薔薇と坂道 

〜 Wing へ 〜

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アスファルトに残った真夏の昼間の熱気が、体から汗を搾り出す。
ビールとたばこと運動不足にのろいの言葉を吐きながらペダルを踏む。
坂道はまだ続くようだ、垂直の壁のように感じられる。

 


定時に会社のタイムカードを押した。入社以来初めてだった。まわりの同僚が奇異の目で見る。
「どうしたんだ、デートか?」
「ええ、まあそんなところで。へへ」
軽口もそこそこに後ろ手にドアを閉め、エレベータホールにでた。
エレベータにのり、玄関をでる。右手にある花屋にはいり、小ぶりの薔薇の花束をえらんだ。
どういう名目になるのかは自分でも決めていなかったが、どっちに転んでも必要になるだろう。
花束を手に下げ、駅のほうに向かう。切符売り場に並んだ人、改札機を待つ行列、見なれた光景が目に入るはずだったが、 今日は少し違っていた。人が多い。駅のコンコースに人があふれている。
しばらくすると、割れた音質のアナウンスが状況を告げた。
「ただいま、架線事故のため日比谷線は運行を見合わせております。」
「山手線も、人身事故のため運行できませんいたしておりません。」
「総力で復旧に努めております。今しばらくお待ちください。」

駅員に、つかみかかっている男性もいる。
足早に出口に向かうものもいる。
路線図を見上げ思案顔の人間も。

「くそっ」
舌打ちが自然と出た。

待ち合わせの日比谷まで、どうやってたどり着くか。あと、45分しかない。
電車さえ動いていれば、15分のおつりが来るはずだった。
「タクシーか。」
呟いて、地面の上に出た。

すでに行列はとぐろをまいて、人を飲みこんでいた。行列は伸びる一方で、いっこうに短くなる気配を見せない。

「歩くか」「自転車か」
「自転車...」

同僚の一人が自転車通勤をしていることに思い当たった。
「山手線の内側だったら1時間以内でつける」と、うそぶいていたことも。

会社に向かって、走り出した。

玄関を抜け、階段を駆け上がる。
まっすぐ、同僚の机に向かい
「自転車貸してくれ」
余程、切羽詰った形相だったのだろう、気圧されたようになって、
「あ、ああ」
「歩道においてある、鍵はこれ...」
とだけ答えた。
「んじゃ、これ電車代な」
と、札を放り出し、鍵をひったくるようにつかんで、そのまま階段を駆け下りた。

鍵をはずし、自転車にまたがる。
手にした花束が邪魔になってズボンの後ろにつっこんだ、われながら間抜けな格好に違いないと思いながら。
ペダルに足をかけゆっくりと踏みこむ、自転車に乗るのは何年ぶりだろう。 思ったよりも重いペダルに驚きながら、腰を浮かせて踏みこむ。

とりあえず、恵比寿から日比谷までの道を思い描く。 日比谷線の上を走っていれば、広尾・神谷町・六本木といけるはずだ。 とっさに、順路を思い描いて大通りに沿って走り出す。歩道は、歩行者でいっぱいだった。 自転車が邪魔になる。車道に出てペダルを踏みつづけた。右ひじをかすめてタクシーが通りすぎていく。 交叉点を右に折れ、天現寺陸橋を左に折れ、六本木通りに入る。
思ったより、スムーズに走れることに驚きを感じていた。
時計に目をやると、まだ約束の時間まで30分以上ある。すこし、余裕が出たような感じがした。
まだまだ捨てたもんじゃないな。そんな風に感じていた。

ゆるい坂を登り首都高速の下を、右に曲がる。

坂が続く、腰を支えている太ももが張ってくるのが感じられた。 車道は、車で埋まってる。アイドリングの音が、静かな轟音で町を埋め尽くしている。 歩道も、人が次第に多くなってきた。そろそろ、六本木の駅のようだ。 道の向こう側に、ピンクの看板が見える。待ち合わせなのだろうか、さまざまな人が、たたずんでいる。
歩道も、走れなくなり、再び車道に出る。

タクシーに注意しながら蛇行して、自転車を操る。

あせが、目に入る。あごが上がる。
いつのまにか、真上を向いて、まだ明るい曇りがちの空を見ている自分に気がついた。

不意に、視界がひらけた。
下り坂だ、溜池交叉点に向かう坂だ。あとは、これをまっすぐ行って、皇居沿いにいけば、日比谷につくはずだ。

坂は、急だった。額に当る風が冷たく心地よい。汗に濡れたカッターシャツが、体の熱を奪う。

坂を降りきった所の交叉点でとまった。
胸ポケットから、ハンカチを出す。すでに、汗が染み込んで濡れている。額、首筋とぬぐってみたが、あまり変化はなかった。あとからあとから汗は出てくる。
目の前には、自動車以外を拒絶するような急な坂が立ちはだかっていた。

皇居までの、急な坂にへばりつくようにしてペダルを踏んだ。心臓が出来そこないのドラムンベースのようなビートを刻む。肺が酸素を求めてあえぐ。汗が滝のように流れる。滴り落ちた汗が、アスファルトに点々と規則ただしいあとをつけて行く。

しかし、進み方は遅々としていた。この坂はどこまで続くんだ。どこかの国の大使館の脇をとおり、国会議事堂の脇に出る。
ようやく坂が緩やかになった。

両足と背中と腕が悲鳴を上げていた。頭のなかは酸欠状態で、頭痛とめまいでいっぱいになっていた。

あと一息、気力を振り絞り、ペダルに力をこめる。こめた分だけ着実にスピードが上がる。皇居の脇をとおり、交叉点を右に曲がる。

公園の前にたたずむ彼女が視界に入った。こちらには気がついていないようだ。こんな格好で現われるとは思ってもいないだろうから。

時間は、10分遅刻だった。

彼女の前に、走りこむ。ブレーキの音と砂利を跳ね上げる音とが周囲の目を引いた。

「...」
声が出なかった。
上体を折り曲げ、ひざに手を当てて、酸素を求めてあえぐ音しかで出て来なかった。

「いくな」
「え?」
「いくな」
「いっしょにくらそう」
「え?」
「ずっといっしょだ」

「...」
「うん」

「ありがとう」

ここまで言って、背中の違和感に気がついた。花束のことを思い出した。

「これ」
と、背中のベルトから取り出した花束には、花びらがなかった。
途中で、すべて散ってしまっていた。
緑のつぼみと葉っぱが夕暮れ間際の風にかすかに揺れていた。

「はは」
「ははは」

ふたりで、わらった。

「ばか」
彼女が言った。
目に涙が、光っていた。

彼女の顔が、汗だらけの胸に押し付けられた。
「ばか」
くぐもった声が聞こえた。

彼女の顔が離れたとき、マスカラがシャツにしみを作っていた。

  Fin


 

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