佐野の越名舟歌全国大会 〔開催場所=地図〕 越名舟唄(こいなふなうた)は、江戸から明治期にかけ佐野の越名馬門河岸と江戸を結んでいた高瀬舟の船頭が、舟をこぎながら口ずさんでいたとされる民謡です。全国にPRする地域おこしの一環として平成10(1998)年より佐野市文化会館を会場に大会が始まりました。
越名河岸・馬門河岸の盛衰 〔所在地図〕 「越名舟唄」は民謡としてどのような発展をしたのか、「越名」という地名がなぜ唄の名前に冠されたのか興味が湧いてきました。少し調べてみると今では姿形が全く残されてない「越名馬門河岸」の存在にたどり着きました。大きな川の無い当地に水運が発展していたと知り驚きです。
江戸から明治の一時期佐野の物流の一翼を担って産業の発展に大きく貢献してきた「越名馬門河岸」が、どのように隆盛し衰退したのか調べてみることにしました。 越名馬門河岸の盛衰記
まもなく明治26(1893)年4月13日に安蘇馬車鉄道が佐野鉄道に社名を変更し、この頃「馬車」から「汽車」へと移り変わりました。 明治27(1894)年3月20日には、葛生-(旧)佐野町-越名河岸間の鉄道が全通となり、佐野町からは米、織物、鋳物などが運ばれ、葛生からは石灰や薪炭などが運ばれました。これにより越名馬門河岸は明治30(1897)年代まで隆盛をきわめました。
これが大きな要因となって貨物も客も奪われ交通の重要性を失った越名馬門河岸は、次第にさびれて大正10(1921)年頃には完全にその姿を消してしまいました。 しかし、この越名馬門河岸が、葛生の石灰業はもちろん、天明鋳物や佐野綿縮など、佐野地方の産業を振興させる原動力となったのは確かであり、また陽明学者中根東里や陶芸家尾形乾山(佐野乾山)を始め、多くの文人墨客が江戸文化を佐野に伝え、この地方の文化の発展に寄与したこともまた事実です。 越名河岸と馬門河岸
越名河岸は明暦年間(1655-1658)に完成し、船代官は井伊家の須藤氏でした。元禄3(1690)年の「道法并運賃書付」によれば、廻米積出し河岸としてみえ、江戸まで35里(1里=3.927km換算で約137km)、米100石についての運賃3石となっていました。当時、河岸の問屋は茂呂甚左衛門・山田四朗右衛門・須藤又市・須藤五郎左衛門の4軒でしたが、18世紀にはいり須藤半兵衛が加わり5軒となりました。 積荷は田沼・葛生地方からの米・木材・石灰・織物・むしろなどでした。 馬門河岸も越名河岸と同じ明暦年間といわれ、積荷なども越名河岸とほぼ同じでした。 |