釈尊の出宮 (5)
婆羅門の娘/スジャータが差し出した粥を見た釈尊は、一瞬、躊躇・ちゅうちょ・してしまいました。
宮殿の王子時代には、見たこともない・もちろん食べたこともない・穀物と牛の乳だけの 粗末な食べ物だったのです。
しかし、穀物も生き物である。 自分がその穀物を食べることは その穀物の命を奪うことである。
ましてや、牛の乳は牛の赤ちゃんの飲み物である。 自分が牛の乳を飲むことは、牛の赤ちゃんから乳を奪う行為なのだ。
人間が生きる生活とは、殺生と略奪・りゃくだつ・の上に成り立っているのだ。
今、このお粥を自分が食べると、自分の修行した六年間は 何だったのか? ここでも、釈尊は又、罪悪感で悩むのでした。
しかし釈尊は、その差し出された牛乳のお粥を、”ああ・ありがたい”という心/感謝の心で 召し上がりました。
ああ!良かったです‥‥‥安心しました‥‥だって、世尊がこの時このお粥を食べなかったならば、
後の世尊の説法は無かったし、オイラたちは、法華経に出会えなかったのだから‥‥‥ボサツマン 合掌
釈尊の心の中が、感謝の心でいっぱいになりました。
人生とは、この世とは、苦ばかりである、と思っていた釈尊は、苦ばかりを見つめていたのでした。
今、たった一杯のお粥を食べた時、釈尊の心は感謝の心に変わったのです。
この世は苦ばかりと思っていた釈尊でしたが、たった今、別の世界を見たのです、釈尊の心が別の世界を捉えたのです。
牛乳から作ったお粥の物質を見ずに、その牛乳のお粥に捧げた乙女の人間愛の世界を 釈尊の心は捉えたのです。
物質的外観のみを見ていた時には、そのすべては殺生や略奪して得たものばかりと、釈尊の目には見えていたのです。
だが今、釈尊の心が感謝の心に100%変わった時、そこには殺生や略奪ではない世界、互いに生かし合う世界が見えたのです。
この乙女に自分は何も求めていないのに、この婆羅門の娘は、私(釈尊)を生かそうとして お粥を差し出したのである。
自分(釈尊)は、自分では穀物も作っていないのに、牛の乳も搾っていないのに‥‥、ああそれなのに、それなのに‥‥、
今すぐ死んでもおかしくない自分なのに、自分を生かそうとする天地の恵みの大きな愛が、このお粥を自分に与えてくれたのだ。
そうか!自分は間違っていたのだ、殺し合いの世界と見えていたこの世界は、万物生かし合う素晴らしい世界だったのだ。
釈尊は、このように悟られたのです。 悟りは感謝の心から生じるのです。
釈尊の飲んだその牛乳は、親牛は子牛に飲ませようと思っている乳なのですが、実際は子牛が飲んでもまだ 余るほど出るのです。
親牛は、牛飼いから子牛の飲ませようと思っていた乳を奪われているとは、思っていないのです。
牛飼いの愛撫・あいぶ・を嬉しく感じて、小牛が飲んで余る以上に乳を出すのです。 牛からすれば、ごく当たり前のことなのです。
そこにはやはり、人間を生かさずにはおかない神・仏の恵みが 存在しているのです。
釈尊は、このことに気がついたのでした。
牛は草を食って生きている、という当たり前のことが、釈尊は、この当たり前のことを ありがたく感じ感謝の気持ちを持ったのです。
つづく