世尊
 「次に
身口意しんくい三業ごう について説きましょう。
  先程
私は =仏は
真理を知る知道者ちどうしゃ であり真理へ導く開道者かいどうしゃ であり
  真理を説く
説道者
せつどうしゃ である。一方衆生は仏の道を求める求道者ぐどうしゃ である= と説きました。
  さらに仏はにはこころ をもって開道にはみ をもって説道にはく をもって行うのです。

  
この三つは
しんの三業さんごう といい衆生の仏道修行における日々の行動規範でもあります。
  意の三業とは人間の行為を身意思の三種に分類したそれぞれのごう のことです。
  
ごう梵語ぼんご カルマ
つまり,行為を意味するがさらにその行為の影響力までも含まれるのです。
  悪に限らず人間のすべての行為には,必ず習慣力という余力がはたらきます。
  人間が行う行為は
その行為が終わったと思っていても、すぐに滅することはありません。

   
その行為の余力が人間の素質に蓄積されていて衆生の人生に何らかの影響を及ぼすのです。
  だから
衆生の人生に影響を及ぼすの行い
正しく行うよう充分な注意が必要なのです。

  身業しんごう とは、動作や振る舞いに現れること。口業くごう とは、言葉で表現されること。
  意業
いごう とは、思慮分別しりょふんべつの心のこと。 この三つは、輪廻りんねの力となっているのです。
  殺生
盗み邪淫じゃいん の三つが身業の三悪行と言われる。
  妄語
もうご(嘘)
両舌りょうぜつ(二枚舌)・ 悪口綺語きご(下品な言葉)の四つが口業の四悪行と言われる。
  貪欲
とんよく(欲望)瞋恚しんい(怒り)邪見じゃけん(誤った見解)の三つが意業の三悪行と言われる。
  衆生の皆さんは
身口意しんくい三業ごうについてよく学ばねばなりません。


  現世安穏にして 後に善処に生じ道を以て楽を受け亦法を説くの意味とは
  現世安穏
 げんぜあんのん にしてとは現世(この世)安らかな生活ができるという意味です。
 心が解き放たれれば 身体の病気が消えるという事実は教えの世界で知れ渡っていることです。
 この言葉は
様々な意味に解釈されやすいので説明しておきます。
 只単に
病気にはならないし生活にも困らないという意味で信じている人たちが大半たいはん なのです。
 また
安穏とは心が感じる範囲だから苦しい時でもそれに左右されない心と考える人も多いのです。
 この心には
現世で幸福になることは信仰家の堕落であるという考えがあるのかも知れません。
 同時に
現世での幸福を願っていない人間の心の言葉なのかも知れません。
 心が解き放たれれば 身体の病気が消えることの事実は、

 心と身体は別々と考える人や科学で証明された事しか信じない人たちは、けっして,納得しないでしょう。
  
  
医学が発達した未来においては心と身体は一体である という考えが定着することでしょう。
  
心が自由自在になれば日常生活が大きく変化していくので実際の生活が楽になっていくのです。
  だが
現世利益のみ求めて信仰するのではあまりにも目的意識が片寄り過ぎています。
  このような気持ちの信仰態度では
心の自由を得られるはずは、ありません。
 仏の教えを信じて生活すると
 ー心が安穏になったので、生活も安穏になったー ここが大事な事実です。
  だから
衆生は仏の教えを素直に受け取ることが 最良の方法なのです。
 仏の教えに対して、人間のとらえ方は、
  
死後の往生極楽の面を強調したとらえ方と人間の心の問題を重視したとらえ方があります。
  しかし仏の教えは
宇宙の真理の教えですのでそんな小さな教えではありません。
  人間の生命とは、
無限の過去から無限の未来まで生き通す生命であると、仏は教えているのです。
  地球が
火の塊りであった時代のもっと昔の過去の時代から生命は生き通してきました。
  これからの未来も
永遠に永遠に生き通していく生命なのです。
  人間は永遠の生命だから
現世の肉体を捨てた来世においても、安穏に生きれるのです。
 次の世来世でも真理を学び行うならば永遠の生命のルールに則のっと生きていけるのです。
  後に善処に生じ、道を以て楽を受け、亦法を説くとは、こういう意味なのです。
 空の大雲の雨は
一切の草木に降りそそぎ草木はそれぞれ種類や性質に応じて潤いを受け取り、
  それぞれの個性を生かしながら
それぞれの成長過程を経て大きくなっていきます。
  これと同じく
衆生は仏の多くの教えから自分の能力で理解できる教えを、自分で選び聞き学ぶと、
  心の障りや妨げなどが次第に消え去り、仏道をスクスクと歩むことができるのです」。
    つづく
           摩訶迦葉の授記