木下農場始末記(下)

 

目次

(8)記憶と証言の断片

   泰阜村の青木さん

   すゑおばあさん

農場の蜂谷さんと小林さん

啓蔵さんと蜂谷さん

閉鎖後の農場

本町の紙文

戦後の父

兄のこと

(9)補論―1−飯田の銀行と金融恐慌

10)補論―2―日本経済と生糸輸出と貿易黒字―金銀比価の問題

11)補論―3―日本の農家所得と土地所有

12) 厄払いか信仰か             おわり

    

(8)記憶と証言の断片

泰阜村の青木さん」

泰阜村に飯田線温田駅がある。駅から線路に沿って豊橋方面に歩くと青木という家があって、品のよいお爺さんが時々仲之町へ挨拶に見えていた。この人に「恕」という字の意味を聞かれて辞書を引いたことがある。今思えば、論語のキイワードの一つである。姉と満員電車に乗って買出しに行った事もある。この人が泰阜地区のまとめ役だったのだろうが、その頃は農地の処分は終わっていて残務整理報告だったと思われる。

「すゑおばあさん」

「すゑ」という名のお婆さんがいて、この人が北殿で作太郎さんの世話をした人だった。作太郎のアヤノ夫人は明治41年43歳で亡くなったが、その時57歳の作太郎が北殿で生活するには身の回りの世話をする人が必要で、それがすゑさんだった。平栗姓だったから、父の姉コウの養子啓蔵の平栗家、或いは別府の平栗の縁続きかもしれない。作太郎の死後仲之町で「おばあちゃん」として一緒に生活した。おとなしい人で昭和14年66歳で亡くなった。子供だった小生にはおぶってあやしてもらったとか、戸棚を開けると吉祥天の画像があって我が家の仏壇と違うなという記憶しかないが、農場時代は大変元気で、大勢の人を指揮命令していたらしいと後述の小林一男さんから聞いた。

「農場の蜂谷さんと小林さん」

農場には蜂谷岩男さんがいて、泰阜の青木さんと同じく時々家に見えた。しかし小林芳雄さんが見えた記憶はない。土地登記簿によると、作太郎が住みそこで死んだ南箕輪村北殿3010番地は二つに分割され、現在、蜂谷家と小林家が住んでいる。長野原の小林の分家から来た小林芳雄さんの土地の名義変更は昭和16年、蜂谷さんは14年。芳雄夫人は泰阜村出身で、養蚕指導に当ったと聞いたが、この頃農場は閉鎖・後始末の段階で、次男の芳雄さんに農家としての新天地が開けたということではないか。小生子供の頃、父と長野原の作太郎の生家=小林家に何度も行った覚えがある。帰りは提灯を貸してもらい駄科駅まで満天の星を仰ぎながら歩いた。小林家には本家と分家があり、本家で話した父は、分家にも寄るのだった。本家の当主は鎌さまという品のよいお爺さんで、仲之町にもしばしば見えた。クリスチャンで、見えるとすき焼きがご馳走で、子供たちには残りが楽しみだった。

芳雄さんとは小生は面識ないが分家の次男であった。長男の計美さんが、戦時中我が家に野菜貯蔵用の深い室を掘ってくれたことがある。ある日荷車を引いてやってきて、台所の囲炉裏のあった跡に4尺四方深さ2間ほどの室を一人であっという間に掘りあげて、土は大きな柿の木のある玄関先の庭にまき、庭の踏み石が隠れてしまった。あれは何だと思っていたが、父が農場処分に当り、小林家に話を持ち込み成立した返礼と考えると、一連の話がつながってくる。なお芳雄さん夫婦には子がなく、戦後上伊那にいた姉の娘を養子にし、近くの大芝に入植していた丸山清さんを婿に迎えた。芳雄さんは昭和42年死去。後を継いだ清さんには1度会ったが、帰りを急いで話を聞けなかった。まもなく夫人が自動車事故で亡くなられ、本人も脳出血で臥して機会を失してしまったのは残念である。小林家と蜂谷家は隣接していて、小林側に旧農場の倉庫があるが、参考資料があるかは聞いていない。

小林計美さんの長男一男さんは小生より少し年下だが、長野原で羊の焼肉屋を経営し、お話を聞くことができた。飯田市役所を中途退職し、食肉用のサフォーク種の羊飼いを始め成功した。芳雄さんにかわいがられ、よく農場に行ったという。小林家は越後出身で上杉謙信がらみで長野原に定着したのではないか。古い証拠に菩提寺の念通寺の戒名が「院」でなく「庵」となっていて、それは古い由緒ある家のみであるという。

「啓蔵さんと蜂谷さん」

作太郎には信の上にコウという娘がいた。松尾村の平栗家から啓蔵さんを養子に迎えた。ところがコウは大正7年32歳で鎌倉で死去してしまう。(そこで再婚した啓蔵も大正11年に死去。啓蔵亡き後の一家を、父は戦時中仲之町の離れに受け入れた。)そこでわが父が呼び返されるのだが、作太郎は蜂谷さんを、啓蔵に代わる父の義兄弟・農場担当として育てたいと考えていたらしい。蜂谷さんは高森町の生まれ、作太郎とのつながりは明らかでないが、東京の大学を出してもらい、農場閉鎖後、佐久の御牧原にあった満蒙開拓の青年学校に務めた。馬に乗って格好良かったそうだ。木下恵介の「少年期」に、諏訪に疎開した少年一家がいじめられる話があるが、同時代の飯田には軍国主義はあったがいじめはなかったと思う。

戦後は教職資格が生きて、小学校や女学校の校長になったという。北殿の蜂谷家の墓石の筆頭に、血のつながらない木下作太郎とすゑがあることは嗣子誠さんに会うまで知らなかったが、作太郎の徳というべきで有難いことであった。

「閉鎖後の農場」

戦中戦後の食料不足時代、農場があるのにどうして食料がこないのだろうと思ったことがあるが、既に農場はなかったとは知らなかった。そして戦中に農地を取得した北殿地区の人々は戦後の食料不足を切り抜け、インフレによる地価上昇の恩恵を享受することができた。蜂谷誠さんは小生と同年であるが、歩いていると見知らぬ人から挨拶されることがあって、多分旧農場関係者でそこで夫婦となって家を構え定着した何組かの1人ではなかったかという。父の法名は大信院徳林宗澤居士であるが、農場の閉鎖、農地売却で無理をせず、作太郎にならって多くの人に徳を施したということであろう。

「本町の紙文」

農場の不振と並んで、母の実家の本町の紙文(紙屋木下文蔵)という由緒ある茶商が危機にあった。飯田財界の名士であった母の父が亡くなり、長姉が養子を迎え、その人が亡くなって、あとを継いだ長男は商売に不向きで経営不振、後見役であった母の兄が脳出血で倒れてしまった。そのあとの相談に父について夕方本町に通って眠くて閉口した思い出がある。結局店はたたんで子供たちの行く先を決め、倒れた義兄一家は仲之町の隣の家に移った。病床の叔父さんは、身動きできなかったが、頭はしっかりしていて、今なら早くリハビリして復帰できるのだが、当時は寝かせておくしかなかった。小生より上の男子が二人いて叔母さんの負担が大変だった。この家には我が家にない蓄音機があって、「軽騎兵序曲」や「詩人と農夫」は小生の洋楽を知る始めとなった。

父は、明治生まれとて母に手を出すこともあったが、実家の面倒は見た。「外面=ソトヅラはいいが、内面=ウチヅラは悪い」というのが母の父への評価で、家族にやさしく接することができないのは、この時代の人の通例であったろう。本町を処分した残りの雑物の箱が物置にあって、敵中横断三百里など子供の本や落語全集は愛読したが、のたくった字の浄瑠璃本には手が出なかった。本町の盛んな頃は習う人がいたらしい。

「戦後の父」

終戦の日、家でラジオを聞いたが雑音でわからなかった。父が「御親政かな」といったのを覚えている。皇族内閣を予期したとすれば丸山真男氏と同じ先見性だが、天皇親政だろう。敗戦とわかって「これでよかった。軍部がこのままでは大変だ」というのが父の意見だった。父の書棚には上杉さんも美濃部さんもあった。飯田にも政友会などの支部があったが、関わらなかった。県会議員や衆議院議員を勤めた北原阿智之助が、桂太郎に会って「ニコポン」に感じ入った話が升味準之補に記録されているから、田舎でも中央政界への関心はあった。東大教授の穂積重遠が飯田に来て撮った写真に父が写っている。同窓の誼かもしれない。小泉信三は父と殆ど同年輩で、しかし彼は慶応で勉強と海外留学の恵まれた経歴だったが、戦前からマルクス批判者であった。父にどれだけ理論の裏づけがあったか知らないがソ連の背信には怒っており、河上肇の第二貧乏物語や高畠訳の資本論も蔵書にあったが、共産主義には批判的だった。

農地改革が始まった頃、父は新聞記事を切り抜いてスクラップブックに貼りこんでいたが、その頃もう不在地主として売り渡すべき農地はなかった。毎年お彼岸にお墓に立てる竹の花筒を届けてくれる人がいた。地代かどうか、愛宕下にあった竹薮つきの宅地の使用料かもしれない。

預金封鎖とインフレ時代に、父は市会議員と商業学校講師と計理士で細々と暮らしを立てた。計理士業は会社などいくらもない飯田だから繁盛とは行かなかった。進駐軍が教育会館に駐留していた時、話に行こうかなどといっていたから、英会話はできたのだろうが役に立つことはなかった。鹿児島の七高時代、外人教師と写った写真があったし、大学の教科書も英文が多かった。PTAの会長に祭り上げられて、小学校時代に話を聞いたことがあるが、うまいとは思えなかった。飯田市長の話もあったが、もうその頃体調不良で受けられなかった。

昭和10年、父は糖尿病と扁桃腺炎で生死をさまよう大病をし、勤めていた飯田商業の生徒の献血を受け立ち直った。その糖尿病が戦後23年再発し、結核と胃がんを併発していた。ストレプトマイシンが高価で金が尽き、別府の某家に熊の毛皮を5万円で売りつける下平さんについていったことがある。食料不足のインフレ時代、生活は楽ではなかった。小生は兄の使い残した受験雑誌や参考書を使って、準備に余念なかった。1年違いで旧制高校の門は閉ざされ、新制大学の受験が控えていた。高校2年の秋模擬試験があって、総合で良い成績だったことがある。総合成績は発表されなくて本人は知らなかったが、母が誰かから聞いて父に話したと母から後に聞いた。少しは安心させたかもしれない。

昭和24年の暮れの夜、父の病床のこたつで本を読みながらラジオが奏でる鰐淵賢舟のチゴイネルワイゼンとチャイコフスキーの憂鬱なセレナーデを聴いた。洋楽は好きといえない父は黙っていた。父は122160歳で亡くなった。

「兄のこと」

15歳上の兄は、作太郎の初孫で景気も良かったので恵まれた少年時代を過ごした。ただ子供が次々生まれた(男4人女5人)ので、親の愛情を独占できない不満があったかもしれない。園芸が好きで、裏庭の小さな社の前の花壇は、兄が苗や種を園芸会社から取り寄せ作ったものだった。中学時代にはいた編み上げの革靴は兄のお古で、大学時代まで小生の大事な宝物だった。

兄は大学進学を断固拒否して神田の簿記学校で学んだ。

徴兵検査では第二乙、教育召集で松本連隊に入り、満州国吉林省の朝鮮とロシアが近い国境の町琿春(コンシュン、中国語ではフンチュン)に駐在した。近くに岐阜の開拓団があったらしい。当時中学出は少なかったから、通信兵に選ばれた。2年で満期除隊の時、父と辰野まで迎えに行った。「ただいま帰りました」と挙手の礼をした兄は、車中父と殆ど言葉を交わさなかった記憶がある。馬の手綱を取った兵隊時代の写真があった。帰ってから家で「曉雲の下,見よはるか」という関東軍の歌や「おおみひかり天地に満ち、帝徳は高く貴き」という満州国歌、題は知らないが「月の露営に雁が鳴く、空を仰げば5羽6羽、便りはないか故郷から」という歌を良く口ずさんで、小生も覚えた。

父の世話で東京の多摩川精機(社長の萩元氏は父の仲人の親戚、今も存続している)に勤めたが、社交的でなく会社勤務は肌に合わないようだった。多摩川精機は戦時中に飯田郊外に工場を作ったが、復員後の兄はそこへ戻らなかった。

2度目の召集は米国との戦争が厳しくなった昭和18年9月で、松本連隊は、暮れからトラック島に向かって宇品港を出発、兄の乗った船は192月着く直前に撃沈され、駆逐艦に救助されて春島にいた(山本茂美「松本連隊の最後」角川文庫)。トラック島は連合艦隊の舶地であったが、すでに航空戦力を失った武蔵は1910月レイテで撃沈され、大和の沖縄への特攻出撃は20年4月であった。トラック島は米軍に無視されたのが幸いで、戦争終結までサツマイモとカボチャで飢えをしのぎ、2011月栄養失調で帰国した。トラックの別の島の海軍基地には俳人の金子兜太主計士官がいて食料に苦労したらしいが、帰ってきた兄がサツマイモの茎を、こんなものが食えるかと怒ったのは、熱帯ではるかにえごいのに食わねばならなかったあの島の体験があると納得した。

千葉の陸軍病院で療養し、浅間温泉を経て家に帰ったのは昭和21年。今度は「北はマリアナ、南はポナペ」という歌を覚えたが、サイパンとニューギニアの中間の南の島である。結局兄は軍隊生活で、実弾を人に向かって発射したことはなかったのではないか。

復員した兄は、しばらく父の法律事務=会社作りの手伝いをしていたが、飯田の火事の後、満州帰りの従兄弟彦三さんと新生建設などという看板を出した。これは商売にならず、田口という酒屋の子息と飯田鉛筆軸板工業という会社を設立し、桜町の上のほうで人を使って仕事を始めた。その会社はしばらく続いて、薄く鉛筆の幅に切った板を円形に高く積み上げて乾かす姿が地元新聞に載ったりしたが、柔らかい輸入木材が優位になって長続きしなかった。その田口さんが、兄の愛娘の夫=宮島八束さんの会社「喜久水酒造」で上司だったとは奇遇である。

小生はまもなく東京へ出てしまったので詳しくは知らないが、父の死後は、前述した土地や作太郎が建てた土蔵、書画骨董什器を売り払った金を運用してうまくやっていたようだ。作太郎自身は専ら土地と農業生産を投資の対象とし、証券は営業品目に掲げてはいたがやった形跡はない。戦後農業も農地も農地法の規制で、自由な投資活動はできなくなってしまったが、証券投資はインフレと高度成長で目覚しい膨張を遂げた。

第一次大戦の株式ブームではうまく売り逃げた本多靜六という植物学者が有名だが、戦後の株式投資のリターンの高さについて、ディムソンとストーンの「証券市場の真実」によれば、昭和30年=1955年から平成13年=2000年までの45年間に、株式投資(増資や配当も換算)は名目で146倍となったが、対応する全国市街住宅地の地価(日本不動産研究所)は64倍で、株式投資がはるかに有利だったことを付け加えておこう。株式は1989年末に高値を付け、地価は1991年9月が高値で、いずれもバブルといわれ平成となっても上回ることがない。基準とした数字は、その後の不況による業績低下や、金利・使用価値などの新しい基準によって下落した数字である。

                        

(9)補論1―飯田の銀行と金融恐慌

 小林郊人「飯田の銀行」伊那1953.3−7によれば、国立第百十七銀行は、明治10年士族の1石当り4円の金禄公債に裕福な農家・商人の出資を併せて設立を願い出て、翌年認可、12年開業した。それは政府の推奨するところであった。資本金5万円で発行された紙幣4万円は明治15年日本銀行の兌換券発行に伴い回収され、30年株式会社に改組、資本金は22万円となった。

欧州大戦景気で資本金は大正8300万円、八幡商業銀行、赤穂の庚子銀行、飯田実業銀行を合併して15400万円、行員に士族が多く殿様銀行といわれたが運営は堅実であった。以下、八十二銀行史、飯田信金50周年記念史「伊那谷の歴史の中に」昭和51年も参照する。

大正7年シベリア出兵による米価高騰=米騒動、9年大戦景気の終り=生糸価格の暴落、戦後恐慌の始まりで株式相場も大暴落、弱小銀行破綻が始まり、有効な対策がなされないまま不況は昭和に持ち越され、昭和2年蔵相失言による金融恐慌、昭和4年ニューヨーク株式大暴落、その只中の5年旧平価による金解禁の失敗、相次ぐテロやクーデター事件に加え、海軍はロンドン軍縮条約批准をめぐる統帥権干犯騒動の不始末、陸軍は満州での暴走を押さえきれず、時代は昭和動乱による敗戦につながっていく。

昭和2年の金融恐慌では、百十七、信産、伊那銀行は、支払い猶予令による休業明けの425日、預金窓口は混乱なく、飯田信用金庫では引出より預金が多いほどだった。

昭和5年、上田の信濃銀行、6年、大島村の大島銀行が破綻、大島銀行は役員が私財2万円を提供し、大口支払い延期で調整再開した。その余波で、百十七銀行は県下銀行一斉休日明けの1120日、支払いの一時制限こそしたが、9年資本金を240万円に減資して更生した。信産銀行と伊那銀行にも問題はなかった。百十七銀行は9年、預金者でなく株主の負担において、不良債権償却によるバランスシートの改善を行い、101月の株主総会で配当を復活した。京浜から遠い伊那の銀行には震災手形などはなく、昭和2年と6年再度の金融恐慌を切り抜けた。

14年政府の政策に従い信産銀行=200万円と、伊那銀行=100万円が合併し、資本金378万円の「飯田銀行」となったが、この合併には前年の南信倉庫事件(同一担保に発行された倉荷証券で3行が過当貸出しをして損害を受けた)による過当競争の反省が働いたという。このときも株主負担の減資があった。さらに18年、1県1行主義により「八十二銀行」となって現在に至る。要するに百十七銀行は金融恐慌時を、株主負担の減資によって切り抜け、預金者に迷惑はかけなかった。

ちなみに18年合併時の百十七銀行の預金518万円に対し貸出361万円、信産銀行は預金619万円に対し貸出370万円で、オーバーローンではない。木下農場への貸出残6万7千円の返済は16年で年次はさかのぼるが、金額が零細でなかったことは伺われよう。負債を相続した信は景気回復をじっと待ち、機を見て完済して銀行に迷惑はかけなかった。

 

10)補論2−日本経済と生糸輸出と貿易黒字、金銀比価の問題

「輸出商品生糸」 鎖国時代の長崎オランダ商館を通じての貿易の主役は、初期には中国産の生糸と国産の銀金銅との交換だったが、輸入は絹織物や砂糖・雑貨、輸出には陶磁器などが加わるように変化し、かつて中国人がシルク・ロードからの絹織物を国産化したように、幕末には日本人は蚕を飼い生糸をつむぎ、織物に仕上げる技術を習得していた。

だから井伊直弼による日米通商航海条約調印、翌1859年=安政6年開港の頃、欧米の生糸生産国イタリアとフランスで蚕に伝染病が大発生という事件で、中国と並んで日本は生糸と蚕の卵を植えつけた蚕紙の供給国として登場することができた。平沢清人「下伊那蚕糸業の百年」伊那1975によれば、伊那の生糸は開港前にフランスに売られ、高値で売れるので増産意欲を刺激したという。なお蚕紙輸出は、維新前に急増し、パスツールによる防疫対策によって終わる前後20年ほどの出来事だったが、高値で売れる商品としての生糸と蚕紙の登場は、農民を刺激し桑の栽培、繭生糸生産を急増させた。

こうして維新前から輸出の主役だった生糸輸出は、維新後10年の平均50%と日本の輸出貿易の主役であり続け、その地位は戦前を通じて揺るがず、世界恐慌を含む1920-30年代でも38%という高水準を維持した(玉川寛治、製糸工女と富国強兵の時代2002新日本出版社)。後に綿糸綿布が輸出の主役となり国際市場を制覇し、インド以下的賃金(山田盛太郎)による安値輸出として問題となるが、原綿の輸入を差し引くと黒字はわずかで、外貨獲得の貢献度において、すべて国産でまかなう生糸には対抗できなかった。

「江戸末期の為替問題」 なお当時日本における金貨と銀貨の価格差1対5が、メキシコ銀の大量供給で銀が安い欧米では1対15であったから、欧米側にメキシコ銀で金を買って大儲けする機会を与えた。両替商が横浜で栄えた所以で、わが今村清之助はその一人であったが、とんだマルコ・ポーロのジパングであった。佐藤雅美、「大君の通貨」はこの問題の日米交渉を描いて詳しい。

メキシコ銀の大量流入による金貨の流出。それは100年後の1971年、冷戦下の西欧復興支援で進行したドル紙幣の大量流通によるドル安、固定交換比率による米国の金流出、それに輸出不振の米国が耐えられなくなった結果がニクソンショック=金ドル交換停止・比率のドル安への改定、さらに為替市場の自由化=変動相場制=金融自由化であった。

戦後高度成長で多額の貿易黒字国となった日本は、米国から円安為替の金融自由化による是正を迫られていたが、大蔵省の役人は問題を理解しえず、政治家は佐藤後継をめぐる角福戦争に明け暮れ、学者でも理解者は少数派だった。このとき佐藤首相も読んだという「断絶の時代」で、変動為替制への転換を予言したのがドラッカーだった。(ホームページ「日米戦後の経済成長」「ドラッカーについて」参照)。

米国に続いて英国も金融自由化に踏み切った。だが日本では改革は先延ばしされ、円高不況対策の金融緩和が行き過ぎた果ての不動産・株式バブルの発生。あわてた金融引き締めによるバブル崩壊の中での自由化転換、証券も銀行も適応できず刑事事件まで引き起こして不良資産を蓄積するばかり。その後十数年に及ぶ金融再編成と健全化は、未曾有の低金利による預金者の十数兆円といわれる得べかりし利益の企業への移転=収奪によって達成され、そのパターンは、デフレ脱出ができず、ゼロ金利が続くままに、2011年まで変わっていない。

 

11)補論3―日本の農家所得と土地所有

当時の農家の所得について良い資料がないが、OECDのアンガス・マディソンの計算(世界経済の成長史1820-1992年、東洋経済社)によると、維新時の日本の1人当り実質GDP741j、毎年上昇して明治451,332j、大正151801j、不況で昭和51,780jと下がるが、102,040jと回復している。

しかし北海道を除く農家の1戸当り所得(数字で見る日本の百年、1981国勢社)は、大正111200円、151640円、しかし不況下の昭和5810円、10860円と半減、15年にようやく回復して1810円となって、都市部を含みドル表示のマディソンの数字とは不況期の落ち込みが激しい点で異なった姿を示している。昭和初期の農村不況を体現した数字といえるだろう。

この間、農家所得の柱である米の卸売物価(日本の百年)は、明治元年を1とする指数で、明治末に1.52.0、大正初め2.2、それが大正75.387.797.4、と暴騰する。シベリア出兵による買占めが原因で、この時米騒動が起きた。以後米価は昭和初年の5.2水準まで下落するが、下落幅は農家所得ほどではない。

念のために水稲陸稲の収穫量(日本の百年)を見ると、昭和2年の931万トンから、90489310038289051062万トンと8年までの数字は殆ど横ばいともいえる数字で、マディソンの傾向には合致するが、農家所得の暴落と整合しない。農村不況において、米価と米の収穫量と農家所得の関係はどうなっているのか。

鍵は土地所有の偏在による所得分配のアンバランスにあると思う。戦前の農地所有は大地主と小作人という関係が主体で自作農が少なく、農民は零細な小作地で借金を負い困窮している。だから自作農の育成が課題という認識は学者官僚に共有され、早くも昭和2年自作農創設維持補助を目的とする農林省令が施行されていた。その経験の蓄積が戦後の農地改革を成功させた。金融自由化において、米英の実例を目にしながら改革を見送った学者官僚政治家の認識の欠如と異なる。

安藤良雄編「近代日本経済史要覧」1975東大出版会に、50町歩以上の地主戸数(作太郎は22町歩に過ぎない)の推移を1908から1940年まで、東北と近畿の6県で比較した数字がある。1908年全国2574戸に対し東北は516戸=20%と比重が大きいのに対し、近畿は僅か97戸=3.7%に過ぎない。農地所有の実体に大きな差が認められる。しかも東北は1930634戸に増え、自作農創設補助令後の1940587戸となお高水準に対し、近畿は1912111戸を境に194045戸まで減少している。東北における土地所有の偏在が冷害期に農民を困窮させ、2.26事件を引き起こした。改革は戦後に持ち越された。

日本の百年によると、農地改革前の1947年、小作農は1574千戸=農家の26%であったが、不在地主の農地が耕作者に売り渡された改革後の1949年には489千戸=7%に激減、1975年にはわずか66千戸=1%となった。これに対し自作農は472154千戸=36%から4957%、1975=83%。自作農と小作兼自作農の合計は、474334千戸=73%から5757千戸=92%に増加し、1975年には98%になった。

農地の零細所有という問題は残されたが、改革は成功した。その後の高所得者に高い所得税率、米価維持政策、農村部への工場誘致政策などが、都市と農村の所得格差縮小に貢献した。日本経済は高度成長で欧米諸国に一人当たり所得で追いつき、残された自由化は農業関係だけとなった。日本資本主義のかつての農業問題は殆ど解決された。しかし日本経済の欧米水準への到達に伴う食生活の変化と少子高齢化、都市と農村の経済格差の拡大、グローバル経済における新たな発展国の登場などが、突きつけている問題を未だに放置しているのは遺憾である。

 

12)厄払いか信仰か

仲之町の裏の味噌倉の前に小さな社があって、藤山の神主が春秋お祭りをしてくれた。年末にお供えをし、年が明けるとここにまずお詣りをしてから三霊神社へ初詣りに行く慣わしだった。

小生が生まれる前の大正14年、信の次男和7歳脳脊髄膜炎で死去。昭和3年8月三男修2歳で死去。翌9月作太郎67歳で死去。3年に3度の葬式だった。しかも大不況で農場経営は赤字続きで皆目見通しが立たない状況だった。さらに昭和102月、今度は信が糖尿病に扁桃腺炎が悪化して手術し、100日入院という大病。そのあと11年に農場整理が続いた。

整理が一段落した16年に、銀婚記念で旅行に出たのにも厄落としの願いがあったかもしれない。しかし旅行中に対米英戦争が始まり、困難な生活で無理が重なり、戦後、糖尿病が再発して結核胃がんを併発、それが死病となった。

子供の頃、「味噌倉で見つけた蛇を袋に入れて谷川に流した。良くないことが続くのはそのせいだ。それで社を作ってお祭りをした」という話を聞いたことがある。藤山の神主は「占いが当る」という評判で、母などは何かにつけ早朝お詣りをしていた。小生も東京へ出るとき連れて行かれて、「百人の長になる」という託宣をいただいた記憶がある。証券代行は百人ほどの会社だったから当っていなくもない。

菩提寺である松尾村の竜門寺は臨済宗で、父と坊さんは気があったらしい。お寺からもらった経文で毎朝仏前にお経を上げた。般若心経や白隠の座禅和讃、四弘誓願文、懺悔文、舎利礼などはそれで覚え、後年、仏教の勉強に役立った。父母の信仰には打ち続いた家族の不幸の影響があるかもしれない。

母は専ら藤山さんで、父は毎朝、神様も拝むがお経も上げ、神仏混交であったが信仰心は厚かったようだ。代が変わって社は消え駐車場になってしまったが、きちんとお祭りをして取り払ったのだろうか。

                         下 おわり   

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