世尊 摩訶迦葉に授記じゅき する
「弟子の摩訶迦葉は、今までの説法を聞き良く理解できました。彼の理解力は素晴らしい。
仏のすべての教えは 一切衆生を平等に仏の境地に入らせることに 帰着きちゃく しているが
仏は衆生の心欲しんよく をよく見究めているので 仏はいきなりー滅相めっそうーを 説くことはありません。
仏の説法は1相1味也、解脱相げだつそう 離相りそう 滅相めっそう 也 究竟くぎょう して 一切種智しゅち に至る也。
意味: 仏の教えの根本である真理の法には 三つの相があります。
解脱相とは 物事を平等に見ることができるので 心が物事の変化に左右されなくなった状態。
離 相とは 平等に物事を見るという観念にとらわれず、苦や悩む衆生を救おうという心が起きること。
滅 相とは 自他の区別を滅して、自分も他人をも超越した 天地万物一体の境地を感じること。
仏の説法は、解脱相 離相 滅相という順で、高い境地へと衆生を導いていきます。
一切種智いっさいしゅち とは 平等と差別を見わける二つの智慧を生かす智慧のこと。
具体的な例として
衆生の日常生活において、自分のツバが口のなかにある時は、ちっとも汚いとは思いません。
しかし、いったん外へ吐き出した瞬間、自分のツバであったものが、もう汚いと感じます。
そのツバが口のなかにある間は、汚いと思わないのは、自分とツバが一体だからです。
外に吐き出した瞬間が、自分とツバの一体感が失われた瞬間です。だから、汚いと感じるのです。
自分の心と他人の心が一体になった時
他人の苦しみを見て自分の苦しみと感じる心 救ってあげずにはいられない心が自然に起きてきます。
又、他人の喜ぶ姿を見て自分の喜びとして 共に喜ぶ境地に達した その衆生たちが皆
さらに互いに 修行を積み重ね合うことで 衆生の住む世の中に浄土が出現するのです。
今 私は このことを理解した弟子の摩訶迦葉まかかしょう に授記じゅき を与えます。
それと まだ 仏の悟りには到っていない声聞衆が声聞衆しょうもんしゅう へ 伝えたいことがあります。
よく聞くのですよ あなたがたが今行っている修行の道は 菩薩の道へ続いているのです。
ですから、今後も益々修行に励んでいくと、必ず、あなたがたも成仏できるのです。
摩訶迦葉も授記されました よかった ‥‥‥ ボサツマン
次に、現世利益げんぜりやく と一相1味いっそういちみ の関係を説きましょう。
衆生が仏の教えを聞いて 受持し 読誦し その教えを自ら実行すれば かならず功徳くどく が与わります。
仏の功徳とは 衆生の現世に与わる利益 つまり 現世利益げんぜりやく のことです。
だが 衆生は 仏が教える現世利益の根本の原理までは 分かり得ていません。
それは 真理(仏)のみが知っているのです。 当まさに 草木が自分の性質を知らないことと同じです。
たとえば ある衆生が 仏の教えを信じ実行したので 何か変化が起きたとします。
その変化は その衆生にすれば 気にいらない場合もあるでしょう。
しかし 仏の大きな目でみると その人が生命のルールの上に乗ったということです。
その時は気にくわない変化でも 素直に生命のルールに乗って それに従って修行していくと
その衆生はかならず ーその衆生自身が幸福になるー方向へと 進んでいくのです。
ではここで 積善の家に余慶ありについて ハリネズミを例にして 説きましょう。
ハリネズミが自分の身体に生えている針を イヤな邪魔な針だと憎く思い 非常に気にくわないので
身体中の針を全部抜いてしまったら、忽たちまち 山猫などの天敵てんてき に食べられてしまうでしょう。
ハリネズミはハリネズミの如く 衆生は衆生の如く 動物は動物の如く 自分の身のままが素晴らしいのです。
花は紅 柳は緑 あるがままの姿を あるがままに受け入れて生きるのが 宇宙の自然の姿なのです。
仏が説く真の解脱しんのげだつ とは こういう意味のことなのです。
このように、仏が真理の眼まなこ で見た真の姿を 一相1味いっそういちみ と言います。
衆生に与わる現世利益の根本の姿とは 一相1味いっそういちみ の相そう(姿)なのです。
つまり仏は その衆生の器うつわに合った 身の丈たけに合った 現世利益を与えるのです。
衆生の立場からすると 修行を積み重ねることで 自分の器うつわ 身の丈たけ をより向上していくのです。
つまり 衆生の魂の向上レベルによって その衆生に与わる現世利益も 当然、変化するのです。
これが 現世利益の根本の原理なのです。 これは、真実なのです。
このことを 衆生界では 積善の家に余慶あり せきぜんのいえによけいあり と申しています。
衆生の皆さん 常日頃 善行を積む努力をしていきましょう」。
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