観音山夏祭り 〔開催場所=地図〕

 永享3年(1531)年に創建された引地山観音堂で、毎年7月下旬に「観音山夏祭り」が行われます。この祭りは、観音堂の地元(富岡町)の人たちにより、安産厄除、家内安全、交通安全を願い、昔から途切れることなく執り行われてきました。
 この日は、子ども育成会による子どもみこし、焼きそばやかき氷、ヨーヨー釣り、輪投げなどのイベントが行われ、観音山からは、子どもたちの笑顔や笑い声が一日中絶えません。
 昭和30年代~40年代は、観音山の中段の広場で地芝居や剣道大会、剣舞などが披露されかなり広い範囲から人々が集まり賑わっていました。
 また、当寺は佐野板東三十三箇所の一番札所となっています。佐野板東三十三箇所は、栃木県の佐野市、栃木市にまたがる観音菩薩霊場の総称です。元禄4(1691)年3月、招かれて下野国の吉水に救世山東明庵を開基した雲国法師(本源雲国)が、坂東三十三箇所観音霊場に倣い、近在各地の寺院に呼びかけて元禄11年に作りました。
 他に下野三十三観音霊場というのがあり、こちらでは引地山観音堂が27番札所になっています。
引地山観音堂
 日向寺引地山観音堂は、富岡村(現栃木県佐野市富岡町)の南西の方角、観音山の山腰にある。境内は東西120m、南北45.5m、面積5,460㎡で、この堂は官有にして代々伝わる。
 元徳2(1330)年庚午2月20日、安蘇郡富士村の天台宗泉応院恵昌法印という者が京都比叡山にのぼり二品尊雲法親王(護良親王)の門徒となって名前の一字を授かり尊海と改名する。このとき尊雲法親王の御守り本尊である馬頭観世音1体を尊海に授かる。尊海は故郷に帰り富士村泉応院へ馬頭観世音を納め本尊とした後、尊海は環俗する。
 護良親王は、征夷大将軍を拝命せられたが、藤妃(阿野廉子)の讒言(事実をねじまげた告げ口)により征夷大将軍を解任され失脚し、建武元(1334)年甲戌11月、世を避けるため東国にお忍びになられた。
 そのとき従う人々は阿曽沼民部五郎兼綱、児島三郎左衛門尉正憲、赤松二郎則養、村上彦四郎、関根刑部太郎、三井右近、富岡将監、長島右京亮、春日左近次郎、岩崎兵部次郎、小野寺八郎、久賀民部、木曽源三、山形図書、小見玄蕃ら15人。並びに官女は南方(みなみのかた)、春日方などであった。このとき児島三郎左衛門尉正憲と他12名は王子陸良(興良)親王を補佐するようにとの命を受け暇を賜る。
 護良親王は、建武元(1334)年冬、皇位簒奪を企てたとして、後醍醐天皇の意を受けた名和長年、結城親光らに捕らえられ、足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られた。鎌倉将軍府にあった足利尊氏の弟足利直義の監視下に置かれたが、直義の謀略により建武2(1335)年7月17日に斬首された。
 阿曽沼民部五郎兼綱、関根刑部太郎の両名は南方(みなみのかた)の側に止まって奉公していたところ、護良親王が殺害されたとの報を聞き、南方が阿曽沼、関根の両名に命じて御首を奪い、夜な夜な隠れ行動して当郷へ帰る。南の局は両人をして御髪、御首を東西に密かに埋葬した後、剃髪して仏門に入る。
   このとき既に南方は妊娠しており建武3(1336)年丙子2月8日、根光寺の草庵にて王子を出産する。阿曽沼民部五郎兼綱、関根刑部太郎らは、このことが賊将足利へ聞こえ伝わるのを恐れて阿曽沼民部五郎兼綱が我が子と称して王子を養育する。
 一方、仏門に入った南方(みなみのかた)は、かねて護良親王が泉応院尊海に授かった馬頭観世音を南方が住む根光寺の草庵に移し、法華経を日々怠りなく読誦していたが弘和2(1382)年壬戌9月19日、草庵において死亡する。行年66歳。翌年6月16日村民等が密かに遺骨を北久保に埋葬する。(佐野家山越実録譜伝を参照)
 南方の王子を阿曽沼民部五郎兼綱が預かって養育していたが、正平5(1350)年乙丑2月16日、密かに阿曽沼、関根らが王子を連れて藤沢清浄光寺8代渡舩上人を訪ね王子の身の上を説明し上人の門徒にして下さることを乞う。上人が承諾し王子は宝算14歳にして落飾、即ち仏門に入り名を尊観と称した。後に清浄光寺12代尊観上人となる。
 当時、足利の権勢が盛んであったため尊観上人は後村上天皇の御落胤と詐称して諸国を修業しておられたが、諸国修業14年を経た応永7(1400)年庚辰10月24日、長州赤間ケ関の専念寺において死亡する。宝算65歳であった。(藤沢遊行寺の回荅状を参照)
 また、根光寺の草庵は南朝に関係あるとして足利の権勢を恐れ誰もこれを追念することなく哀れであった。悪漢等が何度となく庵を破壊していたが、ある日、馬頭観世音像を沼中に投ず捨ててしまった。
 月日はながれ、正長元(1428)年戌申7月17日に漁師の網に馬頭観世音像がかかり、引き揚げて阿武塚(現鐙塚町に観音屋敷と称する跡地が現存する)に仮堂を建てこれを安置する。すると近隣の里民が群集して俗尊を崇参拝すること日々盛んであった。
 この折、阿曽沼治郎太夫という者(阿曽沼四朗広綱10代の孫で阿曽沼城の殿様)の夢枕に夜な夜な観音様が立ち「西の岩山に帰りたい」と告げたので永享3(1431)年辛亥7月17日、富岡の岩山に移して引地山日向寺観音堂となった。その際、佐野左衛門尉資綱より仏具その他種々の仏物を寄進された。
 その後、風月は過ぎ天正13(1585)乙酉3月に小田原北条勢が佐野氏の主な者を追撃しようと進入のとき防戦敗れて戦火に遭い不幸にして什物は灰塵となった。
 33年の星霜を経た後、元和3(1617)年安蘇郡犬伏村において田沼新佐エ門、山口久兵衛、秋本七九郎、その他、伊藤、安藤、福島、竹村、椎名、早川、田村、吉沢、亀田、茂呂、増山。堀米村において横塚、五十嵐、吉沢。天明は喜多村、徳力、松村、斎藤、関口、広瀬、荒居、茂木、長、谷川、大川。越名村において松本、須藤、深ケ谷、広瀬、矢島、岸、篠宮、小林らの人々が協同、賛助、協力して伽藍を再興した。
 その後、寛政12(1800)年庚申11月15日に久保町の成就院より出火、類焼に遭い再び灰塵となったが、南方(みなみのかた)にゆかりのある関根弥惣清則という者が宰主となり再建に着手し、文政7(1824)年の秋に落成し旧観に復した。
 観音堂は東西9m、仏室縦71.2cm、横90cm、本尊は馬頭観世音1体(古代の作木はしゃうぐん木という木によく似ている。この像は二品尊雲法親王の御持仏であったので足利の権勢を恐れ正観音と詐称していた。467年の星霜を経て栃木県地誌編纂により昔に遡り詳細を調べ、初めて馬頭観世音と本名に復することができた)高さ54.5cm。
 相殿に阿弥陀如来木の立像1体、高さ84.8cm。遽遮那仏木座像1体、高さ37.8㎝。各作者不詳。生花抻木造1個、高さ36.3㎝、周囲60.6㎝、これは天文3(1534)年に京都府万貫助六泰広が寄進したものと言い伝う。

 またこの寺には、鋳銅梅竹文透釣灯篭(六角青銅鉤)1基がある。高さ27.2㎝、重量3.75㎏、二百目模様、松竹梅の透かし彫りが施してあり、鋳銅製・円筒形透彫で丈の低い火袋に蓋と台をつけた釣灯篭である。火袋は6間で、うち1間は片面開きの扉がついている。火袋の各間には枝を広げた梅樹を3間に、他の2間は竹林でできている。屋蓋は六角形で反りが少なく、中央に、中央に宝珠形の釣鐶台を鋳出している。屋蓋には放射状に8行の銘文「奉寄進金燈鑪 下野国河曽郡 日向寺観音堂願主妙寿藤原宣綱子孫繁昌 別者諸民安全福寿 増延故也如件 本願如意坊祐尊天文14(1545)年乙巳12月吉日」が刻印されてある。これは日向寺観音堂の願主であった妙寿の寄進したものであることがわかる。
 形状・文様など複雑な燈籠を総型鋳物で巧みに鋳造し、一気に鋳上げた技巧は称賛に値する。この釣燈籠は大正2(1913)年、足利の商人で在野の考古研究家・丸山瓦全(がぜん)と鋳工家で当時東京美術学校教授であった香取秀真(はつま)により観音堂で発見され、千葉市千葉寺の釣燈籠と同じ天明鋳物と判明した。
 その後、2度盗難にあい、一部が破損し修理されている。室町時代の天明鋳物の最高水準を示す作品である。天明鋳物の最古のものとして国の重要文化財に指定されており、現在、佐野市郷土博物館に収蔵されている。

 境内には馬堂1宇、縦1.8m、横2.72m、瓦葺木造。黒馬1頭、高さ1.21m、閻魔堂1宇、方2.72m、瓦葺、閻魔仏木座像1体、高さ1.39m。各作者不詳。濡大日如来石座像1体、高さ90.9㎝、台座高さ1.51m、芝附方1.3m。不動堂1宇、方3.6m、瓦葺。本尊不動尊木立像1体、高さ39.3㎝、相殿に薬師如来木立像1体、高さ78.8㎝。十二童子木立像12体、高さ36.4㎝。遽遮那仏木座像1体、高さ36.4㎝。大日如来銅座像1体、高さ31.8㎝。各作者不詳。九輪塔1基、材質は御影石、高さ2丈、芝附方1.57m、台座方1.21m、延宝3(1675)年乙卯3月これを建てる。この他、文字が磨滅した不詳の石灯籠1対、高さ2.73m、同1基、高さ2.73m、同1基、高さ2.36m、同1基、高さ2.06m、碑石1対、材質、御影石高さ1.82m、方42.4㎝。宝筐塔1基、高さ2.88m、芝附方1.15m‥‥などがある。
 縁日は毎年陰暦正月18日、7月10日の両日(現在は7月下旬に1日のみの開催)。参詣に訪れる人々は数万人に達し、馬には種々の装飾をして遠近の別なく競うて礼拝し、各飼馬の無事を感謝するは数百頭に及ぶ。昔より今に至るまで、その盛んなるは他に比べるもの無し。境内には松樹、雑木が繁茂している。

   詠歌に 「無量なる大慈の阿みの引地山 もらさですくふちかい頼母子」 (詠み人知れず)

参照:
「地誌編輯材料取調書 安蘇郡富岡村 明治22年3月」
「地誌編輯材料取調書 安蘇郡鐙塚村 明治22年3月」
「栃木県の歴史散歩 2001/2/20 2版1刷」
 「南方(みなみのかた)、南の御方(みなみのおかた)、雛鶴姫」伝承は、東国のあちこちに伝わっているように思われます。美しい(?)姫が護良親王の首級と共に落ち延び、悲しく命を散らす物語りは当時の人々の心に響き、いつの間にか土着してあちこちに同じような伝承が出来上がったのではないでしょうか。これら伝承の地をたぐると身分の高い姫が落ち延びてきた逃避経路が浮かび上がるかも知れません。
 根光寺=星霜年の歳月が過ぎ根光寺は朽壊して林となる。これを「ねこち林」という。その後、ねこち林は天正年間(1573~1591)に開墾され民有耕地となった。この場所自体は現佐野市鐙塚町に現存する。