第81章    第24代/仁賢天皇 にんけんてんのう
  古事記には これ以降 10人の天皇(第24代〜第33代まで)に関しては 簡単な記述があるのみです。
  顕宗天皇が崩御の後は 意富祁おおけ の命が 第24代/仁賢天皇 にんけんてんのう に即位されました。
  仁賢天皇
は 石上
いそのかみ の広高 ひろたか の宮(奈良県天理市)にて 天下を治められた。
  天皇の
大妃おおきさき は 父の仇 雄略天皇(大長谷の王)の御子 春日の大郎女 おおいらつめ です。
  ほかには 若子の郎女 いらつめ を娶った。 生まれた御子は 合わせて7柱です。
  その中で 仁賢天皇春日の大郎女
おおいらつめ とに生まれた子である
  
小長谷の若雀の命 おはつせのわかさざきのみこと 第25代/武烈天皇 ぶれつてんのう に即位した。
    尚 仁賢天皇の崩御年齢 在位年数 御墓の所在場所等 については 記述されていません。
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               第25代/武烈天皇 ぶれつてんのう
 武烈天皇小長谷の若雀の命)は 長谷の並木の宮 はつせのなみきのみや (桜井市)にて 天下を治めた。
  武烈天皇には 日継ぎの御子が おりませんでしたので 御名代
みなしろ として 小長谷部 おはつせべ を定めた。
  そこで
第15代/応神天皇
おうじんてんのう の五世の孫 袁本杼の命 おほどのみこと を 近江の国から呼んで
  武烈天皇の
手白髪の命 てしらかのみこと と 婚姻させた。
  つまり この手白髪の命仁賢天皇の御子で 弟が武烈天皇です。
  古事記には ー近つ淡海の国より 上り坐さしめて 手白髪の命に合せて 天の下を授けまつりき記述あり。
  そして この袁本杼の命が 20年後に
第26代/継体天皇
けいたいてんのう に即位されました。
 御墓御墓は 片岡(奈良県香芝市)の石坏の岡 いわつきのおか 第23代/顕宗天皇陵と同じ地である。
      よって 顕宗陵を なんりょう 武烈陵を ほくりょう とよぶ。

 
仁徳天皇からの皇統
こうとう 第25代/武烈天皇で 切れてしまいました。
    
仁徳天皇→履中反正允恭安康雄略清寧顕宗仁賢武烈天皇。

  仁徳天皇陵墓    所在地:大阪府堺市大仙町                     
仁徳天皇陵
  
第16代/仁徳天皇は 河内王朝
かわちおうちょう といわれ 一大勢力を築きあげた偉大な天皇です。
  その陵墓は 全長486m 高さ35mの”前方後円墳墓”で 日本一の大きさです。
  尚 面積では エジプトのピラミッド
秦の始皇帝陵墓などを越え 世界一の大きさの陵墓です。
   
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