子育呑龍上人大祭(宝龍寺) 〔所在地図〕
「子育て呑龍様」の名で親しまれている浄土宗の僧侶・呑龍上人は、14歳のとき林西寺に入って僧となり、勉学に励み、天正12(1584)年に林西寺の住職になりました。栃木県佐野市大祝町の「宝龍寺」では9年間活躍しています。
呑龍上人が「子育て呑龍さま」と呼ばれるのは当時の貧しい子供たちを弟子として寺に引き取り教育したことに由来し、今もなお人々に親しまれています。
呑龍上人ゆかりの宝龍寺では、毎年9月8日に子どもたちの健やかな成長や安産を祈願する「子育呑龍上人大祭」が行われます。
呑龍上人が「子育て呑龍さま」と呼ばれるのは当時の貧しい子供たちを弟子として寺に引き取り教育したことに由来し、今もなお人々に親しまれています。
呑龍上人ゆかりの宝龍寺では、毎年9月8日に子どもたちの健やかな成長や安産を祈願する「子育呑龍上人大祭」が行われます。
子育て呑龍様
「子育て呑龍様」の名で親しまれている浄土宗の僧侶・呑龍上人は、弘治2(1556)年4月に武蔵国埼玉郡一ノ割(現・春日部市)に生まれ、14歳のとき林西寺(埼玉県越谷市平方)に入って僧となり、勉学に励み、天正12(1584)年に林西寺の住職になりました。栃木県佐野市大祝町の宝龍寺では9年間活躍しています。増上寺の教師としても平方と江戸を往復し、天正19(1591)年には徳川家康から寺領25石のほか、学問料として25石を与えられました。
呑龍上人が開山した群馬県太田市金山町の大光院では毎年9月7日~9日にかけて、呑龍上人を偲ぶ呑龍忌とともに大光院開山忌法要が行われます。
大光院は、慶長18(1611)年の春、徳川家康によって一族の繁栄と始祖新田義重を追善供養するために開かれた浄土宗の寺で、開山には芝増上寺の観智国師の門弟で四哲の一人といわれた呑龍上人が迎えられました。
大光院に入山した上人は、看経・講義・説法などに力を尽くしたため、上人の徳を慕う学僧が大光院には多数集まり、周辺農民も上人の教えを受け入れたので、寺運は益々栄えました。
呑龍上人が還暦の年、親の病気を治そうと国禁を犯し鶴を殺した少年を匿い罪人となった上人は少年を伴い逃走しましたが、その後、恩師であり日本国最高の僧侶であった観智国師の遺言によって赦免となり、66歳の春に大光院に帰山することができました。
一方、乱世後の人心は乱れ、天災等の影響により生活は困難を極めていたので、捨て子や間引きなどの非道が横行していました。上人は、その非道を憂い、捨て子や貧しい人々の子供を弟子という名目で寺に受け入れ、寺の費用で養育いたしました。このため、「子育て呑龍様」と呼ばれ、今もなお篤い信仰を集めています。
元和9(1623)年7月、病床にあった上人は、「9日の正午は往生の時であろう。雷鳴がとどろくが、それは往生の知らせである」と弟子たちに言い残す。言葉どおり9日の正午、雷鳴がとどろく中、上人は68歳の生涯を閉じました。
宝龍寺(佐野市大祝町)
佐野市大祝町2312番地に所在の宝龍寺(浄土宗)は、呑龍上人の他に陽明学者・中根東里と深い関わりがあります。東里は元禄7(1694)年、伊豆下田の生まれ、20歳で上京し、荻生徂徠の門人となります。42歳のとき金束信甫に招かれて下野庄植野(佐野市植野町)の泥月庵で学問を講じました。延享3(1746)年、門弟は宝龍寺境内に建物を造り東里を迎えました。東里は「知松庵」と名づけ子弟の教育にあたりました。知松庵の跡は現在天明小学校となり、今日それを示す金属製の碑が立っています。
さらに江戸街道を北へ進むと栃木県立佐野高等学校があり、その北裏の朝日森天満宮に、中根東里撰文の「菅神廟碑」があります。