た ぬ き 

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「たぬき」とりあえず、そう呼ぶことにしよう。
彼女に、はじめてあったときの印象は、「たぬき」だった。

保育園の板張りの床は、春というにはまだ早い弱々しい日の光に輝いていた。
「あ、おとうさん。」
「あ、おはようございます。」

「紹介しとくわね。こちらが、新しく入った○○せんせい。」
「あ、よろしくお願いします。×××の父親です。」

「よろしくお願いします。○○です。」

お辞儀から、顔を起こしたところを見ると、上目遣いの瞳と、整った顔に濃く引かれたアイラインが印象的だった。それから、彼女を心の中で「たぬき」と呼ぶようになった。「たぬき」と私は、保母と園児の親だった。まちがいなく。ある瞬間までは。

保育園の朝は、ぱっと見あわただしい。
家内の体調が思わしくなく、送り迎えをやっていた私は、勤め先の経営者に無理を言って、勤務時間の制限を大幅に緩和してもらっていた。勿論、給料に見合う業績をあげるという前提で。
出社時間さえ気にしなければ、先生と世間話をする時間はいくらでもあるが、圧倒的に女性の比率の高い保育園は、あまり居心地のいい場所ではなかった。まして、送りに来る人の大半は職業を持っており、出社時刻ぎりぎりに保育園にたどり着く。わたしも時間に余裕があっても急ぐふりはしなければならないような気がしていた。

先生に子供を引き渡すまでもなく、子供たちは、家より広い部屋、親よりやさしい先生、山のような玩具、土の庭など、興味の向いた方に走り出していってしまう。あとに残されるのは、大人が二人。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
「変わりないですね。」
「はい。それじゃ、お願いします。」
「はい、いってらっしゃい。」
それが、一般的な先生と親の会話だ。

むかえの時は、少し違うが基本的に時間がないのは同じこと。遊びに飽きた子供たちは親の姿が見えると、それに向かって走り出す。夕食の支度を急ぐ親、親にしがみつき再会を喜ぶ子供。汚れ物をまとめ、挨拶もそこそこに夕食の支度のために保育園の門をくぐる。
「今日も元気でした。」
「ありがとございます。」

「△△くん、またあしたね。」
「うん、ばいばい。」

ここでも、同じ会話があちこちで交わされる。

はじめて、「たぬき」と定型から外れた会話を交わしたのは、初夏の日差しが園庭の緑をいっそう鮮やかにし始めたころだった。
仕事の関係で、いつもより早く出社しなければならなかった私は、かなり早く保育園に到着した。時間外の保育を申請していない私は、子供とともにいつもの時間まで待たなければならなかった。
子供の部屋に行くと、誰もいないように見えた。
わたしは、子供と中に入り、部屋にある玩具で子供と遊びだした。
急に、
「あ、○○せんせー。」
子供が、廊下の方を指差して、叫んだ。
声につられるように、私もそちらを振り向いた。
「たぬき」がこちらを見ていた。

「あ、おはようございます。」
「おはようございます。」
「おとうさん、たいへんですね。毎日送り迎えですか。」
「はあ、もう慣れましたけど。」

「このまえ、△△くんと話したんですよ。」
「△△くん、かわいいですね。」
「私、△△くん、大好きです。」

「はあ」としかあいずちを打つことがしかできなかった。一様に保育園にいる大人は子供を誉める。たぶん、本心からであろう。
「はは、ありがとうございます。」

「で、△△くんとこのまえ話したんですよ。」
「はあ。」
「「△△くんが大きくなったら、先生と結婚してくれる?」って、」
「はは」
「で、こいつはなんて答えてました?」
「「うん、いいよ」って、答えてくれました。」
「もう私うれしくって。」
「ねー、△△くん、先生と結婚してくれるんだよね。」
「うん。」
「せんせい、大好き。」

こどもは、「たぬき」に抱きついていって、ほお擦りしていた。
「たぬき」の目はこちらを見つめていた。わたしの、鼓動が少し早くなった。
あたかも、自分に向かってはかれていることばであるような錯覚を感じていた。「錯覚だよ」自分にそう言い聞かせていた。

そうしているうちに、「たぬき」のこともわかってきた。20代半ばであること。いったん就職してから、保母の資格をとったこと。

「おとうさん、休みの日には△△くんとH公園に行ったりするんですか?」
「あ、はい」
その日も、唐突に会話がはじまった。
「△△くんと遊びたいから、休みの日H公園に行ってみようかな」
「ああ、どーぞ。こんな奴でいいんなら。いくらでもお貸ししますよ。」

もう、その頃には「たぬき」の息子に対する表現に慣れっこになってしまっていた。
内容について深く考えないようにしていた。額面どおり、子供に対する愛情としてとらえるように努めていた。しかし、この会話以降、そんな考えとはうらはらに休日の公園で「たぬき」の姿を探している自分にも気づいていた。

「たぬき」と会ってから、一年がすぎた。無事、息子も保育園で進級した、「たぬき」は、持ち上がりで息子の担当のままだった。
ある朝、いつものように先生に挨拶を済ませ、壁のポケットに連絡帳を入れ、帰ろうとした。「たぬき」は、遅番であったのか、まだ見当たらなかった。
振り向くと、更衣室から「たぬき」が出てきたところだった。
「あ、おはようございます」
同時に声をだしてた。
「はは。」
同時に声を出して笑っていた。
いつものように、下から見上げるような目つきで私の顔をみていた。
「あの。」
「はい。」
「わたし、おとうさんのような人がタイプなんです。」
「え」
絶句してしまった。なにか、気の効いた冗談で返そうとしたが思い浮かばなかった。廊下に立ちつくしてる間に、「たぬき」は保育室の中に消えていった。こどもたちに「おはよう」と挨拶する「たぬき」の元気な声が聞こえてきた。

「あれは、なんだったんだ。」
頭の中が混乱していた。
息子に対する表現は、本当は誰に向けたものだったのか。
頭の中がはっきりしないまま、「たぬき」と子供たちの歓声を後ろに、私は階段を下りた。


次の朝、幾分早く保育園に到着した。保育室に入ると、「たぬき」は床の拭き掃除をしていた。意を決して口を開いた。
「先生。」
「はい。」
床に正座した格好で、「たぬき」は顔を上げた。いつものように上目遣いで私を見つめていた。
「あさっての日曜、ひまですか。」
「あ。」
「たぬき」は一瞬くちごもった。
「ごめんなさい。友達とドライブの約束が。ああ、女の子ですよ。免許取立てで、横にいてほしいって。」
「でも、うれしいです。」
「そうかあ。先約ですか。仕方ないですね。」

「たぬき」が承諾の返事をしたらどうしようか考えていたわけではなかった。しかし、「たぬき」の本当の気持ちを確認したかった。そのためには「たぬき」と向かい合って話さなければならないと感じていた。

週明けの月曜日、また、「たぬき」とはなした。
「ごめんなさい。せっかく誘ってもらったのに。」
「で、ドライブはどうでした。」
「すごくこわかったです。二人できゃーきゃー言いっ放しでした。」
「でも、うれしかったです。またさそってくださいね。」
「はあ。」

この一言が、とどめになった。
「たぬき」と話したいと思っていた。
会社について、仕事をこなして、昼過ぎになった。ちょうど、保育園ではお昼寝の時間だ。会社を出て、電話ボックスに入り、保育園の番号を押した。
「はい、保育園です。」
「○○さん、お願いします。」
「はい、少々お待ちください。」
しばらく、電子音が流れたあと
「はい、代わりました、○○です。」
「こんにちは、△△の父親です。」
「あ。」
「今日早番ですよね。4じから時間もらえませんか。」
「あ。はい。」
「それじゃ、H公園で。」
「はい。」
「どうも仕事中すみませんでした。失礼します。」
相手が、切るのも確認せずに、受話器をフックに戻した。
心臓がいつもの倍くらいのはやさで動いていた。

会社に戻ると、上司に「子供が熱を...。」と説明し、早退を届け出た。

荷物をまとめ、会社を後にし、待ち合わせの公園に向かった。

公園でしばらく待った。
彼女が現れた。保育園ではまとめてあるロングヘアを降ろしていた。
「すみません。おとうさん。」
「実はこれから、予定が。すぐに行かないと間に合わないんです。」
「電話で言えばよかったんですけど、急だったので。ごめんなさい。それに、この公園、園の近くでしょ。誰かに見られると...」
「あ、ごめんなさい。」
「それじゃ、失礼します。」
ペコリ、と頭を下げて「たぬき」は現れた方向に戻っていった。

一人残されて、時間を持て余した私は、ベンチに座ってタバコに火をつけた。
そう、「たぬき」の言うとおりだった。
「誰かに見られる」とまずい間柄だ。
会ったところでなにも進展しない。
話したところでつらくなるだけだ。

結論が出るのは早かった。

次の朝、廊下で「たぬき」と話した。
「昨日はごめんなさい。」
「もう、会おうといわないことにしました。」
「なんか、年甲斐もなく。舞い上がって...。」
「あ、そうですか。」
「わかりました。」
「たぬき」の声は、少し低かった。私はうつむいたまま、顔をあげることができなかった。そのまま、うつむき加減で、園を出た。

桜の葉の間から漏れてくる初夏の陽光がまぶしかった。

  Fin


 

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