トルコ近現代史―1699−1999(後編)

        イスラム国家から国民国家へ、新井政美2001みすず書房

  1923−1999

               2006.8.18−08.12.29  木下秀人

後編目次

10章 民主党の時代  1 民主党政権下の経済発展  2 イスラムの復活?    

  3 民主党時代の国際関係  4 反政府運動の高まりと1960年クーデタ

  第11章 第2共和制の時代  1 体制の変革  2 新憲法の発布と民政移管       3 デミレルの登場  4 60年代の経済発展  5 社会の変容と政治の多様化

     6 軍部の「最後通告」  7 70年代前半の政局  8 70年代後半の内政

     9 軍事クーデタ  

  終章 第三共和制―21世紀を迎えるトルコ  1 軍政と総選挙  2 政界の再編と旧指導者の復権  3 80年代の経済再建  4 イスラム主義の高揚と繁栄党の躍進  5 21世紀へ向かうトルコ

  おわりに

以下、中篇

これまでの要約 

1 オスマン帝国の劣勢  2 民族独立という刃  3 東西貿易とイスラムの掟  4 治外法権と関税自主権  5 近代化への模索―フランスから英国へ  6 新オスマン人の改革  7 憲法と議会―停止の30年間

  8 汎イスラム主義と汎スラブ主義―バルカン半島  9 青年トルコ人革命

10       トルコ共和国の誕生

8章 一党支配の時代  1 カリフ制の廃止と新憲法の制定  2 反対派の組織化―進歩主義共和党  3 クルド人の反乱  4 世俗化改革の断行と反対派の一掃  5 自由共和党の実験―野党勢力を認めるか  6 共和人民党の「六本の矢」  7 一党支配化の文化政策―「イスラム」から「トルコ」へ  8 アタチュルク―イノニュ=イスメット間の軋轢とアタチュルクの死  9 一党支配の経済発展  10 一党支配期の国際関係  11 第2次大戦とトルコ

9章 複数政党制への移行  1 トルコ社会の変容と民主党の結成  2 複数政党制と政治文化の変容

 

後編

第9章           民主党の時代 19501960

1 民主党政権下の経済発展

 民主党多数の議会は、民族資本を代表しケマル時代以来手腕も実証済みのバヤルが大統領に選ばれた。首相には大地主代表の民主党党首メンデレスが任じられた。議員平均年齢は5歳若く、公務員出身は14%と少なく、法律家・医師など専門職が10%増、実業界4%増で、共和人民党時代との差は歴然だった。自由経済へのイノニュの政策転換は、民主党時代に具体化され成果を挙げた。

 貿易拡大と米国の膨大な援助がトルコの農村を変えた。1949僅か1700台のトラクターは195231415台、195744144台、耕地面積も19501454万ヘクタールが19562245ヘクタールに増えた。好天気と低利融資、農産物価格は高めに維持されたので、農民収入は増大、トルコ史上初めて、農村に光が当った。道路網も整備された。

 1951外資導入奨励法が出来たが、外資も民間資本も投資に消極的で、投資の45割は国家による道路建設だったが、道路網は19489000キロから196123000キロの伸び、自動車も22000110000台へ急増し、国内は緊密に結合され農民生活に変化をもたらした。

 しかし民主党の政策は結局、大地主・富農層の利益にそったもので、GDPの20%を稼ぐ彼らの税額は2%に過ぎなかった。低利融資と機械化による綿花栽培は、従来の小作でなく収穫期のみの季節労働を選択させ、折からの朝鮮戦争ブームの利益は、地主と綿花商人が享受し、彼らはそれを木綿工場に投資し産業資本家に転化、その中から現代トルコを代表する財閥も生まれた。

 機械化によって小作人の地位を追われた人々は離農し、都市へ流入したが定職に就けるものは僅かで、多くは不法バラック住民となった。

 遊牧民の強権的定住化も強力に進められ、遊牧民の自治的社会組織は暴力的に破壊され定住が促された。多くは農村部だったが町にも出た。しかし国有企業民営化は進まず、政府投融資は非効率だったから雇用吸集力はなかった。民主党は選挙時に掲げたストライキ権承認を政権奪取後は逆に、労働運動抑圧に転じ1957以降その度を強めた。

 給与生活者にとって民主党の政策は、農業主導の成長策だった。輸入機械によって貿易は輸出好調時でも赤字で、天候悪化とともに小麦輸入国に転化、1955に貿易赤字は19508倍、成長率も134%に低下したが、メンデレスは対ソ基地としての援助期待で政策を変えなかった。富農に増税しない赤字財政でインフレが起き、IMFから通貨切り下げ・補助金交付や価格調整・貿易制限の撤廃勧告を受けるが政府は無視、国民防衛法を復活させて経済統制に転じ、闇取引横行・物資不足で都市の給与生活者は困窮することになった。

2 イスラムの復活?

 1947.11共和党は、アタチュルク以来の世俗主義路線の緩和を提案した。聖者廟・導師説教師養成学校の再開、初等中等教育で宗教教育選択導入などで、1949導師説教師養成学級が10都市に開設、アンカラ大学に神学部開設、聖者廟も再開、メッカ巡礼で外貨購入も認可された。しかしイノニュは、宗教原理を社会政治司法に及ぼす活動の禁止を刑法に明記し世俗主義原則は堅持した。総選挙を意識したものだったが、民主党も大地主と民族資本の擁護・自由経済だったから、世俗主義に反対しなかった。バヤルは選挙大勝後の祝賀会で、犠牲獣を捧げたのを批判したが、20年抑えられた宗教心が公に発露を求めていることも事実だった。メンデレスはそれを理解し、民主党政権下で1951導師説教師養成学校再開、モスクも10年で15000建設され、アザーンはアラビア語に戻り、宗教文献が出版販売された。しかし地下にもぐっていた神秘主義教団がアタチュルクを侮辱すると指導者を逮捕し、1951アタチュルク擁護法を制定した。しかし1954選挙対策でナクシュバンディー教団の協力を仰ぐこともあった。

 この時期は農村から都市へ人口移動が盛んで、農民の文化が都市に持ち込まれた。ケマリストの改革は、それに無縁だった多数の農民と初めて出会うことになった。彼らの文化習慣の表出は単純には「イスラムの復活」と写ったが、彼らの投票行動を政治は利用せざるを得なかった。世俗主義は、社会問題の深刻化と共に新たな問題を抱えることになった。

3 民主党時代の国際関係

 冷戦構造下で米国への全面依存。外交も防衛も米国の世界戦略に組み込まれ、マーシャル・プランで出来たOEECや欧州会議の正式メンバーとなり、NATOにも創設時に加入打診、北欧がギリシャ・トルコの紛争を懸念したため延引されたが、朝鮮戦争に国連軍派遣でトルコは1952.2正式加入を認められた。これでトルコはソビエトの脅威に対する安全保障を得、西側から潤沢な援助を約束された。トルコは西欧に遂に受け入れられた。

 西側の正式メンバーとなったトルコは、ダレスのソビエト包囲網の重要な駒で、米国の支持の下1949.3イスラエルを承認し、1954パキスタンと同盟、1955イラン・イラク・英国を加えた相互安全保障のバグダッド条約機構に発展した。この年ナセルのスエズ運河国有化でトルコはエジプト支持を表明したが、トルコの米国依り姿勢はアラブ諸国の離反を招き、1958レバノン内戦ではトルコの基地から米国の海兵隊が出撃。かつてのイスラム帝国トルコ、しかし今は世俗主義・米国依存、アラブ諸国との違いが明白となった。

 トルコの朝鮮派兵でソビエトは、ブルガリアのムスリム・トルコ人25万人をトルコへ追放する策に出(これはトルコ側の国境閉鎖やブルガリアの事情で198935万人流入で解決)、共産圏となったバルカンでは1953.2ユーゴ・ギリシャ・トルコ友好協力条約が成立した。永年の宿敵ギリシャと和平したが、たちまちキプロス問題が起きた。

 キプロスは1978英国支配となりギリシャ語人口が増え、ギリシャ王国への帰属運動が起った。英領だったので1923トルコ・ギリシャ住民交換の対象ではなく、1950急進的なマカリオス大主教下で暴力的反英闘争が始まった。8割を占めるギリシャ系の活動がトルコ系を脅かすに至り、1955.8ギリシャ・英国と、現状維持・分割でもいいトルコが会談、その決裂でトルコ系もトルコ政府も当事者として巻き込まれることになった。1960キプロスは独立したが、ギリシャへの併合も分割も認めない一時策で、問題発生時の介入権が3国にあたえられたことが後のトルコ出兵の根拠となる。そして一連の事件を通じて、トルコ国民のギリシャへの悪感情が改めて確認され、外地トルコ人の吸収一体化という汎トルコ主義的感情が刺激された。

4 反政府運動の高まりと1960年クーデタ

 1954選挙で大勝した民主党だったが、この頃から米国の援助に頼り、長期的発展でなく短期的成長、自立でなく対外依存の政策の矛盾が表面化した。もともと共和人民党の支持者だった都市の知識層に批判が生まれたが、メンデレス政府は受け付けず、抑圧に向かった。1954公務員の早期25年退職制度が導入され、潜在的批判者は排除された。民主党内にも批判が生ずるが1955キプロス問題を期に戒厳令で封じようとした。暴動はギリシャでトルコ領事館襲撃、トルコではギリシャ系トルコ国民の商店が襲撃された。

 1955.12メンデレスを批判する19名の議員で自由党が作られ、政府は翌年出版法強化で言論統制、政治集会禁止で独裁化していった。1957.10選挙で共和人民党は40.6%得票したが、議席は178にとどまった。民主党は424議席で、選挙戦では共和人民党を無宗教・アカと攻撃した。

 1958エジプトがシリアとアラブ連合を形成・ナセルが大統領、イラクに自由将校段クーデタで王制廃止共和制など、トルコのNATO成員としての役割が増大した。IMFは35900万ドルの借款を供与し、農村の状況は好転したが、引き換えに行われた通貨切り下げは物価高騰で都市住民を直撃した。メンデレスは4億ドルを超える累積債務の返済繰り延べにも成功したが、独裁批判を抑えきることはできなかった。

 1960政府批判のイノニュの活動にも妨害が行われ、イノニュの列車が軍隊を使って停止されたカイゼリ事件は軍首脳に衝撃を与えた。彼らはアタチュルクの副官としてのイノニュに深い忠誠心を持っていた。NATO加盟は、軍の装備近代化に伴い外国で訓練を受けた将校が現れ、欧米社会と自国との格差を痛感し、1957クーデタ未遂事件があった。メンデレスは、カイゼリ事件直後、野党の活動調査委員会設置を提案、3ヶ月の期間中野党の議会外活動は禁じ、議会の審議報道も禁じる法案は混乱裡に可決されたが、大学教授たちが憲法違反と非難し、政府の教授処分に学生がデモ、警官隊と衝突して死傷者も出た。戒厳令が敷かれ、治安維持に軍まで動員、5.21アンカラの士官学校生徒1000名が無言のデモ行進、新聞報道は禁じられたが、代わりに韓国の李承晩反対デモを報じた。1960.5.27国民統一委員会指揮の部隊がバヤル、メンデレスなどを拘束し無血クーデタが成功した。民主党の10年が終わった。

 

第11章 第2共和制の時代 19601980

1 体制の改革

 クーデタは軍の過激派によって計画され、軍全体の支持が得られる指導者が求められた。陸軍司令官ギュルセルが政府批判で無期限休養とされた機会を捉えた。ギュルセルは、国民統一委員会議長就任を承諾、クーデタ成功後発表され、国家元首・首相・国防相という、アタチュルクも手にしなかった大きな権力を掌握した。イスタンブル大学の学長を長とする憲法起草教授団は、民主党の憲法違反を指摘し、クーデタを正当化する声明を発表した。クーデタは、学生と知識人には熱狂的に迎えられたが、民主党政権で潤った農村部は沈黙した。国民統一委員会は民主党の党活動を停止させ、解散させた。38人の将校からなるこの委員会で国家元首の顧問として影響力を行使したのはチュルケシ大佐だった。彼らは8月中に将軍の大多数を退役させ、佐官クラスの将校5000人を更迭した。大学教員147名を教職から外し、「トルコ理想・文化同盟」構想で教育・宗教・言論・放送の統制をしようとした。しかし穏健派の危惧を生み、11月チュルケシ・グループ14名は委員会から排除され、大使館勤務など国外へ追放された。過激派の不満は民生移管後2度のクーデタ未遂事件として潜在した。

2 新憲法の発布と民生移管

 旧民主党所属全議員が逮捕され、1960.10裁判は現行刑法によって行われた。

 憲法起草の教授団は、自由主義的2人を外し「政治家を信用せず、政治活動を細かく規定」する草案を作成した。旧憲法の簡潔な105条に対し、草案は157条で、1961.5制憲議会で承認された。独裁政治の反省から2院制が採用され、違憲審査の憲法裁判所を設置、得票を議席に反映する比例代表制が導入、司法権の独立・言論の自由が明記され、国家保安協議会が設置、軍が治安について内閣に助言が規定された。国民投票で61%の賛成を得て1961.7憲法成立、反対票は38%だったが、旧民主党の地盤だった11の縣では否認だった。

 1961.9旧民主党議員への判決、123名=無罪、31名=終身禁固、418名=有期禁固、15名=死刑、内12名は減刑、メンデレスなど3名は執行後1990名誉回復された。

 1961.10民生移管の総選挙、政党活動解禁で新党結成中、公正党が退役させられた将校と逮捕された旧民主党議員の復帰を求め、得票率34.7158議席で第2党。共和人民党は36.7%173議席で過半数にはるかに及ばず、民主党から分離した2党を併せると旧民主党支持が国民の6割、上院では公正党が71議席で過半数、共和人民党36議席だった。トルコ労働者党は議席は得られなかったが、左翼イデオロギー政党として初めての登場。右翼政党はまだだった。政権に返り咲いたイノニュには、かつてのような徹底した世俗主義は不可能で、民衆の宗教感情を近代的なイスラム主義に導くしかなかった。導師説教師養成学校のカリキュラムに社会・経済・法律学が導入され、宗務局はコーランのトルコ語訳や説教を印刷配布した。他方宗教の政治利用禁止は憲法に記された。1961.10ギュルセルが第4代大統領に選ばれ、イノニュが11年ぶりで政権に復帰した。

3 デミレルの登場

 イノニュは、1961.11公正党との連立政権を組んだが、旧民主党議員の特赦で対立し1962.5崩壊。新トルコ党・共和主義農民国民党と連立し、農地改革の実施を掲げたが、バヤル釈放問題・クーデタ未遂事件などで進展できないまま、1963.11地方選挙で改革反対の公正党に破れ、連立2党の閣僚引き上げで総辞職した。

 大統領は公正党に組閣を要請したが組閣できず、イノニュが少数与党内閣を組閣、キプロスの非常事態に対処した。トルコ系住民の自治権を制限する憲法改革・脅迫・暴行事件頻発に対し、イノニュは空軍機を飛ばし上陸の構えでキプロス政府を牽制した。これに米国が強く圧力をかけるとトルコ世論が反米に沸き立ち、イノニュは支持された。しかし危機が去ると、1965.2予算案は否決され総辞職に追い込まれた。

 公正党も党首急逝で揺れていた。急進派を押さえて米国留学経験ありメンデレス政権でダム建設に功積ある非議員のデミレルが1964.11党首となった。軍人でも官僚でも大地主でもない彼が刻苦勉励して実業界で成功している事実は国民の関心を集めた。彼は雄弁家だった。農村出身で都市のエリートと違った態度で語りかけるデミレルに、地方住民は親近感・信頼感を寄せた。1965.10選挙で公正党は52.9240議席を獲得、地すべり的勝利となった。

4 60年代の経済発展

 経済運営への国家の計画的関与を指向したイノニュ共和人民党に対し、その他各党は自由な経済活動支持だった。公正党政権下で、国家計画機構や五カ年計画は国有企業・傘下企業に限定されるように変質した。原料・機械・部品を輸入し、消費財の輸入代替を狙う工業化政策が推進された。農産物価格の高値維持・農業所得への非課税などの農村対策が軽視された結果、トルコ経済の基幹部門である農業は低迷した。工場労働者は高賃金で都市は好景気、外国資本も流入し産業資本が発展した。

 アンカラの商人の家に生まれたヴェフビー・コチは、1930年代は公共建設事業、40年代は消費財生産、1963種々の事業を傘下に収めた「コチ・グループ」を結成、1966フォードと提携し国産自動車生産を始めた。軍も、「軍人共済基金」で産業への投資者として登場し、70年代にルノーと提携し自動車の製造販売に乗り出し「隠れた財閥」といわれた。しかし経済発展は財政赤字と貿易赤字を拡大させ、慢性的外貨不足と物価上昇を招き、資源開発を行いながら工業発展を図る余裕のなさは、当面の効率に投資を集中しがちで、経済格差が拡大していった。

5 社会の変容と政治の多様化

 60年代の経済発展は、都市への人口流入は加速しゲジェコンドゥ=不法居住区は拡大、教育制度整備で学生数は伸び、都市の低所得層と若年知識層の票による政権獲得を狙って、共和人民党がエジェヴィットを起用、社会正義・社会保障の実現を掲げる左旋回による自己変革を図った。しかしこの党が「進歩的」と世論に認識させるのは容易でなかったし、ゲジュコンドゥ住民は農民としての生活様式と意識を保持し続けたから、公正党支持だった。公正党に「中道左派はモスクワへの道」と攻撃された共和人民党は、1965.10選挙で公正党に大敗した。しかしイノニュはこの路線支持を続け、中道左派路線批判派47名は信頼党に分裂、68年地方選挙では躍進したが69年総選挙で敗北など混迷を続けた。

共和人民党の左旋回と混迷が、左翼政党に機会を与えた。61年結成のトルコ労働者党は、元大学助教授・弁護士のメフメット・アリー・アイバルを党首とし、都市労働組合や知識層に徐々に浸透し、新憲法に保証されオピニオン誌による言論活動が展開された。学生を含めた大学人が社会変革の先導者として同調行動を始めた。労働運動は活発化につれて路線をめぐる分裂・暴力化も避けられなかった。

保守派にも変化があった。共和主義者農民国民党は、65.10選挙で11議席に後退、前年外国から戻ったチュルケシが党首となり、旧指導者を追放、汎トルコ主義・反共主義で、ナチ突撃隊モデルの青年行動隊を創設、戦闘的ナショナリズムを追及する政党へ改革した。69年民族者行動党と改めたこの党によって、トルコ政治に暴力化がもたらされた。

 イスラムを強調する政党も出現した。69年元大学教授で公正党の大企業・外国資本路線批判でトルコ商工会議所連合会会長となったネジメッティン・エルバカンは、中小実業家・商人の支持を受け、公正党の欧米依存をフリーメーソンとシオニズムの陰謀と非難し、イスラム的価値を称揚した。選挙に無所属で当選したエルバカンは、70.1国民秩序党を設立し、イスラムを合法的な形で強調した政治活動を始めた。トルコ政治の主役が揃った。

6 軍部の「最後通告」 1971.3.12

 もともと公正党は種々の階層に支えられ、特定イデオロギーや階級色になじまない政党で、デミレルは比較的新しい党員なので纏めるのに苦心があった。一方でヌルジュの宗教に熱心な勢力を押さえつつ、他方それを過激左翼運動抑制に利用しようとした。この手法は知識層の支持を失わせたが、地方で支持を維持するのに貢献し、69選挙で46.5256議席を確保した。

 インフレ10%・失業者増大・労働学生運動活発過激化・右翼運動先鋭化の中で、工業化推進の新課税が地主・商工業者の反対、党内右派の70.2予算案反対で総辞職するが、3月組閣、12月右派41名脱党して民主党結成。デミレルの指導力低下で左右の武装闘争・衝突騒ぎが激化、軍部は左翼の若手将校まで巻き込む伸張に危惧を抱いた。米軍下士官の誘拐事件で、治安部隊と学生の銃撃事件まで起り、軍は、大統領と上下院議長に書簡を送り、政治家が党利党略を捨て無政府状態を終わらせなければ、軍は、国家保安協議会の義務を遂行するため国政を自ら行う決意を明言した。内閣は辞職したが公正党員に冷静・静観を求め、イノニュは軍の干渉を批判したが軍の内閣支持を表明した。大統領は超党派内閣を求め、元大学教授・共和人民党議員で制憲議会経験・キプロス危機で民主党顧問のニハト・エリムを首班に選び、左翼はこの「書簡によるクーデタ」を歓迎した。

7 70年代前半の政局

 エリム内閣は、元世銀・エコノミストの作成した社会経済改革プランを発表した。農地改革・土地税制・産業保護策を含むこの改革案は、一部大実業家は支持したが、既得権益を持ち政界に影響力を行使する階層に反対された。軍の後ろ盾で反対を押し切り、改革に邁進できるはずだったが、71.4再び始まったテロで4.27戒厳令が施行された。5月トルコ人民解放軍のイスラエル総領事誘拐殺害事件で、トルコ労働者党・労働組合幹部など進歩派5000人を逮捕。米国の援助を得た反共・反ゲリラ地下組織も左翼狩りに貢献した。7月憲法裁判所はトルコ労働者党の閉鎖命令を出し、エルバカンの国民秩序党も世俗主義原則違反で閉鎖。軍にとってこの時期は、改革実施より治安回復、左翼を押さえて社会の安定維持が最重要課題、改革どころではなかった。

 71.12エリム首相が改革に譲歩を示すと、改革派の閣僚多数が辞任、右派に置き換わった。憲法修正で、大学の自治と言論界の自由が削除・出版の自由に制限が付され、国家保安協議会の権限は増大・国家保安裁判所が新設。76年廃止までこの裁判所は3000名を裁いた。

 72.4エリム内閣総辞職、信頼党フェリト・メレン内閣、73.4ナイム・タルー選挙管理内閣に改革実行力なく、デミレルなどが実権を回復してきた。

 共和人民党で、軍の政治介入を容認したイノニュを批判し書記長を辞任したエジェヴィットが、党内左派の纏めに成功し72.5イノニュの押す候補を破り書記長に返り咲いた。イノニュは党首を辞し、エジェヴィットが第三代党首になり、反対派は離党して共和党結成、73信頼党と合体して共和信頼党となった。公正党も共和人民党も、軍の介入に批判的立場を明確にして、「書簡クーデタ」の目的は店ざらしとなった。

 政治家による軍への反撃は73春に議会で始まり、大統領任期延長・後任に参謀総長案も否決し、元海軍提督・モスクワなど大使・上院議員のファフリー・コルテュルクを15回の投票で第6代大統領に選出した。73.10総選挙で、エジェヴィットの共和人民党が33.5185議席で、29.5149議席の公正党を抑えて第1党となった。共和人民党は分裂派がのびず13議席だったが、公正党は保守層と分裂派45議席にも足を引っ張られた。

 しかしエジェヴィットは他党の協力を得られず、74.2イスラム主義の国民救済党と連立内閣を発足させた。不一致があまりに多い連立だったが、7月キプロス・クーデタが政局を一変させた。ギリシャへとの併合を求める過激派が、ギリシャ人将校の支援で大統領を追放した。脱出したマカリオスは国連でギリシャを非難し、トルコ系住民は協定に基づき英国・トルコに軍の派遣を要請し、英国が応じなかったのでトルコが単独出兵した。ギリシャと全面対決の瀬戸際、エジェヴィットは国内をまとめ国際世論に正当性を訴え、停戦時にはキプロス北部は制圧下にあり、和平交渉が難航すると再び出兵40%を制圧、国際世論は批判したが国内でエジェヴィットは熱狂的に支持された。そこでエジェヴィットは、9月連立を解いて総辞職し、解散総選挙を目論んだが憲法上無理筋、政局混迷の末75.3デミレルが保守4党を糾合し「民族主義者戦線」内閣を成立させた。

8 70年代後半の内政

 この保守内閣は、60年代の輸入代替工業化政策による成長追求だったが、石油ショック直後のキプロス紛争で多大な出費を強いられ、米国の軍事援助停止・武器禁輸という制裁もあり、トルコ経済は苦しいのに妥協による寄り合い所帯で閣内は不一致、共和人民党は対決姿勢を崩さなかったから、政局は不安定のままだった。政府は出稼ぎ労働者の送金で貿易収支改善を狙い、海外の借入で財政均衡をはかり、成長維持を目論んだが、債務拡大・インフレ昂進は止まらず、物価抑制策は地下経済を肥大化させ、国民生活は困窮した。70年代中頃から経常収支が悪化し、成長率も78年マイナスに転化、76年まで20%台だったインフレ率も79年には100%に達した。農業無視で輸入や外資依存の発展でEC加盟条件を整えようという構想は、先進工業地域とそれ以外の農業地域との経済格差を拡大し、オスマン時代以来の都市と農村の乖離に拍車をかけ、都市住民間の貧富の差も目に見える大きさになった。

 77.6総選挙は共和人民党41.4213議席、公正党の36.9189議席を抑えて第1党となったが、過半数には及ばず、民族主義者行動党16議席と国民救済党24議席が連立を狙う問題含みの政局であった。エジェヴィットの単独内閣は信任されず、77.7デミレルが第2次民族主義者戦線内閣を作った。民族主義者戦線は第1次で、警察・治安関係や各省庁の支配を狙い数千人の官僚が職を追われていた。チュルケシは治安関係、エルバカンは経済関係の閣僚ポストを要求、押さえられないデミレルに公正党を脱党する議員も現れた。12月エジェヴィットが内閣不信任案を可決させ、78.1脱党議員を集めて組閣に成功した。議会の抵抗に加え、官庁・政府機関人事の再度入れ替えで行政はマヒ状態となった。

 トルコ政治は暴力に支配される状況になっていた。労働運動・学生運動に民族主義者行動党の「灰色の狼」が対峙し、警察もこれを庇護していた。両者の衝突はエスカレートし、流血が日常化した。明るい展望を持てない・大学に進学できない若者を、左右両派とも容易に引き付け、犠牲者は77230781000791500とエスカレート、報復合戦は無差別テロに転化していった。

 78.12宗教的に少数派で世俗主義・改革派支持のアレヴィー派住民をスンニ派の「灰色の狼」が襲撃して死者・負傷者共に千人以上という事件が起きた。軍の介入を嫌ったエジェヴィットも戒厳令を施行した。クルド人の分離主義者=クルド労働者党PKKがマルクス主義で組織化されテロ活動を始めていた。80年エリムや労組幹部・大学教授もテロの犠牲となった。

 社会不安の背景にあった経済危機は、深刻さを増し、78末対外債務は137億ドル、エジェヴィットはIMFと交渉し、融資を引き出し、OECDや世銀から融資や返済繰り延べに成功した。しかし78初頭には決済できず輸入代金支払い停止で輸入できず工場稼働率が50%に低下していた。経済成長はマイナス、インフレ100%、エジェヴィットはIMFの干渉に批判的で、勧告を十全には実施せず、融資も中途でキャンセルされた。

79.10上院選挙で共和人民党は敗北、下院でも離党者が出てエジェヴィット内閣は総辞職。デミルが11月公正党単独内閣を発足させ、IMFの改革パッケージを実施することになった。担当は世銀勤務経験あるトゥルグッド・オザルで、発表された経済再建計画は従来政策の180度転換で、開放経済・輸出指向産業への転換を含む画期的なものだった。しかし「押し付けられた政策」への抵抗感強く、ストライキ・警察治安部隊との衝突はやまず、10月、革命的組合同盟によるゼネストが計画されていた。

9 軍事クーデタ 1980.9.12

 労働運動や学生運動の激化や政治の現状は、軍部を憂慮させた。80.3大統領任期満了で後任選出が100回投票しても選出できなかった。国民救済党は、世俗主義を誹謗し始めていた。党首エルバカンは、8.30アタチュルク廟での記念行事に欠席した。彼は選挙区で宗教勢力の本拠であるコンヤで大集会を開き、国歌の斉唱を拒み、イスラム法の復活を要求して行進した。

 アタチュルクに傾倒し、その共和国を守る決意の軍幹部は国政の接収を考え始めた。79.12国内の破壊活動・分離主義運動の横行を警告し、無政府状態解消を求める書簡を大統領に手渡し、80.1.2公表されていた。議会にも5月に警告、しかし解決に向かって動かないままにエルバカンのコンヤでの行動が成された。1980.9.12未明、軍は全国で行動を起こし、議会・政府機関を接収、参謀総長エヴレンは全国民に声明を発表し、第2共和制は終わった。

 

終章 第三共和制―21世紀を迎えるトルコ

軍政と総選挙

 エヴレン参謀総長と陸・海・空三軍と憲兵隊司令官の5名が、国家保安評議会を結成、暫定的な国政の最高機関となる。議会は解散・憲法は停止・すべての政党は活動停止・党首は逮捕された。トルコの民主主義を無能な政治家たちから救い出すために、民主主義が正常に機能するよう政治制度を徹底的に改革しようとした。地方議会も解散・首長は追放された。80.9.14エヴレンは国家元首となり、元海軍提督ウルスを長とする内閣が組織された。デミレルとエジェヴィットは釈放されたが、エルバカンとチュルケンは裁判にかけられ、政党は解散し財産は没収され、残された歴史資料は没収・廃棄された。中央・地方の行政機関に軍から人材が送り込まれた。

 政治テロを抑え、治安回復のため、6週間で11500人が逮捕され、1年後には12万まで増えた。政治テロはほぼ終息したが、逮捕者は左翼に偏り、左翼的言動の知識人が摘発された。数百人の大学人が研究室を追われた。免職となって権利を失う前に、多くの研究者が大学を去った。言論は規制され、逮捕者に拷問が加えられ国際的非難を浴びたが、将軍たちの祖国再建への決意は固かった。

 クーデタから1年後に制憲議会が開かれ、82.7憲法草案が出来た。行政府への権力集中・大統領の権限強化により、議会制民主主義の機能不全を事前に防ごうとする草案は、国民の自由・権利は保障するが公共の利益・秩序・共和国の体制維持のためには、自由や権利が制限されると記した。82.11国民投票で91.4%の支持が得られた。反対票がでたのはクルド人地区だった。

 83.4、多くの規制を加えた上で政党活動が解禁された。15党が結成されたが11月の総選挙に参加は3党に限られた。選挙結果は将軍たちに衝撃的だった。将軍たちが作った民族主義者民主党=23.371議席、旧共和人民党でイノニュの伝統を引き継ぐ人民主義党=30.5117議席、旧公正党でクーデタ直前オザルが率いた母国党=45.1211議席。母国党が第1党となった。第1党に有利な議席配分をしたため、母国党は400議席の過半数を獲得した。第三共和制が発足した。

2 政界の再編と旧指導者の復権

 母国党は基盤も思惑もさまざまな人に支えられていたが、オザルは巧妙に押さえて政権安定化に成功した。デミレル時代彼の経済再建策が実業界で歓迎されていたし、ナクシュバンディー教団ともつながりがあり、トルコ・イスラム総合論で行動右翼の支持もあった。

 84.3地方選挙で三政党が新たに参加を認められ、オザルの母国党=41.5%、イノニュの息子の社会民主党=23.5%、陰でデミレルが支配する正道党=13.5%、人民主義党=9%、民族主義者民主党=7%、エルバカンの繁栄党=4.5%だった。その後の政党再編で、将軍たちが作った党は分裂解散し、1986年には、クーデタ以前の政党が、名前を変えてほぼ復活し、支持率も変わらない状況が出現した。

 87.9オザルは、旧指導者の復権を認めるか否かを問う国民投票を行った。50.24%対49.76%という僅差で復権賛成が上回り、デミレルやエジェヴィットが復権した。87.11オザルは総選挙を実施、母国党の第1党を期し、36.3%と得票率は低下したが292議席で過半数を獲得した。イノニュの社会民主人民主義党=24.8%、デミレルの正道党=19.2%、エジェヴィットの民主左派党=8.5%だった。母国党の得票率低下はその後も止まず、89.3地方選挙では21.9%と敗北、社会民主人民主義党=28.2%、正道党=25.6%だった。89.11オザルは、議会の多数を背景に第8代大統領に就任した。2人目の文民だった。

3 80年代の経済再建

 オザルは経済再建に全力を注いだ。IMFの提言を吸収した。貿易赤字の解消・インフレの沈静化・輸出指向の自由経済市場の創出の3点だった。通貨切り下げで輸出競争力をつけ・金利引き上げで過剰消費を抑制・投資奨励賃金抑制で企業に競争力付与・輸出産業育成などの政策を打ち出した。発展したのは財閥であって、1020年代に基礎を築いた・50年代に起った既成財閥に、80年代はアラブ産油国の建設ラッシュで発展した新興組が、輸出製品製造に進出した。

 外資も歓迎され、自由貿易地区が設定され輸出に貢献した。公共投資は資金不足で外資に頼り、資金回収まで経営を任せた。観光業がそれで、高級ホテルが各地に建設された。輸入規制撤廃で欧米の高級品が店にあふれ、経済活性化でGDPも順調に伸びた。インフレは3040%に沈静化され、輸出品も食料品から工業製品に変わった。

 給与生活者にはこの政策は過酷であった。購買力は79年からの10年で半減した。インフレも87年末から再発傾向、非効率の国営企業の整理進まず、公務員削減が出来ず、税収不十分による財政赤字が原因だった。財閥の利益には殆ど課税されなかった。貧富の格差が拡大した。

 80.7金利自由化後に、高利で集めた資金が運用できず、ブローカーの倒産が多発し、預託顧客が大損で殺害事件が起きた。88.10オザルは再び金利自由化強行、1年物で上限85%の規制が120%となるなど、金融政策は混迷、失業率も16%とい高率で、不満は91.1150万人参加のゼネストとなった。

 オザルと母国党は経済問題に無策だった。89大統領になったオザルは、首相にアクブルットを指名し、妻を党の要職に任命、院政を狙った。自由経済下で実業界と政界の癒着スキャンダルが続出したが、母国党員やオザル家が登場し、国民の信頼は野党に移った。

イスラム主義の高揚と繁栄党の躍進

 80年代イスラム主義の第1の特徴は、知的階層に定着し、イスタンブル大学の民族主義的教員を中心に出来た「知識人の炉辺」が、実業界・政界を巻き込んで発展し始めた。本来「イスラム」より「トルコ民族」だったが、「トルコ民族」が「トルコ語を話すムスリム」に置き替わり、トルコ・ナショナリズムを支える柱としての「イスラム」が同時に強調されるようになった。家族生活と道徳の重要性を強調するこの運動は、70年代末に右翼政党に受け入れられ、80年代クーデタ以後は将軍たち、83年以後は母国党にも受け入れられた。             首相となったオザルは、「トルコ」と「イスラム」に加え、西欧に追いつき追い越すための「科学技術の革新」をも強調した。こうしてイスラムが、知的階層の議論の対象になり始めた。この議論には、20世紀初めから1924まで知識人が模索した、「西欧文明とイスラムとの調和」という命題や、「西欧文明下でムスリム・トルコ人が主体的に生きていこう」という主張の復活という側面があった。  

80年代、モスクが建設され、導師説教師養成学校卒業生も増えて指導的地位に就き、資金の内外からの供給もあって、イスラム主義は財政的基盤も築き始めていた。 

 イスラム主義発展の第2の特徴は、貧富の差の拡大によって支えられたこと。自由経済がもたらす社会的経済的不平等と不平等感が、支配層の汚職によって体制への不満絶望感と一体化し、アタチュルク以来の原則に逆らってあえてイスラムを掲げる政党に投票する形で表面化した。この行動は、共和国の根底に関わる性格を持っていたから、軍を含む指導層の感覚を鋭く刺激した。

 問題はイスラムが、感情的な議論にとどまり、イスラム主義が台頭した原因についての論及がなかったこと。80年代末に、大学内の「スカーフ禁止」の解禁運動が起き、母国党右派が支持して解禁容認法が成立した。エヴレン大統領はこれを憲法裁判所に送付、違憲と判断され、89末に一律禁止でなく学長判断に任せる決着となったが、イスラム主義と世俗主義との緊張は激化し、世俗派の論客の暗殺事件までエスカレートし、軍部は「トルコ―イスラム総合論」支持を止め、イスラム主義反対・世俗主義(というより共和国主義)支持を打ち出した。

 91総選挙で母国党は第1党から転落、代わって第1党になった正道党が第3党社会民主党の流れの共和人民党と連立政権を組んだ。正道党は、93年オザル急死後、第9代大統領となったデミレルの後をチルレルという女性首相が継いだが、自身の脱税・汚職で国民の不信を買い、第2党母国党のユルマズも攻撃して安定政権を許さなかったから、二大中道右派政党は国民を失望させた。代わってエルバカンの繁栄党が、9110.9%を9521.4%と急増させ第1党となった。世俗主義を否定するエルバカンに組閣させるわけに行かないので、デミレル大統領は母国党に正道党と連立させたが、3ヶ月で崩壊。遂にエルバカン首班の繁栄・正道連立内閣が成立した。

 繁栄党躍進の理由は、政権党が社会問題の解決できず汚職にまみれたこと・麻薬ポルノなど西欧化の負の側面が顕在化する中で、繁栄党がイスラム的価値観を前面に出してトルコ人に落ち着き先を用意したこと、貧者への援助や病人介護など草の根的運動を広範におこなったこと。繁栄党はこうして特定の支持者に支えられた党から、大衆政党へ脱皮しえた。しかし軍部はエルバカン政権誕生に危機感を募らせ、繁栄党が推進しようとするイスラム化政策を強く非難し、政治改革の実施を要求した。エルバカンは6月辞表を出し、直後に検察が繁栄党を憲法裁判所に提訴、98.1憲法違反判決が出て、繁栄党は解党された。しかし同党は直ちに美徳党として再出発し、99.4選挙で16%を得票した。

5 21世紀へ向かうトルコ

 繁栄党の軍による押さえ込みは、欧米のトルコ批判を呼び込んだ。軍の民主主義抑圧と非難し、トルコ政府のクルド人抑圧も問題とされた。トルコのEU加盟は拒まれた。64=準加盟国、96=関税同盟加入、97.12=東欧諸国とキプロスが加盟したがトルコだけ除外。多大の犠牲を払い、営々と追求してきた西欧への仲間入りという目標が、西欧によって拒否された。

 84以降、過激化されていたクルド労働者党は、麻薬密造に関わり、35万のテロリストを抱えた組織だが、トルコで抑圧されたことも事実で、「山岳トルコ人」と呼ばれた彼らは、同じクルド系のオザルが大統領の時、出版・放送こそ認められたが、民族的活動は制限され、87からはクルド労働者党と見なされると住民は強制退去・移住させる政策が断行されていた。オスマン末期以来推進された「国民化」政策の悲劇がそこにあった。「国民国家」は虚構だったことをクルド人問題は暴き、同時にクルド人を含めたトルコの出稼ぎ労働者が西欧諸国の「国民国家」の本質を鋭く突いた。

 トルコ近現代史は「国民国家」の問題点を提示する300年だった。まず軍事技術の導入、次いで法制の整備、国内・国際で民族独立を強要され戦争に負け領土を失い、たどり着いたのがアタチュルクの宗教色を排除したトルコ人の世俗主義国家だった。しかしそれでは国は纏められなかった。革命で権力を掌握したアタチュルクは、反対党を排除するなど独裁的権力行使による支配を続けた。

1999.4総選挙で、トルコ民族のナショナリズムを強調する民族主義者行動党が突然18%で第2党に躍進した。繁栄党の後身=美徳党と合わせると34%が右派政党に流れた。99.12、EU首脳会議はトルコを加盟候補と認知した。

 

おわりに

 国内ではイスラムと世俗主義の感情的対立が激しさを増している。イスラム圏で唯一西欧に認知されようとするトルコには、残された問題がある。それを整理すると、

@       性急な「脱イスラム化」で世俗国家を目指したが、内外の情勢もあり貧困から脱出できないため、旧来の宗教世界に依存する勢力を納得・清算させ得ていない。宗教との差別なき共存が必要ではないか。

A       大土地所有=不公平な土地所有問題=大地主・小作関係が先送りで解決されていない。

B       所得に応じて課税し、福祉財源を捻出する仕組み=かつてイスラムにあったシステムが機能しているか。EUに加盟したギリシャが、失業率24%で学生が騒乱を起こしたが、トルコでは起きていない。イスラム社会の相互扶助の良さが反映しているのだろうが、トルコ以外のイスラム国家の行方が気にかかる。

C       キリスト教に宗教改革があったように、イスラムにも現代にふさわしい宗教に向かって改革がありえないか。プロテスタンティズムは、救済の確証を事業の成功に置き換えて、働き続け・競争し続け・自足し得ない貪欲な人間類型を生み出した。イスラムはそれに対抗する、敬虔で・自足し・現代技術社会にも適応しうる人間類型を生み出せないか。                    おわり

                           

参考 

アンガス・マディソンの「世界経済の成長史18201992」による

トルコの経済成長の国際比較

@ 1人当りGDPの1990年国際ドル表示による比較(国際ドル表示とは、各年の各国通貨を、購買力平均と物価変動率とを用いて1990年の共通のドルに換算して示したもの)

         A1913   B1950   C1992  C/B   

  トルコ      974    1299    4422  4.5

  ギリシャ    1621    1951   10314  6.3 

  ブルガリア   1097    1651    4054  2.7

  エジプト     507     517    1927  3.8

  メキシコ    1467    2085    5112  3.5

  中国       688     614    3098  4.5

  インド      663     597    1348  2.0

  韓国       948     876   10010  10.5

  タイ       846     848    4694  5.5

  日本      1334    1873   19425  14.5

  米国      5307    9573   21558  4.0

トルコの1人当りGDP水準は、エジプトの倍、中国の1.4倍、ブルガリアとタイに並び、ギリシャの半分。1913年からの増え方もまずまずというべきだろう。 

A 人口の推移  千人 年央

         A1900   B1947   C1992  C/A

  トルコ    11900   19625   62007  5.2

  ギリシャ    4962    7529   10503  2.1

  ブルガリア   3961    7064    8505  2.1

  エジプト   10162   20460   54679  5.4

  メキシコ   13607   25852   93018  6.8

  中国    400000  541085 1167000  2.9

  インド      235729  374913  881200  3.7

  韓国      8772   20027   43600  4.9

  タイ      7320   18148   57600  7.8 

  日本     44103   78119  125188  2.8

  米国     76391  144688  261558  3.4

1人当り計算で問題なのは人口増加率。トルコは高い方に属する。もしギリシャと同じ人口増加率だったら、トルコの1人当りGDPはギリシャと並ぶ計算になる。

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