佐野の越名舟歌全国大会 〔開催場所=地図〕

 越名舟唄(こいなふなうた)は、江戸から明治期にかけ佐野の越名馬門河岸と江戸を結んでいた高瀬舟の船頭が、舟をこぎながら口ずさんでいたとされる民謡です。全国にPRする地域おこしの一環として平成10(1998)年より佐野市文化会館を会場に大会が始まりました。




全国大会の概要
 内容(参加区分等)は開催年度により変わりますが、第12回大会では、熟年(71歳以上)、実年(61歳以上70歳以下)、一般(60歳以下)の3部門で行われました。初日は、全国から約150人前後の民謡を愛する方々が予選会に出場し、船頭衣装や着物姿の参加者たちが、舟をこぐ音を再現する木製楽器「櫓」や尺八の伴奏に合わせて、力のこもった民謡独特の歌声を次々に披露しました。
 2日目の最終日は、予選を勝ち抜いた約3分の1(50人前後)の方々による本選があり、決勝ではハイレベルな争いの中、3部門の優勝者が決まりました。
 最後は、3部門の優勝者による総合優勝決定戦が行われた後、総合優勝者及び部門ごとの勝者などが表彰されて大会は終了しました。
 第1回大会(平成10年)から第17回大会(平成26年)までは2日間の開催でしたが、第18回大会(平成27年度)からは1日のみの開催となりました。
越名舟唄の一節
  ハァー~
    船はろでゆく 越名の河岸を
             お江戸通いの 高瀬船
佐野の越名舟唄の由来
 越名舟唄は、江戸期から明治期にかけて、佐野の越名河岸から秋山川~渡良瀬川~利根川~江戸川を経由して、隅田川から江戸の両国とを往来していたかつての高瀬舟の船頭が、櫓や竿をあやつりながら口ずさんでいた唄でした。
 この唄は江戸の酒盛り唄の「二上がり甚句」が源流とされ、日光街道最初の宿場千住で酒席の流行り唄として唄われた「千住節」です。
 それが近郷に広まり、「盆踊り唄」「田の草取り唄」、更には「舟唄」に形を変え千住を中心にして、関東地方の河川を往来する高瀬舟の船頭たちによって広まりました。そして、河川流域により唄の呼び名が変わり、当地においては「越名の舟唄」として唄い継がれています。
「大会を告げるポスター」と「下野かるた」
 右のポスターは平成22(2010)年の第13回全国大会を告げるポスターです。大会は毎年第3土曜日と日曜日に開催されます。
 左の「下野かるた」に「民謡に残る 越名の舟唄」とあります。佐野市越名町・馬門町の「越名馬門河岸跡」は、江戸時代中期に開設され大正時代まで江戸両国に荷を運ぶ川船の発着場としてにぎわい、時には二百艘近い高瀬船が停泊し、河岸には駄馬と荷車で混雑したとあります。
 しかし、今では遺構もなく、その面影も全く残されておりません。「下野かるた」が示しているように民謡として残っているのみなのです。

佐野の越名舟歌全国大会開催日記録
回 次開  催  日
第20回平成29(2017)年9月17日(日)…1日のみ
第19回平成28(2016)年9月18日(日)…1日のみ
第18回平成27(2015)年9月20日(日)…1日のみ
第17回平成26(2014)年9月20日(土)~21日(日)
第16回平成25(2013)年9月21日(土)~22日(日)
第15回平成24(2012)年9月15日(土)~16日(日)
第14回平成23(2011)年9月17日(土)~18日(日)
第13回平成22(2010)年9月18日(土)~19日(日)
第12回平成21(2009)年9月15日(土)~16日(日)


越名河岸・馬門河岸の盛衰 〔所在地図〕

 「越名舟唄」は民謡としてどのような発展をしたのか、「越名」という地名がなぜ唄の名前に冠されたのか興味が湧いてきました。少し調べてみると今では姿形が全く残されてない「越名馬門河岸」の存在にたどり着きました。大きな川の無い当地に水運が発展していたと知り驚きです。
 江戸から明治の一時期佐野の物流の一翼を担って産業の発展に大きく貢献してきた「越名馬門河岸」が、どのように隆盛し衰退したのか調べてみることにしました。
越名馬門河岸の盛衰記
佐野と江戸を結ぶ高瀬舟
 江戸時代の明暦年間(1655~1657)に須藤彦右衛門が彦根藩の許可を得て、1km余りにわたる秋山川の改修工事を行い回漕問屋を開いたのが始まりです。18世紀に入ると各問屋の持ち船も増え、時には200隻以上の高瀬船が停泊するなど、越名馬門河岸は渡良瀬川沿いの河岸としては1、2の規模を誇り、大いに繁栄をきわめました。

蒸気船 通運丸
 明治10(1877)年には東京から蒸気船・通運丸が定期的に運行し始め、従来の高瀬船に代わりました。通運丸は、利根川水系の河川を網羅した内国通運会社によって、東は銚子、西は川俣、北は藤岡町の笹良橋から越名・馬門、南は千葉県館山など、関東一円を運行しました。笹良橋への航路は両国から小名木川-江戸川-利根川-渡良瀬川で、全長122kmでした。

安蘇馬車鉄道
 明治20年に越名河岸の須藤又市家河岸と葛生間に木道馬車が敷設されましたが、その後、安蘇馬車鉄道により木道が鉄道に改められ越名駅が新設されて、明治23(1890)年1月25日に(旧)佐野町-越名河岸間が全通しました。この頃、馬車鉄道で越名馬門河岸まで荷を運び船に積み替えるという、馬車鉄道と水運(船運)の両立が試みられた時期もありました。

 まもなく明治26(1893)年4月13日に安蘇馬車鉄道が佐野鉄道に社名を変更し、この頃「馬車」から「汽車」へと移り変わりました。
 明治27(1894)年3月20日には、葛生-(旧)佐野町-越名河岸間の鉄道が全通となり、佐野町からは米、織物、鋳物などが運ばれ、葛生からは石灰や薪炭などが運ばれました。これにより越名馬門河岸は明治30(1897)年代まで隆盛をきわめました。

越名馬門河岸
 やがて明治45(1912)年3月30日に佐野鉄道は東武鉄道(株)に吸収合併され、館林に連結されて佐野線となりました。大正3年には館林-葛生間の直通運転が開始され、越名への鉄道は輸送量が激減し大正4(1915)年7月5日に佐野町-越名河岸間の旅客運送が休止されました。

明治中期の越名河岸問屋と小廻船の鑑札
 その1年半後の大正6(1915)年2月16日には佐野町-越名河岸間の鉄道廃止許可がおり廃線となりました。
 これが大きな要因となって貨物も客も奪われ交通の重要性を失った越名馬門河岸は、次第にさびれて大正10(1921)年頃には完全にその姿を消してしまいました。

 しかし、この越名馬門河岸が、葛生の石灰業はもちろん、天明鋳物や佐野綿縮など、佐野地方の産業を振興させる原動力となったのは確かであり、また陽明学者中根東里や陶芸家尾形乾山(佐野乾山)を始め、多くの文人墨客が江戸文化を佐野に伝え、この地方の文化の発展に寄与したこともまた事実です。
越名河岸と馬門河岸
 越名河岸は明暦年間(1655-1658)に完成し、船代官は井伊家の須藤氏でした。元禄3(1690)年の「道法并運賃書付」によれば、廻米積出し河岸としてみえ、江戸まで35里(1里=3.927km換算で約137km)、米100石についての運賃3石となっていました。
 当時、河岸の問屋は茂呂甚左衛門・山田四朗右衛門・須藤又市・須藤五郎左衛門の4軒でしたが、18世紀にはいり須藤半兵衛が加わり5軒となりました。
 積荷は田沼・葛生地方からの米・木材・石灰・織物・むしろなどでした。
 馬門河岸も越名河岸と同じ明暦年間といわれ、積荷なども越名河岸とほぼ同じでした。