第48章  倭建の御葬 みはふり  
  
大御葬
 おおみはぶり  ー大葬の礼
 倭建の命の御葬
みはふり の時 后や御子たちは お別れの歌を四つ詠んだ。
 この四つの歌は 現在でも 「
天皇の御大葬ごたいそう 」の時に必ず歌われる‥‥と伝わる。
   なづきの田の 稲がらに 稲がらに這う廻もとほ ろふ 野老蔓ところづら
   歌が終わると 倭建の御魂みたま 白千鳥しらちどり となって天に翔かけあが り 浜に向かって飛んで行った。
    その白千鳥のあとを 泣きながら追いかけながら 詠んだ歌
    浅小竹原あさじのはら  腰泥なづ む 空は行かず 足よ行くな
    浅い篠原 篠笹しのささ が腰にまつわる でも 空は飛べないので 足がもどかしい

     次に
 后や御子たちが 腰まで海の水に浸かって詠んだ歌
  3  海処うみが 行けば 腰泥なづ む 大河原の植ゑ草 海処うみが は いさよふ
     海を行けば 腰が水に浸って進みにくい 広い河の水面みなも の浮草のように 海を漂うばかり

    次に 八尋の白千鳥が 浜の磯に降りていたとき 詠んだ歌

  4  浜つ千鳥 浜よは行かず 磯づたふ
    
浜の千鳥は 平らな 浜うい 行かず 歩きにくい磯づたいに 行くよ

   その後 この白千鳥は 磯浜を飛び立ち 河内の国 志畿
しき (大阪市、柏原市)に 留まり着いた。
   お后は この地に
倭建の命の御墓をつくり 倭建の御魂みたま を お鎮めもうしあげた。
   それで この御墓は 「白鳥の御陵
しらとりのみさざき 」という。

   第12代/景行天皇の息子(次男)として生まれた 小碓の命こうすのみこと 別名には
   倭建の命
 やまとたけるのみこと  倭男具那の命 やまとおぐなのみこと などがあります。
   容姿端麗な身にして 優秀な頭脳をもつ反面 豪放な気性
一本気な性格なゆえに
   
景行天皇に敬遠されて 次から次と 地方の討伐遠征を命じられました。
   倭建の命は 九州
出雲東方12道の平定という 大偉業を成し遂げた息子でした。
   最後は 伊吹山の神に
言挙げし神の毒気に当てられ 死んでしまいました。    倭建の命の物語

 
 倭建の命の妻と 六柱の御子
   古事記には 倭建の命の系普が 詳しく書かれています。
   天皇ではない倭建の命の血統が 天皇の系普に準じて
 大切にされてきた理由としては
   倭建の命の 他には類を見ない活躍 単独で平定した国の数 及び その人柄なのでしょう。

  
 垂仁天皇の娘伊理毘売 いりびめ とに生まれた子 帯中津日子の命 たらしなかつひこ のみこと 
      第14代/仲哀天皇 ちゅうあいてんのう に即位した。
   走り水の海に入水した 弟橘比売 おとたちばなひめ とに生まれた子は 若建の命 わかたけるのみこと
   淡海の国おうみのくに 布多遅比売 ふたじひめ とに生まれた子は 稲依別の王 いなよりわけのみこ
   大吉備建比売 おおきびたけひめ とに生まれた子は 建貝児の王 たけかいこのみこ 
   玖々麻毛理比売 くくまもりひめ とに生まれた子は 足鏡別の王 あしかがみわけのみこ 
   無記名な女とに 生まれた子は 息長田別の王 おきながたわけのみこ 
  
崩御
   景行天皇は
 御年137歳で崩御された。御墓は白鳥の御陵 しらとりのみさざき 大阪市柏原市  合掌
   
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