あ さ や け
空が白み始めた。
風が強い。雲の流れが急で、合間から青空が見え隠れしている。
仕事場の玄関にカギをかけ、セキュリティをOnにする。
昨日までとは少しだけ違う風が吹いている。春のにおいだろう。4月の声を聞いたせいでそう思い込んでいるだけだろうか。
歩道に前の日に積み上げられたごみが重なっている。気の早い烏が回収の来る前に朝飯にありつこうと群がっている。一面に生ごみのにおいが立ち込めている。いつもは毛嫌いするはずのにおいが今日はあまり気にならなかった。妙に人になれた烏は、人の気配に驚くことも逃げることもせず、冷ややかな一瞥をくれただけで朝食の収穫にいそしんでいた。
横断歩道で信号が青に変わるのを待って、歩き出す。相変わらず徹夜空けの若者がラッシュアワー並みの混雑で信号を渡る。人に流されるように自動改札に定期を通し、ホームへの階段を登った。
プラットホームも人でごった返していた。
茶色や緑の髪の毛の女、脂ぎった心を隠している日焼けした男たちがプラットホームにあふれてこぼれんばかりだった。息が詰まりそうになった、。性にタバコを吸いたくなり喫煙コーナーを目で探した。プラットホームの中央近くに見つけ歩き出す。
吸殻入れの中ではタバコがくすぶりつづけ、白煙があたりに立ち込めている。吸殻入れに書かれた「無煙吸殻入れ」の文字が悪い冗談にしか見えない。
この煙を、自分のタバコでいっそうひどくするのがためらわれ、しばらくたたずんでいた。目には人が川の流れのようによどんだり流れたりしているのが移っていた。ホームに一本二本と電車がやってくる。そのたびごとに、人の流れは電車の中に飲み込まれて行き、一瞬の空隙ができるが、すぐあとから別の人の流れが現れて、目の前でよどんでいた。
何回目かの空隙のすきをみて、ポケットからタバコのパッケージを取り出し、両切りの一方を口にくわえた。別のポケットからマッチを取り出し、火をつけた。硫黄の香りが鼻をついた。両手で風をさえぎるようにしながら、両切りに火をつけた。
深く吸い込もうとしたが、肺が受け付けてくれなかった。軽く咳き込んだ。
「おじさん」
後ろから声をかけられた。
「ひまそうじゃん」
「火、かしてくれない」
立て続けに声が聞こえてきた。
振り向くと、小麦色の顔が目に飛び込んできた。
口にはロングサイズのタバコがくわえられていた。
「ああ」
さっきのマッチを取り出し、彼女にかざす。
火をつけると、片手にタバコを持ち直して、
「サンキュー」
とこたえた。
それから彼女は無言だった、私も無言だった。
二人とも一本をすい終わっても、無言のままだった。
私は、目の前を通り過ぎていく電車の数だけを数えていた。
4本目の電車が目の前に止まったとき、彼女が口を開いた。
「なんで、ずっとここにいるの」
「帰るんじゃないの」
「ああ」「帰らないとな」
「気が進まないの?」
その声に答えずに、電車に乗った。
徹夜空けのラッシュと通勤のラッシュの間で車内は不思議なくらい空いていた。プラットホームで立ちっ放しだったので、空いてる席に座った。
隣に人の座る気配と柑橘の香りがした。
「つれないじゃん」
さっきの声が聞こえた。
「どこまで」
「誘ってるんだったら、そんな気はない」
なるだけぶっきらぼうに聞こえるように答えた。
「べつに」
「おじさんがその気だったら別だけど。」
苦笑が顔に出た。
横を見ることもしないで、口も開かずに前の窓を流れる風景だけを眺めていた。
不規則に並ぶビルの合間から時折、朝日が顔を照らしていた。
帰るべきところへのターミナルに到着した。
だが、降りる気は起きなかった。一瞬、逡巡したが、座ったままの姿勢は崩さなかった。
電車は広い操車場の脇を通っていた。朝日が切れ目なく顔を照らす。まぶしさに目を開いていることができなかった。鼻腔に漂うタバコの香りと柑橘の香りが快かった。
遠くで聞きなれたメロディが聞こえる。眠ってしまったらしい。自分の頭を支えているものに気が付いた。人の肩だった。
「おはよう」
「よくねてたね」
聞き覚えのある声が耳にささやいた。
「あ、すまん」
「いいよ、たのしかった」
「じゃあね、またね」
肩が動いた、私は頭を起こした。
と同時に片手が動いた、彼女の手を握っていたらしい。中指が名残惜しそうに彼女の手を追いかけていた。
「じゃね」
その声とともに、柑橘の香りが離れていった。
窓から見える日の光は、だいぶ上のほうに登っていた。規則正しい電車のゆれの中で、彼女を追いかけていかなかったことを少し後悔した。
Fin