木下農場始末記(上)  

                   2005.1.31−9.28  木下秀人

 目次

(1)概説 22町歩21万円の農場投資、負債67千円

(2)木下作太郎の人と事業―農場開設まで

  @ 下平政一さんの伝記

  A 経歴と事業

  B 不動産投資

  C 北殿で農場―「新しい村」

(3)養蚕農家と生糸価格と世界恐慌

(4)担保地価上昇による返却

  @ 泰阜村の場合―大幅な上昇

  A 北殿の場合―高値買いと西天竜水路工事の負担大

(5)地価上昇の理由―発電所と鉄道

(6)借金完済と戦後のインフレ

(7)仲之町の土地の戦後         以下(下)

 

(1)概説 22町歩21万円の農場投資、負債6万7千円

小生は飯田市仲之町の出身、旧制飯田中学1年の夏終戦を迎え、飯田高松高校、大学を経て日立に就職し総務系を歩き、日本サーボ、東京証券代行を経て、数年前に年金生活に入った。永年の社会体験や読書生活のまとめと、家族の昔を訪ねること、それをパソコンに記録し、あるものはホームページに載せることで退屈しない日々を送っている。

昔の武家屋敷は建替られてしまったが、仲之町の家は飯田藩の重役岡庭蕃氏の居宅だったもので、土蔵には刀・槍・薙刀・弓矢があり、レボルバー式の短銃もあった。伊那19774月、村沢武夫氏の記述する「明治3年士族分限牒」によると、岡庭氏は「五等上士上格」(奏任1、2等、判任3,4等、に続く。禄高基準だろうから小藩の飯田藩では重役といえどもこんなところか)で高40俵に文学教授「岡庭財蔵」が見え、春草の父君「菱田鉛冶」と並んでいる。菱田家は岡庭家の隣であった。

この屋敷は、祖父が明治44年39歳のとき買い受けた。それより先、明治41年、江戸町と仲之町にまたがる宅地1305坪=4661円@367銭の売主は岡庭文雄、親権者岡庭くにであり、44年仲之町306番地294=1031@350銭の売主は千代村の大平豁郎だったことからすると、岡庭財蔵夫人の実家は千代の名家大平家ではないかと推定される。なお大平豁郎氏は、後の百十七銀行頭取で地方経済界の重鎮であった。

祖父作太郎は私の生まれる前になくなっていて、上伊那の北殿で農場を経営していたと聞かせられ、その名残としては、噴霧器や農薬類、収支を記した大福帳、農会関係の資料などが倉に山積みされていた。

竜丘村の農家に生れた祖父は、松尾村に移った青年時代に飯田を引き払って移住する家の財産整理請負から不動産投資を始めた。また地区の有力者の出資を得て「三栄社」という会社を作り、日清・日露戦争のブームに乗って資金を蓄え、大正時代半ばに上伊那の北殿で荒地を開墾し、21万円を投じ22町歩、内水田6町歩の農園経営に踏み切った。主たる産物は養蚕による繭であった。北殿の前に飯島・中沢・七久保村に進出しようとした形跡が土地売買の記録から読み取れるが、結局売り払って北殿に落ち着いた。思うほどの広さが確保できなかったのかもしれない。

22町歩という地主は、昭和16年統計による内地田畑所有者の4.8%に相当するが、長野県は自作農化が進んでいたので、農場があった上伊那郡で1050町歩の地主は60戸、50町歩以上は1戸であった。(農林省監修農地改革顛末概要、昭和26年)

その祖父の農場経営は、当初は世界大戦ブームに乗って順調で、大正3年(下平伝記。しかし買い入れ登記の初年は大正6年、登記は遅れたのかもしれない)から8年までは黒字だった。東京で銀行に就職していた一人息子のわが父を呼び戻すほどだった。

しかしブームが去って、ヨーロッパは戦火で疲弊、日本は関東大震災、米国は株式大暴落、世界は大恐慌時代となった。日本は震災の復興需要で一息つくが、欧米の不況で肝心の輸出が振るわない。輸出の主役の生糸1貫目単価(取引単位は100斤=60貫)は、大正8年高値13−14円が大正9年に半値に大暴落。絹の靴下どころではない時代の到来であった。

苦境が続く中で祖父は病に倒れ、経営は父の肩にかかった。生糸の単価は昭和3−4年2円台=高値の20%前後という安さ。7−8年まで続いたこの安値が木下農場の経営を直撃した。それでも父は祖父が亡くなる昭和3年までは農場を持ちこたえた。亡くなった時、父が相続した銀行負債は6万7千円であった。

その後数年の苦闘、父は農場の円満な閉鎖と借金返済に成功した。負債は巨額で担保資産では不十分だったのを、なんとか持ちこたえる作戦に出たのは担保資産価格=地価の上昇に自信があったからではなく、祖父の死まで農場を閉鎖しないで持ちこたえたことが地価上昇という有難い結果に結びついたのではないか。

当時の資料は土蔵に山積みされていたが、戦時中の紙不足で使われてしまって実態は明かでないが、膨らむ赤字と借金の利払いで、祖父が買い置いた不動産も売却を免れず、仲之町・江戸町にまたがる家作もその対象となった。さらに父は、計理士のほか飯田商業の講師をしたり、町・市会議員になったりして利子払いの生活を支えた。その頃の家計の明細も不明である。

父は戦後間もない昭和24年に亡くなった。小生は苦労話など聞いたことはなかったが、自分が父の没年60歳を超えるようになってから、少しずつ祖父や父の事業の跡をたずね始めた。関係者も他界しており、証拠書類も乏しくて調査は難航したが、結局、父は戦時中の昭和16年に借金をほぼ完済したと結論することができた。

父の永年の友人、下平政一さんの回想「讃仰す 木下作太郎翁」と「法学士木下信」は貴重な情報源であったが、なぜか肝心の借金完済の記述がない。父にとっての重要課題は農場の継続であって、閉鎖清算という結末は自慢できる話ではなかったからではないかと思われる。父は、借金完済を苦労かけた妻と密かに祝うことにして、あえて友人にも告げなかったのではないか。

あえて木下農場の功罪を考えると、木下家にとっては、祖父が蓄積した資産が無に帰する結果となり、父には返済の負担が押し付けられるマイナスが大きかったが、農場に住み着いて戦時中に水路もつけられた農地を手に入れた人々は、戦後の農産物価格暴騰とさらに地価上昇の二つの果実を享受することができた。

戦後の農地法で、不在地主として安く手放さねばならなかった農地を、父は、戦時中になんらの果実を手にすることもなく手放した。地価上昇によるメリットを享受するまで持ちこたえる資力はなかったということであろうか。

 

(2)木下作太郎の人と事業―農場開設まで

(2)−1 下平政一さんの伝記

主題についての資料は、飯田市役所で100年経過して廃棄寸前を取り寄せた古い戸籍と、父の友人であった下平政一さんによる作太郎と信の「略伝」、家に残っていた不動産関係の売買記録、対応する法務局不動産登記の記録が主なものである。法務局の記録は、売買の双方の名前や金額、担保にした借金の金額まで記録されていて、なぞの解明に役立った。

ただ飯田市の場合は、戦後まもなくの大火で法務局の記録が消失し、焼けなかった税務署の課税台帳だけしかないのが残念である。

(2)−2 経歴と事業

作太郎は、竜丘村長野原の農家小林家の3男として文久2年=1862年に生れた。明治10年=1877年松尾村木下藤次郎の養子となり「木下」姓となった。作太郎15歳に対し養父藤次郎20歳、不自然なのは兵役逃れが目的だったからで、母の実家が同じ松尾村の山村だったから仲介があったかもしれない。「松尾村3番地」のこの木下とは、その後付き合いがなく、地番が改定されて場所がわからなかったが、友人木下昭郎さんの探索で場所が特定し、藤次郎長男歌一氏は、昭和初年村会議員を務めたことがわかった。養子の免役特権は明治12年の法改正でなくなっている。

明治18年松尾村の田中アヤノと結婚。23歳と19歳の夫婦。アヤノの父田中豊四郎は、母子を残して横浜に出てしまっていたから、作太郎は松村姓に戻っていた義母もろともの結婚を選んだことになる。「小松屋」という屋号は小林と松村から取ったのではないかと推定される。この岳父豊四郎の行動には、飯田伊那地区で明治期に横浜に進出して生糸輸出で成功した天下の糸平「田中平八」(片倉製糸)や、同じく横浜に出て為替売買で成功し渋沢栄一と並ぶ実業界の大物となった「今村清之助」(今村銀行は昭和金融恐慌で廃業)の影響があったのではないかと推定される。

作太郎は、体は頑丈で骨組みもしっかり、きかん気に加えて頭脳明敏、もうけ仕事に機敏に動く商才もあり、徒手空拳よく識者有産層の信用を獲得し、八幡町の有力者赤羽源平、伊藤儀助の出資をえて「三栄社」を設立した。繭の倉庫保管、金銭貸付などが営業課目で、当初は順調で作太郎の名をとどろかしたが、日清戦争後の不況で閉業したという。この会社の実態も収支の状況もわからないが、作太郎がそれから10年ほど後の明治40年から不動産を買い始め、飯田に本拠となる土地家屋を購入していることからすると、相当な資金を蓄え信用を蓄積したと思われる。次々と買った不動産は担保に入れ、個人や銀行から資金を借り、再投資を怠らなかった。先を読む知恵と度胸に加えて、信用がなければできないことであった。

「三栄社」以後の作太郎は、金融業、土地売買、債券引き受け、名家の財産整理などで家産を増やした。そして飯田(当初は大手町小学校の近く)に活動の本拠を移した。

飯田図書館で大正時代の「南信新聞」を調べていて、作太郎が、長女の婿名義の追手町の店の広告を繰り返し載せているのを発見したが、その内容は「土地、建物、諸株券、講掛込及び返金売買、年賦済借金周旋、普通貸借金周旋、畳家具造作付貸家」で、「利息は年1割2分以下、周旋料は百円につき1円」であった。

財産整理とは維新後の変革に対応しての名家の財産整理で、例えば仲之町の家は、岡庭家の財産整理で土地建物を土蔵にある書物などもろとも買い受けたもの。和書を納めた木箱や岡庭政興の書き残した文章類があって、後に下平政一さんが「右眉は白、左は黒」という本にまとめて山村書院から出版したものが手元に残っている。

(2)−3 不動産投資

作太郎の不動産買い入れ記録で古いものは明治40年=1907年である。鼎村の宅地107坪151円、泰阜村原野982歩、同じく田畑6610歩。もちろん投資が目的で、うち田畑2046歩は547円であった。

明治41年、江戸町の岡庭家の所有地4筆1305坪を4661円で買入れ、明治41−大正1年逐次個人宛に抵当権を設定、さらに明治44年、仲之町の岡庭家の住居を含む294坪を1031円で買入れ住居とした。

森田草平によれば、当時40歳の夏目漱石が朝日新聞入社で月給200円年収3000円、一般社員は月収60円だった。作太郎46歳の実力を見るべきであろう。この294坪には百十七銀行の抵当権が設定され、そのまま息子信が相続し、さらに戦後孫東一が相続し解除するまで抵当権(売り渡し抵当形式)は継続した。

前後するが明治40年、泰阜村の田畑2061歩を547円で競売により買入れ。さらに明治43年、泰阜村の田畑51筆7012歩を1261円で村税滞納の競売により買入れ。泰阜村の田畑原野の買入れは明治40年から大正8年まで、総計30254歩(北殿農場22町歩=66000歩の半分)に達し、うち金額判明分24708歩、その代金5845円、1歩あたりの単価は24銭であった。

このほかに飯田近郊や市内で小規模の土地の買入れがあった。

(2)−4 北殿で農場経営―「新しい村」

50歳を越し脂の乗り切ったところで、「累積した巨万の富を西天竜の荒蕪地帯の開墾事業に着手し、意想外な行動で上下伊那郡を驚かせた」と下平さんは書いている。その経営方針が「新しい村」の建設というので県当局も驚いたというが、武者小路実篤の「新しい村」は発表が大正7年=1918年、場所を日向に決定したのはその11月であった。

22町歩に21万円を投資したというこの農場の土地の売買記録は残っていない。法務局で調べるといっても地番がわからない。見当をつけてめくっていくから時間がかかり能率が悪い。半日調査を2回繰り返して見つけた2割ほどによると、買い入れが大正6−8年、それぞれ百十七銀行の抵当権が設定されているが、場所は必ずしも隣接していないし総額はわからない。ただ泰阜村124銭平均に対し、22町歩21万円で平均するとし、北殿は1318銭となる。

日本不動産研究所の古い統計によると、大正68年畑15981139銭で、それを頂点として不景気に寄る下落があった。土地だけではないとしても、高い買い物だった。時代は欧州大戦景気の最中、問題はそこにあったというべきかもしれない。

閉鎖に向かっての売却は、昭和10年村税滞納による公売が1件あったが、昭和1112年、銀行の抵当権行使による競売が大部分であったと推定され、16年以後の売却の記録はない。既に高値で買っているから、その後の不況で下落した値段は担保価格を上回らなかった可能性が大きい。

農場の後始末に関わった蜂谷さんは、昭和22年農地法によって競落者の次の取得者から、作太郎生家とつながる小林さんは昭和16年飯田銀行から農地を取得した記録が残っている。作太郎死去の北殿3010番地とそれにつながる3009番地に2軒とも住んでいるが、蜂谷さんがその宅地を20年に買取り、さらに一部を24年小林さんに譲渡した記録がある。蜂谷さんも小林さんも資金面で直ぐ買取りとは行かなかったと思われる。

とにかく耕地面積22町歩=66000歩、春蚕の繭500貫、余った桑葉は松本諏訪に輸出され、豚や鶏を飼い、野菜の収穫は飯田の相場を左右した。働き手の所帯67組、子供のために小学校の教員に出張してもらい、ロバート・オーエンの「新しき村」か、という下平氏の記述はほめ過ぎかもしれない。

当時飯田伊那地区は労働力不足で、南信新聞に郡長・県会議員・蚕種製糸同業組合長・郵便局長・町長が名を連ねた「日鮮移民合資会社」による「朝鮮人夫移入広告」が載るほどだった。183550人ずつ3回、1ヶ月−1年以内、賃金は月当り124.5円以下、34127.5円以下、6912円以下であった。

農場の管理者だった蜂谷さんの子息の話では、作太郎は差別せず雇い入れ、面倒見がよくて結婚もさせたらしい。当時の新聞を綿密に調べると、下平説を裏付ける記事が見つかるかもしれない。後年作太郎の葬式に、大声で泣く女性がいたとの姉の話があるが、朝鮮の葬礼にかなっている。

 

(3)養蚕農家と生糸価格と世界恐慌

明治末から大正末の20年間、日本の養蚕農家は増えた。桑園の全耕地面積比は8%、畑地面積比は16%であったが、ピークの昭和5年には12%と26%に増加した。

繭の生産は、明治13-1745千トンが、明治43−大正3年は162千トンと3.6倍増、ピークの昭和5-9年には361千トンさらに倍増した。

この間に生糸の値段は激しく上下した。大正の初めは100斤当り800円台だった横浜現物相場は、欧州大戦景気にあおられて6年1146円、7年1376円、大戦終結後の82128円の高値をつけたが、これがピークで91663円、101511円と下がり、111904円と持ち直し、122008円、131703円、141957円、151580円、昭和21375円、31321円、41315円、米国株式大暴落で5775円に暴落、6583円、大戦景気前の水準さえ下回ってしまった。(玉川寛治、製糸工女と富国強兵の時代2002新日本出版社)

生糸の輸出先は、大戦前は欧州向け34%、米国向け66%であったが、欧州大戦後は米国向けが96%となっていた。そこへ米国発の大恐慌だから、当然の下落であった。さらに日本の大陸侵略が米国との摩擦を引き起こし、米国は日本の主力輸出商品である生糸輸入を禁止に踏み切り、やがて開発されたナイロンが生糸の靴下を駆逐してしまう。

借入金を抱える木下農場の経営はたちまち赤字となった。その苦境下に作太郎が脳卒中で倒れた。多額の借金で元利払いも容易ではない。父は祖父の住む農場には手をつけず、それ以外の不動産を逐次売却して支払いに当て、昭和3年の祖父の死去後に農場を整理解体した。相続時6万7千円の借金が完済できたのは、作太郎が営々買い貯めた不動産の売却によってであった。

 

(4)担保地価上昇による返済

祖父は早くから農地・宅地を含む不動産投資によって資産を蓄積した。買った土地は担保に入れ、借金してまた投資するという積極的な姿勢を堅持した。借金は担保価格を上回らないから、担保価格が大幅に下落しない限り借金は返済しうる。平成の金融危機は、株式・不動産という担保価格の激落が原因であったが、昭和金融危機における飯田伊那地区の銀行は、地価上昇=担保価格上昇という有難い条件に恵まれた。取り付けもあり、政府方針に従って合併もあったが倒産はしなかった。木下農場が、借金を銀行に迷惑かけずに返済できたのは、景気や為替の変動にもかかわらず殆ど動かなかった全国の地価に対し、伊那飯田地区の地価が上昇したからであった。

(4)−1 泰阜村の場合―大幅な上昇

例えば日本発送電(現中部電力)の平岡発電所建設用地買収について、「平岡ダム交渉誌」(平岡ダム対策委員会、昭和28年)によれば、昭和1019年耕地42千坪、山林原野13万坪の買収は、平均坪当たり、田4円、畑3.5円、宅地4.5円、山林35銭と記録されているが、明治4043年祖父の買収した泰阜村の田畑12546坪の単価は1830銭であった。大正29年のこの地区の買収田畑12270坪の単価も、1928銭で変わらない。

地価の明治期の統計はない。大正2年から日本不動産研究所の調査(日本勧業銀行を承継)があるばかり。祖父の土地は畑主体なので、畑の坪当たり全国平均をみると、大正253銭、8年139銭と高騰、9108銭と下がって昭和2年まで1円台、以後不況で下がって777銭−1285銭、101円を回復して、20186銭、戦後21311銭でインフレ時代となる。なお、田は畑の67割高値であった。

日本発送電の買入価格、畑350銭(作太郎の北殿の買入れ単価318銭最大推定に匹敵)は、当時の田の価格で換算しても全国平均の5−6割高、祖父の明治大正の買入価格では10倍になった。担保価格は買入れ時の時価の6−7掛けと推定されるから、生じた黒字は北殿農場の閉鎖売却による赤字を埋め合わせる財源となった。

その金額は例えば、記録にある日本発送電・信産銀行・三信鉄道への売却24708歩が単価3円で売れたとして原価24銭で、黒字276銭の総額68194円、父が相続した負債67000円を上回る。このほかの資産売却も加味すれば、農場の赤字を埋められたのではないか。

所有する土地は、岡庭氏から買い入れの江戸町仲之町にまたがる宅地も、昭和3年祖父死去時には減っていて、16年にほぼ負債整理は終わり、戦後のインフレ時代まで持ちこたえられはしなかった。

大正期の日本産業界は、動力源を蒸気や水車から電力への転換期に当り、明治44年電気事業法施行に伴い水力発電会社が続々設立され、水力電気を利用した電気化学工業も勃興しつつあった。隣の木曽川では、福沢桃介の東邦電力の成功が人の目を集めていた。

祖父はこの傾向を察知し、天竜川水域の用地を先回り取得したと推定される。

(4)−2 北殿の場合―高値買いと西天竜用水路工事の負担大

祖父の最後の事業となった21万円投資、22町歩の農場には記録がないが、法務局の土地台帳によると、買収は大正68年。買収と同時に六十三銀行に根抵当権が設定され、それが大正14年に抹消されるが、祖父が亡くなった後昭和3年末に百十七銀行に設定され、昭和12年に抹消という1筆がある。泰阜地区の売却による返済と推定されるが、肝心の買入れと売却の金額はわからない。買入れについて、21万円で22町歩という投資総額があるが、これが高値買いだったから、売却は総体として赤字であったと推定される。

この昭和12年の売り先には、銀行を経由して個人にわたったものと、個人に直接のものがあり(67組の夫婦が住んでいた)、当然ながらその後の転変も記載されていて、昭和2年制定の自作農創設維持補助規則による南箕輪信用販売購買組合からの借り入れ=根抵当権設定の記載もある。

注目すべきは西天竜用水路の完成に伴い、それにつながる導水路工事の受益者負担金や村税滞納で公売されたケースが見つかったこと。作太郎の不動産取得の初期のケースがまさに税金滞納による公売の落札であった。購入時期が遅かったこの地区では、地価上昇による利得より工事負担金が重かった。当時の公共投資には、受益者負担の原則があったということであろう。

 

(5)地価上昇の理由−発電所と鉄道

地価が上がった理由は二つある。一つは天竜川に関わる矢作水電(泰阜)、日本発送電(平岡)の発電所工事と三信鉄道による用地買い上げ、いま一つは飯田線の開通による利便性の向上である。

天竜川水系の発電所建設は、当初は飯田電灯松川発電所(水車発電機は日立製)のような支流に関わる小型のものであったが、やがて1万馬力以上の水力発電機が国産できるようになり、本流に流れ込み式発電所が計画されるようになった。総出力52500KWの泰阜発電所は、昭和7年に着工11年完成した。その下流の昭和15年着工の平岡発電所は、捕虜虐待などの問題を残しつつ19年工事中止、電力不足の戦後25年に工事再開し、27年完成、2万5千KW水車4台、10KWの大発電所であった。

中央線辰野からの鉄道は、明治42年伊那松島まで開通、以後毎年距離を伸ばして、大正11年伊那大島まで開通、大正12年には飯田に達していた。

これに対し東海道側は、飯田―天竜峡間は昭和2年に開通し、東海道側の豊橋―三河川合までは豊川稲荷や鳳来寺などがあって早く開通していたが、そこから佐久間に出て天竜川の渓谷沿いの建設がトンネルと崖縁の難工事で、天竜峡に達し飯田が東海道線に結ばれたのは昭和12年であった。難工事が運賃を高くしたが、東海道と日本海を結ぶ軍事上も重要な本土中央部横断線であった。18年国鉄移管によって運賃は標準化した。

北殿については、買い入れ時期が鉄道開通と接近していたので、鉄道開通による利得はなく、この地区に特有の地価上昇要因である「西天竜幹線水路工事」は、地価上昇分を工事費として負担する仕組みだったからむしろその支払いに苦しんだ。この工事は、江戸時代に構想され、明治35年期成同盟によって推進され、天竜川の水を川岸から分水し農業用水とする全長5654メートルの大工事であった。県による補助金922647円、下平伝記で総額1千万円となっているのは耕地整理費を含めたのかもしれない。大正11年着工、昭和3年完成、引き続いて耕地整理組合による導水開田工事が昭和13年まで行われた。南箕輪村誌によれば、この費用646万円は国と県の助成金314万円補助金108万円のほか、地目転換による収益差額の受益者からの徴収(価耕地整理前後で坪1円33銭の畑が、坪333銭の水田へ転換が可能となった)によってまかなわれた。40年分割返済のこの計画は、昭和20年、インフレによる繰り上げ一括返済という好条件に恵まれたが、その頃木下農場はもう存在しなかった。たまたま泰阜地区の処分益が発生したので、土地一括処分による負債完済農場閉鎖の道を選んだのであろう。

 

(6)借金完済と戦後のインフレ

昭和16年秋は、銀婚の年に当たる。父と母は、まだ学齢に達しない末娘を連れて、伊勢・奈良・京都・宮津への旅行をした。京都では福知山で中学教師をしている母の兄祐次おじさんや、倒産した母の実家の三男で祐次さんが養子にして学費を出し、京都で歯医者の学校に行っている諒三さんと清水寺で取った写真があった。たまたま128日を旅先で迎え、あわてて帰ってきた記憶があるが、この旅行こそ父にとって借金完済の記念だったのではないか。泰阜村の土地が思わぬ高値で売れて、負債をほぼ完済した上に、次女に高等教育受けさせ、小生の学資などさえ預金できた。

しかしその後の戦況の悪化・敗戦後のインフレで、祖父や父が辛苦して蓄積保持した資産はほとんど無になってしまった。戦中に娘二人を嫁に出し、戦後トラック島から栄養失調で帰還した長男を結婚させたが、まだ修学中の娘3人息子1人が残っている。病に倒れた父は黙して語らなかったが、胸中はどうだったであろうか。祖父が蓄えた不動産は借金返済でなくなり、僅かの預金はインフレで消えた。残ったのは仲之町の住まいと土地だけで、その土地も銀行の抵当に入っていた。

(7)仲之町の土地の戦後

戦後23年、父は仲之町の土地48坪(千円=坪当たり20円、2×25間という地形)を小生名義にしたと語った。(焼けなかった土地台帳に昭和12年八十二銀行名義となっていたのを、614日秀人名義に変更と記載あり。)学資として用意した預金がインフレで無に帰して、せめてもの心やりと理解した。今回の調査で、仲之町の土地は作太郎の常套手段で借金の担保(おそらく譲渡担保=買い戻し条件付き)で銀行名義になっていて、残った294坪は父の死後の昭和26年、兄が買取りを薦められ10万円=坪340円(明治44年に坪350銭で取得)で銀行から買い戻したとこれは兄の病床での直話。坪当たり単価の51年で97倍は別として、直近3年間で17倍の上昇は、秀人分は地形が悪いから安かったと理解すると22年―26年市街地地価5倍という数字と整合するであろう。父が背負った負債は67千円、ほぼ完済して残ったのは自宅の土地だけだったが、インフレが元金を上回る10万円まで持ち上げてしまったとは父も知らなかったであろう。

土地台帳によれば23614日八十二銀行に所有権移転。26612日東一名義に変更と記載あり。23年の日付は、秀人名義への日付と一致する。しかし焼けたあと作り直した登記簿には、26年の東一さんへの所有権移転の原因は21410日の売買とされていて、23年銀行名義の保存登記と矛盾する。おそらく東一さんは台帳記載のとおり、父死去後の相続で26年に銀行から買い戻したが、売買期日を火事前の21年として申請し、そのまま受け入れられたのか、それとも登記所の誤記かであろう。

父は泰阜と北殿の処分で借金の大部分は払い終わったが、住居の担保は残った。戦後インフレと預金封鎖で手許不如意のため全部の買戻しは無理で、小生分だけに止めたのであろう。兄は父の死後、単独相続し、愛宕坂の149坪や作太郎が建てた土蔵、書画骨董什器類の売却で買い戻し資金を調達できた。224月、飯田市の主要部を焼き尽くした火事は、土蔵売却のプラス要因となったであろう。買主は倉を失った質屋だった。

                     上 おわり

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