国に招かれた。稀有の例として特筆すべきだろう。

平成8年 8月 丸山、日本女子医大病院で死去、82歳。丸山真男集、座談集、講義録、回顧談、書簡集が刊行済み、未集録を拾う丸山真男手帳、年4回が継続している。

   2012月 加藤、都内有隣病院で死去、89歳。喪主は、文筆家でパートナーだった矢島翠女史。死の直前にカトリックに入信した。母も妹もカトリックで、自分が無宗教を貫けば妹が困るだろう、亡き母も悲しむだろう、というのが入信の理由。加藤氏は理の人であったが、情の人でもあったという。氏には、昭和21年に結婚暦あり、オーストリア女性との結婚暦もあったというが、結婚についてはなにも語っていない。鷲巣力、加藤周一自選集10、岩波書店2010、大江健三郎他編、冥誕加藤周一追悼、かもがわ出版2009による。

 加藤氏は、渡辺一夫氏を師と仰ぎ、森有正の少し後、この3人の、フランス・ルネサンス断章、立ち去る者、現代ヨーロッパの精神、は小生の精神を揺さぶった。現代日本は、西欧文明を静に偏見なく理解する眼を遂に獲得した。                         

おわり                

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