第82章  第26代/継体天皇 けいたいてんのう
 仁徳天皇からつづく皇統 こうとう (仁徳天皇履中反正允恭安康雄略清寧顕宗仁賢武烈天皇)
  第25代/武烈天皇で 切れてしまいました。
  だが 天皇家として天照大神からの血筋
-万世一系の血統- は絶やすことは できません。
 そこで
第15代/応神天皇 おうじんてんのう の五世の孫袁本杼 おほど の命第26代/継体天皇に 即位しました。
  継体天皇は皇后 仁賢天皇の手白髪の命を迎え 伊波礼いわれ の玉穂の宮に坐して 天下を治められた。
  継体天皇と皇后との御子は 天国押波流岐広庭の命 あめくにおしはるきひろにわのみこと  一柱でした。

 
この 天国押波流岐広庭の命第29代/欽明天皇 きんめいてんのう に即位された。
 ほかに 若比売 わかひめ とには 二柱の御子がおりました。
 
また 目子の郎女 めのこのいらつめ の御子である
  
広国押建金日 ひろくにおしたけかなひ の命 第27代/安閑天皇 あんかんてんのう に成られた。
  
建小広国押楯 たけおひろくにおしたて の命第28代/宣化天皇 せんかてんのう に成られた。
 つまり 先に 妃の子の二人が
第27代/第28代天皇に成って その後 皇后の子が第29代天皇に成ったのでした。
  また 麻組の郎女 おくみのいらつめ を娶って 生まれた1柱の御子の
  
佐々宜の郎女 ささげのいらつめ 伊勢の神の宮 いつきまつられました。
  また 坂田の黒比売くろひめ  関比売せきひめ  三尾の倭比売やまとひめ  阿倍の波延比売はえひめ なども 娶られた。
  このように 多くの妃を持たれた継体天皇には 合わせて19柱の御子がおりました。
   
  崩御: 531年 御年43歳で 崩御されました。 在位期間は 24年間。       
合掌
  御陵墓: 三島の藍の陵
みしまのあいのみさざき  (大阪府茨木市太田の茶臼山古墳)     (継体天皇の記述は これのみ)
 
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         第27代/安閑天皇 あんかんてんのう 
  第27代/
安閑天皇には
 
継体天皇と
目子の郎女めのこのいらつめ の御子である 広国押建金日ひろくにおしたけかなひの命が 即位された。
  安閑天皇は 勾の箸の宮
まがりのはしのみや (橿原市曲川町)にて 天下を治められた。 
  安閑天皇には 御子はおりませんでした。
  崩御: 535年 御年70歳にて崩御されました。在位期間は 4年間。            合掌
  御陵墓: 河内の古市の高屋
かわちのふるいちのたかや (大阪府羽曳野市)。        (安閑天皇の記述は これのみ)
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                  第28代/宣化天皇
せんかてんのう 
  第28代/宣化天皇には
  継体天皇と目子の郎女めのこのいらつめ の御子である 建小広国押楯 たけおひろくにおしたて の命が 即位された。
  宣化天皇 檜坰の廬入野の宮
ひのくまのいおりののみや (奈良県明日香村)にて 天下を治められた。
  宣化天皇
皇后第24代/仁賢天皇の御子 橘の中比売の命 たちばなのなかひめのみこと
  ほかに 若子比売 わくごひめ を娶って 合わせて 五柱の御子がおりました。
  宣化天皇の即位年齢は69歳と 遅く天皇に成られました。
  崩御: 539年 御年72歳にて崩御されました。 在位期間は 3年間。          
 合掌
  御陵墓: 身狹桃花鳥坂上
むさのつきさかのえのみさざき (奈良県橿原市)          (宣化天皇の記述は これのみ)
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                  第29代/欽明天皇
きんめいてんのう 
  第29代/
欽明天皇には

  継体天皇の皇后手白髪の命の御子である 天国押波流岐広庭 あめくにおしはるきひろにわ の命が 即位された。
  この欽明天皇の兄
二人が 第27代/安閑天皇と 第28代/宣化天皇です。
  欽明天皇は 師木島の大宮
しきしまのおおみや (桜井市金屋)にて 天下を治められた。
 欽明天皇は 第28代/宣化天皇の娘 石比売の命 いしひめのみこと 皇后に迎えた。
    
        ん!すると 欽明天皇は 兄の娘(姪っ子)を嫁にもらったのですね まあありか‥‥‥ボサツマン
  また 皇后 小石比売の命 おいしひめのみこと   日爪の臣の 糠子の郎子 かこのいらつめ を娶った。

 蘇我氏一族繁栄の始まり
   欽明天皇と蘇我氏の娘との子供たち
   皇后石比売の命 いしひめのみこと (第28代/宣化天皇の娘)の息子の 沼名倉太玉敷の命ぬらくらふとたましきのみこと
      
第30代/敏達天皇 びだつてんのう に即位された。
   また 欽明天皇
蘇我氏一族の女性を 多く妃に迎えた。
    岐多斯比売の命 きたしひめのみこと 稲目の宿禰 いなめのすくね の大臣の娘)の息子の 橘の豊日の命
      
第31代/用明天皇 ようめいてんのう に即位された。
       そして
豊御気炊屋比売 とよみけかしきやひめ 第30代/敏達天皇の皇后になった。
   小兄比売の命 おいしひめのみこと 皇后の息子の 長谷部の若雀の命
   
    第32代/崇峻天皇 すしゅんてんのう に即位された。
   ほかに 稲目の宿禰 いなめのすくね の妹の
小兄比売 おえひめ を 妃に娶った。
   このように 欽明天皇は 多くの妃を娶った結果 合わせて25柱の御子が生まれました。
   このような背景から 蘇我氏一族が権力を握り 次の時代の中心勢力となる歴史が始まるのでした。

      え!敏達天皇に即位した沼名倉太玉敷の命も その皇后の豊御気炊屋比売も 二人とも 欽明天皇の御子でしょ。
           兄と妹が結婚したって よくわかんね~ ま 子沢山の天皇ですね おめでたいことです ‥‥‥‥ボサツマン
           ああ~
そういえば 前にも 兄と妹の不義密通の関係もあったね →  
不義密通の関係
  とくに明記すべきは 第30代/敏達天皇(沼名倉太玉敷の命)皇后である 蘇我氏一族の娘である
  
豊御気炊屋比売の命
とよみけかしきやひめ
第33代/推古天皇 すいこてんのう として 即位したことです。
  このように 蘇我氏は朝廷の重要な立場を確立し 大きな勢力を形成していったのでした。
                  
 ま!曽我氏の発展隆盛に関しては 歴史の分野で学ぼう……ボサツマン
  崩御: 571年 御年62歳にて崩御された。 在位期間は
539年~571年の32年間。    合掌
  御陵墓: 檜隈坂合陵
ひのくまのさかあいのみささぎ (奈良県高市郡明日香村)
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