釈尊の出宮・しゅつぐう・と出家 (1) 
  釈尊が、出家した理由は、生老病死の四苦を滅する道を、求めてでした。
  生老病死の四苦のうち、生苦・しょうく・とは、生きているから生じる苦しみ。 生きている者のいろいろな人生の苦すべてです。
  仏教の説く生苦とは、人間だけではなく、あらゆる生きものの、生きている間の苦しみすべてをいっています。
  
  釈迦族の王子/ゴータマシッダルタ、つまり、釈尊がまだ幼少のある日、宮殿の庭園を散歩していた時でした、
  天上界天人浄居天・じょうごてん・が、・カラス・に化けて庭園に降り立ち 土をほじって生きている虫を、パクっと食べたのです。
  その光景を目の前に見た釈尊は、生きていることは苦しみであると 気がついたのです。
  烏・カラス・は 生きる為に虫を食う、だが、喰われた虫は死んでしまう。
  生存競争の世界とは、自分が誰かを食い殺さなければ 生きられない、残忍な食いあいの世界である。
  釈尊は、こんな残忍な世界に生きていたくない、もっと希望溢れる世界、調和ある世界に自分は生きたいと痛烈に感じました。
  釈尊が、生かし合う世界、助け合いの世界を探し求めて 旅に出たいと決意した動機は、この時生まれたのです。

  王子の釈尊は、王宮にて最高の御馳走を並べて、たらふく食べることができる身分でした。 
  しかし、彼は、最高級の御馳走も、その途中で どれだけの生き物が殺されているかと思うと、とても食べる気分になれませんでした。
  テーブルの上の野菜料理を見た時、畑を耕したとき、どれだけのミミズや土の中の虫たちが 殺されたのだろうか?
  また、田んぼの蛙や生き物たちが どれだけ殺されたのだろうか? 
  人間が食べる料理のため、野菜を洗う時に、その野菜についていた虫を どれだけ水に流して 殺してしまったのだろうか?
  しかし、その虫は、野菜の命を奪わなければ、生きていけない運命なのだということを、太子は気がついたのです。
  すべての生き物が、ほかの生き物を殺して生きている現実、その痛ましい殺し合いの結果が、この食前にある自分の食物なのだ。
  そういう傷ましいいろいろな犠牲のうえに、われわれ人間は 生きていることに、ハット気がついたのです。

  釈尊自身は、直接には 何も殺していないのです。 だが、何も食べないならば 生きられないのである。
  とどのつまり、自分もやはり、生き物を間接的に殺しているのだ という気持ちが 釈尊の心を責めるのでした。
  釈尊は、それ以来 この殺し合いの傷ましい世界から 逃げ出したいという気持ちで いっぱいになったのでした。
  
  さて、時代がさかのぼり、
  釈尊が生まれた時、父上の王さまは人相観・にんそうみ・を招いて、この可愛い王子の将来を見顔・けんがん・させました。
  その人相観は、その時
  王子は仏・ほとけ・の相をもっている故に、この子は、世界に真の平和をもたらす立派な転輪聖王・てんりんじょうおう・となるであろう
   しかしながら、王の位にはつかず 仏の悟りを求めて出家するでありましょう
 と予言していました。
  そこで、父上の王さまは、王子が出家しないように 悪いものはいっさい見せず 美しく飾りたてた部屋の中で育て、
  外部の世界の醜いものを一切見せることなく、生活させておりました。
  毎日、王子には美しいものばかりを見せ、妙なる音楽を聴かせ、食前には おいしいものばかりを揃えさせていました。
  つまり、この世界は美しい楽しいおいしい食物だけの世界であると思わせるように、すべてを準備万端して生活させていました。
  
  こういう状態でしたので、釈尊(悉多太子・しったたいし・幼名)が、庭園を散歩する前には 召使に命じて庭園をくまなく掃除させて、
  さらに、王子悉多太子の歩行・ほぎょう・であるというので 見苦しい人民に限らず、何人も入らせない厳重な警戒態勢をとって
  多くの護衛人・ごえいびと・をつけて、庭園を散歩させる有様でした。
  このように、王さまが厳重な護衛をつけて、王子に世の醜いものを見せないように万全の態勢をとっていたのですが、
  天人がカラスに化けて、釈尊の目の前に現われて土をほじり、生きている虫をパクっと食べてしまったのでした。
  太子の心は、益々、傷つくばかりでした。
    つづく                二度目の庭園散歩