応神天皇は騎馬民族 (説)

  応神天皇の正体は
騎馬民族の大王 沸流 フル という説がある。
  
夫余族
ふよぞく の流れをくむ者で そのルーツは 遠く西アジアイスラエルに及ぶ。

  紀元4世紀頃 高句麗
こうくり の勢力が拡大して 朝鮮半島の勢力が不安定になっていった。
  そこで 沸流は朝鮮半島を離れ日本列島へと侵入してきた。
  圧倒的な軍事力を背景にもつ騎馬民族の彼らは またまく間に やまと の国北九州を治め
  「
伽耶
かや北九州連合国を形成し 沸流はさらに 東へと進み畿内を制圧ていった。
  その後 彼らは 日本列島を支配していた「
物部王朝
もののべおうちょう」の大王家 おおおみけ の入り婿むこ になり
  やがて
大和王朝を樹立していった。
  こういう社会状況の基に 応神天皇配下の渡来人が 大量に日本に流入してきたと いわれる。
  このように日本へ 夫余族
ふよぞく 系騎馬民族
  つまり 高句麗
こうくりじん 新羅人しらぎじん 百済人くだらじん 伽耶人かやじん  などが続々と渡来とらい してきた。

  その中で 最大勢力は
弓月の君
ゆづきのきみ 率いる 「秦氏はたし」でした。   あがた は天皇に献上された田
  秦氏の
領地の規模に関して さまざまな 記述があるが
  日本書記には 120
あがた 書かれ また 新撰姓氏録 しんせんしょうじろく には 127あがた とも 書かれる。
  故に 秦氏のその人数は 数千人の規模以上だったと思われる。
  ある文献には
 第21代/雄略天皇
ゆうりゃくてんのう の時代は 具体的な数として 1万8170人と記されている。
  この人数は 古代の人口を考えると 異例な人数の多さです。
 物部王朝
もののべおうちょう に関しては まだ すべてが解明されていないが         「邇芸速日の命・参上
  
天照大御神
まご 邇邇芸の命ににぎのみこと が 天孫降臨されるよりも先に
  
邇芸速日の命 ニギハヤヒノミコト 天つ国より地上に降った と伝わる。
  そして この邇芸速日の命 ニギハヤヒノミコト が 物部王朝の始祖 しそ であるという説が 認められている。
  だが 邇芸速日の命降臨こうりん したというより 天つ船から地上に落ちた らしいです。
 ‥‥‥まさか?