ソーシャルキャピタル=絆と日本語・日本社会         2013.2.4

                                  木下秀人

 昨年1218日の日本経済新聞、経済教室に、「“絆は資本”の解明進む」という、澤田康幸東大教授のソーシャルキャピタルについての論説が載った。若者の社会的孤立、高齢者の孤独死など、日本における人間関係の希薄化という一般的見方に対し、東日本大震災に際しては、絆という言葉に象徴される人々のつながりの強さ、助け合いの姿が世界の注目を浴びた。その絆は、ソーシャルキャピタル=社会関係資本という学術用語で読み解けるのではないかという点が、日本人・日本文化論に絡んで小生の興味をかきたてた。

ソーシャルキャピタルとは、文字通りに解すれば、社会が潜在的に保持し、事に応じて発揮される社会としての強み・弱みで、社会を構成する民族・言語・人種・宗教・歴史・文化などの要因が関係する。その要因は、いずれも近代国家構成原理=ナショナリズムに絡んで、今でも戦争・紛争・差別などの原因であることに注意を要する。

澤田氏によれば、それは社会関係やネットワークなどの仕組み、あるいはそれが生み出す相互の信頼関係や連帯、暗黙のルールや社会規範などを指す。農村や企業、同窓会などにおける共同体的な人々のつながり、交流サイト(SNS)によって形成される関係も含みうる。幅広い概念で定義はまだ曖昧、ここ30年の間に、多くの分野で研究が進められ、「信頼関係が社会に重要」ということだけは共通の認識という。イタリアで、その蓄積のある北部は蓄積の浅い南部より民主主義が機能し経済的にも発展した、米国のカトリックコミュニティーは若者の教育水準を高めているというプラスの効果、しかし、利益団体の結束力を高め、それが「しがらみや呪縛」となる負の影響も指摘されている。

 日本では、大震災を契機に、絆というコトバが使われるようになった。災害への対応において、暴動も混乱も起こさなかった日本人とその社会、その解明のキーワードに絆というコトバが想起された。

小生が思い浮かべたのは、鈴木孝夫氏が「言葉と文化」1973岩波新書で提起した日本語の問題と、山岸俊男氏が「信頼の構造」1998東京大学出版会で提起した信頼についての日本人の心性の問題だった。2001年「日本の構造改革と日本的心性」参照

 日本語の人称代名詞の使い方には、相手に依存する=相手が自分より上か下かで使う言葉が違ってくるという外国語には見られない特異な性格がある。その結果が、(1)自分を上下関係の中に位置づけて安心するという縦系列に敏感な社会を作り、(2)位置づけの決められない相手は不安だから疎外し、仲間だけで群れる閉鎖社会となり、(3)とりあえず平等だから他人を信頼しリスクを恐れない欧米社会に対し、安全・安心志向で事大主義となりリスクを敬遠する日本社会という欠点が逃れられない。

 絆の強さとは、閉鎖的な共同体においてそれが良い面として表れたにすぎないことを認識すべきではなかろうか。他人の信頼は、個人の自由の尊重、話し合いの大前提、民主主義の基本である。かつて主体性の確立が叫ばれたことがあったが、主体性のなさが群れることにつながり、国会の議論を空しくする。

信条を異にする人の寄り合い所帯だった民主党は、自民党に対する反対勢力として政権こそ勝ち取ったが、政治信条なき政党の欠陥を暴露して迷走、野田政権となって漸く政治問題にまともにぶつかり、自民政権も民主党の反対でなしえなかった消費税の増税に向かい一歩を踏み出し、税と社会保障の一体改革、一票の格差是正に三党合意を勝ち取って自公政権に次を譲った。

しかし、後を継いだ安倍政権の金融緩和が、株価上昇・円安進行をもたらしたのではない。時すでに日本に景気上昇機運あり、欧州に金融安定、米国に住宅価格上昇・雇用上昇さらにシェールガス発見の底流あり、それがオバマ政権の第2期につながった。日銀からデフレ克服に向かっての合意を勝ち取ったのも効いた。

安倍政権は稀に見る幸運な出発をした。この幸運は、改革と規制緩和に裏付けられなければたちまち消えるとは、内外の識者の言うところ。第1次安倍内閣はみじめに終ったが、今度手にした大きな政治力を、どう使い日本をどんな国にしたいかは所信表明では明らかにされなかった。せめて野田内閣が後に残した懸案推進だけは確実にやってほしい。それだけでも、バブル破裂以降の歴代内閣のできなかった難問解決として歴史に残るだろう。

                          終わり

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