一瓶塚稲荷神社初午祭 〔開催場所=地図〕

 初午祭はつうまさいは、古来からの伝統により旧暦2月、現在の3月の初めてのうまの日を中心に3日間行われます。私(kawakiyo)は、平成14(2002)年3月2日の土曜日、久しぶりに初午祭へ出かけました。写真数枚を撮り、植木屋で赤い小さな実がビッシリ付く「ネズミモチ」を、また家族への土産に地元の商店が出している出店で「しんこ饅頭」を買いました。
 この期間は道路の両脇に約500の種々雑多な露天商ろてんしょうや植木屋が軒を並べて店を張り、参拝客で雑踏します。栃木県内はもとより東京・埼玉・群馬より参拝する信仰者も多く、3日間で約10万人に達します。

一瓶塚稲荷神社縁起
 平将門征伐で功労のあった鎮守府将軍俵藤太秀郷公が、天慶5(942)年相州鎌倉松ケ岡稲荷大明神に詣で、下野国富士村に勧請し衣食住の祖神、商売繁盛の守護神として創建されました。
 信仰者拾数万人、県内随一の稲荷神社として著名であります。その後文治2(1186)年秀郷公の子孫佐野荘司讃岐守成俊公が唐沢城再興の折り、富士村の稲荷大明神を現在の田沼の地に勧請(かんじょう)して、社領を寄進し佐野荘の総社として尊崇されました。
 その際近郷近在の人々は競って瓶に土を入れてこの地に運び、塚を築いたのでこの塚を一瓶塚、この塚の上に稲荷の祠を建立したので一瓶塚稲荷大明神と称したと伝えられております。 初午祭りは古くより遠近の老若男女の信仰者で賑わい、3月の初午祭には群馬、埼玉、東京方面からの参詣者が多く、数万の人手で賑わい、しんこまんじゅうと植木市は名物となっています。
銅製鳥居
 この銅製鳥居どうせいとりいは、延享3(1746)年9月吉日の建立で、鋳物師いものしは天明金屋町(現栃木県佐野市天明町)の「丸山善太郎毎昭」以下4名です。
 昭和28年8月4日、文部省により「重要美術品」に認定されました。
 鳥居とりいに向かって右柱に佐野豊前守、左柱に榊原安芸守さかきばらあきのかみの印刻があり、各柱に唐獅子からじし3個がついています。
一瓶塚稲荷神社本殿
 右の写真は、一瓶塚稲荷神社いっぺいづかいなりじんじゃ本殿ほんでんである。
 御祭神ごさいじんは、「豊受姫神とようけひめのかみ」「猿田彦神さるたひこのかみ」「大宮能売神おおみやのめのかみ」「久久能智神くくのちのかみ」「草野姫神かやぬひめのかみ」で、御神徳ごしんとくは衣食住の大祖神だいそじん福徳円満ふくとくえんまん・商売繁盛・火防かぼう・交通安全の守護神しゅごしんである。
 この神社は、文治2(1186)年に佐野荘司讃岐守成俊公が、唐沢城からさわじょう再興の際に富士村の稲荷大明神を今の地にうつまつり、社領の地を寄進し、佐野荘百数十郷さののしょうひゃくすうじゅうごう総社そうじゃとして尊崇そんすうしたといわれ、その折り各地の人々がびんに土を入れてこの地に運び塚を築いたので、塚を一瓶塚いっぺいづかと呼び社を一瓶塚稲荷神社いっぺいづかいなりじんじゃと称したという。
 本殿は、間口まぐち2.42メートル、奥行4.24メートル、銅板葺き、欅材権現造けやきざいごんげんづくりである。破風飾はふかざりは上り下りの龍が高肉に彫刻され、組物くみもの木鼻きばな龍頭りゅうず獅子頭ししがしら等の丸彫りを用い、外壁面がいへきめんには精巧せいこうな龍と戦う騎馬武者きばむしゃ、あるいはさしばをかざす貴婦人きふじん透彫すかしぼり等が用いられている。その他、各部に精巧せいこう花鳥霊獣かちょうれいじゅう浮彫うきぼり丸彫まるぼり透彫すかしぼり篭彫かごぼり等が たくみに配されている。天保てんぽう4(1831)年の竣工しゅんこうである。
露天商と植木屋
 初午の3日間は、露天商ろてんしょうや植木屋で約500軒が道路の両脇に軒を並べる。昭和期までは、植木屋の出店が多かったが、最近では露天商が圧倒あっとうしている。






 写真左は、おばあちゃんとお孫さんが多分記念樹きねんじゅと思われるが、物色している姿が微笑ほほえましく、思わずシャッターを切った一枚である。
しんこまんじゅう
 右の写真は、初午はつうま名物の「しんこまんじゅう」です。10個入りで800円です。(平成14(2002)年現在)
 昔は初午祭の時期だけに売られていましたが、最近では需要じゅようも多く年中売られています。
 しんこまんじゅうの「しんこ」は新粉を意味します。精白した田沼産のうるち米の粉と小豆を美味しい田沼の水で丹念に練って作ります。稲荷神社を「信ずる」からきた由来もあり、このまんじゅうを食べると無病息災で暮らせるとの言い伝えがあります。