春の南九州ハイライト(3日間)

 平成26年4月29日(火)〜平成26年5月1日(木)の間、2泊3日で南九州を観光した。九州へ行ってみたいと思いツアーを物色していたところ、阪急旅行社(トラピックス)で格安のツアーを企画していたので、すかさず申し込んだ。 (*^-゚)vィェィ♪
1日目 阿蘇草千里高千穂峡青島温泉
2日目 青島神社鬼の洗濯岩鵜戸神宮飫肥生駒高原指宿温泉
3日目 長崎鼻池田湖知覧特攻平和会館仙巌園霧島神宮
ツアー概要

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<1日目 2014(平成26)年4月29日(火)>
阿蘇草千里
 阿蘇草千里は、熊本県阿蘇山中の草原で阿蘇の代表的な景観であり、草千里ヶ浜,千里ヶ浜ともいう。烏帽子岳えぼしだけ杵島岳きじまだけの間の標高1,140mの地に広がり、直径約1kmの二重火口跡で低い火口壁に囲まれる。
 草千里には2つの池がある。この池は渇水の時期は水が枯れるが、雨が降った後や梅雨時には水が溜まり、しばらくの間は池の形をとどめる。また、この池は冬になると天然のアイススケート場となり、スケート愛好者を楽しませている。 また、ここには広い有料の駐車場や火山博物館、レストラン、みやげ物店などがあり、阿蘇火口観光の基地となっている。観光バスもここで1時間程度の休憩をとるのが定番となっている。
観光客は草原をぐるりと回る引き馬に乗ったり、草原に寝そべったり、のんびりすごしている。ただ、この周辺は牛や馬の放牧が行われているのでウンチにはくれぐれも注意が必要である。

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高千穂峡
 阿蘇カルデラをつくった火山活動によって、約12万年前と約9万年前の2回に噴出した高温の軽石流(火砕流の一種)が、当時の五ヶ瀬川ごかせかわの峡谷沿いに厚く流れくだった。この火砕流堆積物が冷却固結し熔結凝灰岩ようけつぎょうかいがんとなり、柱状節理ちゅうじょうせつりが生じた。熔結凝灰岩は磨食ましょくを受けやすいため、五ヶ瀬川の侵食によって再びV字峡谷となったものが高千穂峡である。高さ80m〜100mにも達する断崖が7kmにわたり続いており、これを総称して五ヶ瀬川峡谷きょうこく(高千穂峡)と呼ぶ。
 1934(昭和9)年11月20日に名勝、天然記念物に指定された(「五箇瀬川峡谷ごかせがわきょうこく(高千穂峡谷)」)。1965(昭和40)年3月25日には祖母傾そぼかたむき国定公園に指定された。
 峡谷は貸しボートで遊覧でき、峡谷に流れ落ちる日本の滝百選の一つである「真名井の滝」の至近まで近づくことができる。ただし、ボートは1艘3人乗りで30分2,000円とやや高め。
真名井まないの滝: 高千穂峡の川幅が狭まった部分に流れ落ちる滝である。日本の滝百選の一つ。
 峡谷の崖上は自然公園となっており、その中にある「おのころ池」より流れ落ちる水が真名井の滝となっている。
 神話によれば天村雲命あめのむらくものみことという神が天孫降臨てんそんこうりんの際に、この地に水がなかったので水種みずたねを移した。これが天真名井あまのまないとして湧水し、滝となって流れ落ちているといわれている。夏季は午後10時まで滝周辺がライトアップされ幻想的な雰囲気を出している。
 周辺には、七ツヶ池と呼ばれる甌穴おうけつ槍飛橋やりとびばし、高千穂峡淡水魚水族館、玉垂たまたれの滝などがある。夏にはそうめん流しが楽しめる。
天孫降臨てんそんこうりん伝説(神話): 天上界を治めていた天照大御神あまてらすおおみかみは地上の国治が乱れている事を知り、孫にあたる迩迩芸命ににぎのみことを地上にお降ろしになる(天孫降臨)迩迩芸命ににぎのみこと は多くの神々を従え地上の日向ひゅうが、くしふるの峰へ降り立つが、そこは深く雲がたちこめ、昼とも夜ともわかないほど暗く、道も見えないありさまでした。
 そこへ2人の里人が現れ、「御手で千の稲穂を抜いてモミにし、四方に投げ散らせば、きっとやみが晴れるでしょう。」と申し上げた。
 迩迩芸命ににぎのみことがそのようにモミを撒き散らすとたちまち辺りの闇は解け、晴れ渡ったという。
 やがてこの地は、迩迩芸命ににぎのみことの言い伝えにより「智穂ちほ(千穂)」となずけられ、そして高千穂たかちほと呼ばれるようになったという。

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青島温泉(1泊目=宿泊地)
 青島温泉あおしまおんせんは、宮崎県宮崎市青島地区で湧出ゆうしゅつしている温泉で、豊富な湯量を誇っている。温泉街は青島を中心に日向灘ひゅうがなだ沿いに広がり、かつては新婚旅行のメッカとして賑わった時期もある。現在でも名勝・青島や秋季・春季のスポーツキャンプ(主に読売ジャイアンツ)などで多くの観光客が訪れる。
  JR九州日南線・青島駅周辺に宿泊施設・観光ホテルがあり、それらの施設ごとに温泉設備が整っている。温泉施設から見える日向灘ひゅうがなだの大海原や鬼の洗濯岩の景観は絶景である。
温泉データ:泉質:炭酸水素塩泉など・源泉数:5・泉温:25℃ ・効能:神経痛、筋肉痛、関節痛、慢性婦人病、五十肩、打ち身、慢性消化器病、痔疾、冷え性、疲労回復、高血圧、動脈硬化症、切り傷、慢性皮ふ病、糖尿病、美肌など
周辺:日南海岸から太平洋へ向かって突き出た小さな島「青島」(鬼の洗濯岩)。南九州でもとりわけ南国らしい雰囲気をもっている。島の周囲は1.5kmほどで、約4,000本もの天然記念物のビロウ樹など、多くの亜熱帯植物が自生している。ほかに「青島リゾートこどものくに」「白浜海水浴場」「青島中学校」などがある。

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<2日目 2014(平成26)年4月30日(水)>
青島神社
 青島神社あおしまじんじゃは、宮崎県宮崎市青島にあり、青島のほぼ中央に鎮座する神社で、周囲1.5kmの青島全島を境内地とする。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社。青島は全島が熱帯・亜熱帯植物の群生地として、国の特別天然記念物に指定されている。
祭神: 天津日高彦火火出見命あまつひだかひこほほでみのみこと彦火火出見命ひこほほでみのみこととも)とその妃豊玉姫命とよたまひめのみこと塩筒大神しおづつのおおかみを祀る。
 いずれも山幸海幸やまのさちうみのさち神話にちなむ神で、縁結び、安産、航海安全の神として信仰を集めている。
由緒: 元来は海洋に対する信仰によって創祀されたと考えられ、古くから青島自体が霊域としてあがめられており、そこから後述するように江戸時代まで全島が禁足地きんそくちとされていた。
 社伝によれば、山幸海幸神話で、彦火火出見命ひこほほでみのみこと海神宮わたつみのみやから帰還した際に青島に上陸して宮を営んだため、その宮跡に命と上記2柱の神をまつったのに始まると伝えるが、1662(寛文2)年の大地震で旧記の古文書類を失った為に創祀の古伝をつまびらかにしえないという。
 神社の旧記によれば、平安時代の日向国の国司の巡視記とされる『日向土産』なる書に「嵯峨さが天皇の御宇ぎょう奉崇あがめまつる青島大明神」と記され当時すでに崇敬すうけいされていたと伝え、その後1503(文亀3)年に伊東尹祐いとうただすけによって再興されて以降、伊東氏の篤い崇敬を受け、1523(大永3)年、1578(天正6)年、1687(貞享4)年、1742(寛保2)年、1767(明和4)年、1808(文化5)年と6度にわたる社殿の造営・改修や、境内の保全事業が行われた。また、飫肥藩おびはん時代は藩士の中で土器格かわらけかくの者1人を島奉行に任じ、島内の樹林や磯辺を監守させたほか、牛馬を渡島させたり発砲を禁じたりと一切の汚穢おわいを警戒させていた。1737(元文2)年まで入島は神職と島奉行のみに限られ、村民は対岸の尖浜(現青島海水浴場)に拝所を設けて遙拝していたが、当時の神主であった長友肥後が藩主に禁足地きんそくちの解禁を申請し、以来一般人の渡島参詣が可能になった。
 1871(明治4)年「村社」に列し、戦後の1948(昭和23)年に神社本庁の「別表神社」に指定された。

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鬼の洗濯岩
 青島は、宮崎県宮崎市の南東部海岸付近にある周囲860m、面積約4.4ha、高さ約6mの島で、陸繋島りくけいとうになりつつある。
 対岸は青島海岸と呼ばれ、青島海水浴場などを含む一大観光地になっている。青島と青島海岸とは弥生橋によって結ばれている。
 砂岩と泥岩が交互に重なった地層(油津あぶらつ層群)からなる山が沈降して海に浸かり、波に侵食された後にわずかに隆起することで「隆起波食台りゅうきはしょくだい」と呼ばれる地形が形成された。規則的に重なった地層が緩やかな傾斜をなしているため階段状に侵食されており、巨大な洗濯板のように見えることから「鬼の洗濯板(岩)」と呼ばれる。宮崎県南部海岸には南西から北東に向かって黒潮が、同北部海岸には北から南へ沿岸流が流れており、これらの潮流によって貝殻の破片などが集められ隆起波食台上に堆積することで青島が形成された。珍しい地形であることから「青島の隆起海床りゅうきかいしょう奇形波蝕痕きけいはしょくこん」として日本国の天然記念物に指定されている。
自然: 島では200種類以上の植物が確認されており、そのうち熱帯性及び亜熱帯性の植物が27種あり、北半球最北の亜熱帯植物群落である。中でもビロウの大群落は貴重であることから「青島亜熱帯性植物群落」として日本国の特別天然記念物に指定されている。本来ならば寒さにより枯死する高経度の場所にこのような熱帯性及び亜熱帯性植物の植物群が存在する理由として、学者により二つの説が提起されている。一つは「海着帰化植物説」といい、島の沖を流れる黒潮によりフィリピンや沖縄方面から南方系の植物の種子や生木が漂着し繁茂したという説。もう一つは「遺存いぞん説」といい、第三紀前に日本で繁栄した高温に適する植物が気候、風土、環境に恵まれたこの場所に取り残され、今日まで繁栄したという説。現在では後者の遺存説が有力視されている。
歴史: 島の中に青島神社があり、神聖な場所であるため祭日以外に一般人が立ち入ることは禁じられていたが、1737(元文2)年以降、弥生(旧暦の3月)後半の一時期に限り一般人の参詣が許されるようになり、明治以降は年間を通して立ち入りできるようになった。昭和に入ると周辺の青島海岸に遊園地や海水浴場が整備され、ホテルが建ち並ぶ観光地になった。2003(平成15)年において年間約70万人の観光客が訪れている。

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鵜戸神宮
 鵜戸神宮うどじんぐうは、宮崎県日南市にある神社である。旧社格は「官幣大社」で、現在は神社本庁の「別表神社」に指定されている。
 日向灘に面した断崖の中腹、東西38m、南北29m、高さ8.5mの岩窟(海食洞)内に本殿が鎮座し、参拝するには崖にそって作られた石段を降りる必要があり、神社としては珍しい「下り宮」のかたちとなっている。
社名: 「ウド」は、うつうろに通じる呼称で、内部が空洞になった場所を意味し、祭神名が鵜を意味するのにちなんで、「鵜戸」の字を充てている。古くは「鵜戸権現」とも称されたが、1868(慶応4)年に明治新政府により出された神仏分離令(正式には神仏判然令)によって権現号を廃し、翌年「鵜戸神社」と改称、同7年に神宮号が宣下されて現社名となった。
祭神: 日子波限建鵜草葺不合命ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと大日?貴おおひるめのむち(天照大御神)・天忍穂耳尊あめのおしほみみのみこと彦火瓊々杵尊ひこほのににぎのみこと彦火々出見尊ひこほほでみのみこと神日本磐余彦尊かむやまといわれひこのみこと(神武天皇)
 日子波限建鵜草葺不合命ひこなぎさたけうがやふきあえずのみことを主祭神とし、相殿に大日?貴おおひるめのむち以下の皇祖神と神武天皇を祀る。主祭神降誕の地とされ、縁結び・夫婦和合・子授け・安産などの信仰を集めている。また境内には主祭神の陵墓とされる古墳もある。
歴史: 創祀の年代は不詳であるが、古代以来の海洋信仰の聖地で、社伝によれば、本殿の鎮座する岩窟は豊玉姫とよたまひめが主祭神を産むための産屋うぶやを建てた場所で、その縁により崇神すじん天皇の御代に上記6柱の神を「六所権現」と称して創祀され、推古すいこ天皇の御代に岩窟内に社殿を創建して鵜戸神社と称したと伝える。また、782(延暦元)年、光喜坊快久こうきぼうかいきゅうという天台僧が桓武かんむ天皇の勅命をこうむって別当となり、神殿を再建するとともに、別当寺院を建立し、天皇より「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺うどさんだいごんげんあびらさんにんのうごこくじ」の勅号を賜わったとも伝える。
 平安時代以来、海中にそびえる奇岩怪礁きがんかいしょうとも相俟って、修験道の一大道場として「西の高野」とも呼ばれる両部神道の霊地として栄えた。中世以後、伊東氏や島津氏などの在地領主の崇敬を受け、1560(永禄3)年に伊東義祐によって社殿が再興され、1631(寛永8)年には飫肥おび藩主伊東祐実による造替つくりかえ、1641(寛永18)年にも同藩主伊東祐久すけひさによる修復が行われ、その後も1711(正徳元)年に造替が、1770(明和7)年に修復が行われた。
 1868(明治元)年の神仏判然令しんぶつはんぜんれいによって別当寺院の仁王護国寺を廃し、1874(明治7)年に「神宮号」が宣下されるとともに官幣小社に列し、1889年(明治22)年に社殿を改修、1895年(明治28)年に官幣大社に昇格し、戦後は神社本庁の別表神社となっている。1965年(昭和40)年、NHKの朝の連続テレビ小説『たまゆら』の舞台に宮崎が選ばれたことも手伝って、昭和40年代には新婚旅行のメッカとなった。1968年(昭和43)年に本殿及び末社を修復したが、翌々1970年(昭和45)年、文政年間(1818〜30年)に建てられた茅葺かやぶき書院造しょいんづくりの社務所を原因不明の火災により焼失し、それとともに古文書類の大半を失った。1997年(平成9)年に屋根の吹替えとうるしの塗り替えを施したのが現在の社殿である。
祀官: 前述の通り、古来から仁王護国寺が別当寺院として管掌して来た。社伝によれば、初代別当職は光喜坊快久がつとめ、第8世以後3代の別当職を仁和寺門跡が兼ねたという。すなわち、当初は天台宗であり、後に真言宗に、そこから更に新義しんぎ真言宗に改まったようである。別当は智積院ちしゃくいんで学び、仁和寺にんなじで任官する習わしで、明治維新までは仁王護国寺を仁和寺が所管し、18の寺坊が神門に至る八丁坂参道の両脇に並んでいたが、明治の神仏分離で、第59世の観空法院を最後に廃され、寺坊もことごとく棄却ききゃくされた。
社殿: 本殿・幣殿へいでん・拝殿が1体となった権現造ごんげんづくり(八棟造)こけら葺で、極彩色を施す。拝殿には千鳥破風ちどりはふ唐破風からはふを飾る。正徳元年に飫肥おび藩主伊東祐実すけざねが改築したものを、1889年(明治22)年に大改修し、その後1968年(昭和43)年、1996年(平成8)年にも改修が行われた。幾度の改修を経たとはいえ、その様式は往時のままであり、文化的価値が高いことから、1995年(平成7)年に県の有形文化財に指定された。その他、玉橋・千鳥橋・楼門・神門などがある。
神事: 仁王護国寺の下、江戸時代までは修験道式の修法が行われたが、明治以降神道式に改まった。ミスシャンシャン馬(宮崎神宮大祭、2008年)
シャンシャン馬道中(3月末の日曜日)
 当地の古俗こぞくとして、新婚夫婦は神に報告するためにシャンシャン馬という鈴を付け鞍に赤い毛布を敷いた馬に花嫁を乗せて参詣する習わしがあり、花婿は手綱たづなを取って青島から七浦七峠という難所含みの日南海岸道中を往復した。元禄年間(1688〜1704年)に始められたものというが、「シャンシャン馬道中唄」という民謡の題材ともなっている。
 しかし、明治の中頃からすたれ、現在はこの行事と宮崎神宮大祭に催し物として行われるもののみが、その名残りとなっている。
境内社: 本殿周りに以下の3社がある。
・皇子神社 - 本殿左側に鎮座し、彦五瀬命ひこいつせのみことを祀る。もと吹毛井ふけい船形山ふながたやまに鎮座し、明治維新ののち現在地に遷座したという。なお、1977年(昭和52)年に旧社地にも分霊、復祀している。 ・住吉神社・火産霊神社・福智神社 - 3社が1宇に鎮座。祭神は底筒男神・中筒男神・上筒男神(住吉社)、火産霊神(火産霊社)、仁徳天皇(福智社)・九柱神社 - 神直毘神・大直毘神・伊豆能売神・底筒男神・中筒男神・上筒男神・底津綿積神・中津綿積神・上津綿積神を祀る。
 そのほか洞窟外に、門守社(楼門左右。左に櫛磐窓神、右に豊磐窓神を祀る)、鵜戸稲荷神社、波切神社(波切不動)が鎮座している。
天然記念物(国指定): 鵜戸ヘゴ自生北限地帯 ・当宮の社叢は亜熱帯性の樹種が豊富な自然林であるが、中でも本殿裏の窪地にあるヘゴの群落は、2mもある葉が八方に広がり、中には高さ4mに達するものもある。天然記念物「ヘゴ自生北限地帯」は八丈島(東京都)、長崎県、熊本県、宮崎県の1都3県にわたって指定されているが、当宮の社叢しゃそうは昭和43年に天然記念物に追加指定されたものである。1976(昭和51)年に寒波の打撃を受け、現在は1m未満の小型のものが30本ほど自生しているにすぎない。
神話: 鵜戸神宮は日本神話に語られる山幸彦やまさちひこ海幸彦うみさちひこの伝説の舞台となった場所として知られる。邇邇藝命ににぎのみこと木花之佐久耶毘売このはなのさくやびめとの子である海幸彦(火照命ほでりのみこと)と山幸彦(火遠理命ほおりのみこと)、またの名を天津日高日子穂穂手見命あまつひこひこほほでみのみことは、それぞれ漁と狩りを生業として暮らしていたが、ある時、山幸彦の申し出によって互いの道具を交換して仕事にでる。慣れぬ仕事で成果はあがらず、さらに山幸彦は兄の大事な釣り針をなくしてしまう。
 途方に暮れる山幸彦は塩椎神しおつちのかみの助言に従って綿津見神わたつみのかみの海宮(龍宮)へ行き、そこで綿津見神の娘である豊玉姫とよたまひめを妻とする。やがて山幸彦は釣り針を見つけて海宮から陸にもどった後、身重になった豊玉姫は、「天孫の御子を海原で生むことは出来ない」とこの鵜戸の地に参られた。豊玉姫の出産のための産屋が、鵜戸神宮本殿の建つほらに用意されたのだという。鵜の羽を用いた立派な産屋のはずであったが、完成が出産に間に合わず、そのことから生まれた子には鵜葺屋葺不合命うがやふきあえずのみことと名付けられた。鵜戸神宮はこの鵜葺屋葺不合命をまつっている。
 豊玉姫は「出産の時には本来の姿に戻らなくてはならず、その醜い姿を見られたくないから出産の際は産屋の中をのぞかぬように」と山幸彦に懇願したが、心配する山幸彦は中を覗いてしまい、ワニの姿に戻って出産する姫の姿を見てしまう。それを悲しんだ豊玉姫は海宮(龍宮)へ戻ってしまう。もどる際、姫は子のために乳房を置いていったと伝えられる。山幸彦ひとりで子を育てるのは大変だろうと、豊玉姫は妹の玉依姫たまよりびめを乳母として地上に送る。やがて成長した鵜葺屋葺不合命は玉依姫を妻とする。ふたりの間に生まれた子の中に、後の神武じんむ天皇がいる。

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飫肥
 飫肥おびは宮崎県南部日南市中央部にある地区。もと那珂郡飫肥町で、飫肥城を中心とした飫肥藩5万7,000石の旧城下町である。
 江戸時代の武家屋敷町、町人町、寺町などの町並みが多く残され、市街地の八幡通り、横馬場通り、大手門通りなど7街路を含む19.8haが文化財保護法に基づき重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
「九州の小京都」とも称され、多くの観光客が訪れている。
歴史: 1587(天正15)年、豊臣秀吉により伊東祐兵すけたかがこの地に封ぜられるにおよんで、本格的に城下の整備がなされた。以後、廃藩置県まで一貫して14代にわたり伊東氏が藩主を務める。1950(昭和25)年、合併により日南市となる。1977(昭和52)年、国(文部大臣)により九州・沖縄地方で最初の「重要伝統的建造物群保存地区」として選定される(岡山県吹屋ふきやと共に、我が国で2番目に選定された2地区の1つ)。保存地区内には城下町時代の道路や地割じわりが良好に保存され、石垣、土塀、生垣で囲まれた武家屋敷跡が残る。地区内には飫肥城おびじょう跡のほか、最後の藩主伊東祐帰すけよりが住んだ邸宅である豫章館よしょうかん振徳堂しんとくどう(藩校)小村寿太郎こむらじゅたろう生家などがある。

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生駒高原
 生駒高原いこまこうげんは、霧島のなだらかな裾野に広がる中腹(標高550m)付近に位置し、南東にひなもり岳、南西に韓国岳からくにだけ甑岳こしきたけ、北西に小林などの西諸盆地その奥は九州山脈という雄大な場所にある。  自然のロケーションに加えて四季を彩る花、自然と人間の作った花畑が調和して抜群である。  春には35万本の菜の花、初夏には25万本のアイスランドポピーの花々が、秋には100万本の赤、白、ピンクなど色とりどりのコスモスが高原一面を染めつくす。生駒高原の花園は、長年に亘り培われた栽培技術が季節毎に咲く花々を一段と引き立て、管理の良さが光る。

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指宿温泉(2泊目=宿泊地)
 指宿温泉いぶすきおんせんは、鹿児島県指宿市東部(旧薩摩国)にある摺ヶ浜温泉すりがはまおんせん(砂蒸しで有名)、弥次ヶ湯温泉、二月田温泉にがつでんおんせんなどの温泉群の総称である。鹿児島県内有数の観光地であり、2003(平成15)年において年間285万人の観光客が訪れ、91万人の宿泊客を集めている。農業や養殖などへの温泉利用も盛んであり、温泉の9割が産業利用されていた時期もあった。また、1960年頃から始まったハネムーンブームの中、「東洋のハワイ」と呼ばれた指宿温泉は、そのメッカとして賑わった。
泉質: おおむねナトリウム・塩化物泉であるが地域や掘削深度によって塩分濃度や微量成分が異なる。活動泉源はおおむね500カ所。一日あたりの総湧出量は約12万トン。湧出温度は50〜60℃が多いが、100℃に達するものもある。温泉の水源は池田湖や鰻池うなぎいけに溜まった雨水と鹿児島湾からの海水が地下で混合したものであり、熱源は阿多あたカルデラに関連したマグマであると考えられている。
温泉街: 特に砂むしで有名な摺ヶ浜付近に大規模な宿泊施設が集中している。
摺ヶ浜温泉すりがはまおんせん 指宿駅南東の海岸沿いにある温泉。名称の由来は「砂場ヶ浜」が「スイガ浜」と呼ばれるようになり、やがて「摺ヶ浜すりがはま」に変わったとされる。長さ約1kmの砂浜に温泉で加熱された高温部があり、砂むしの名所として知られる。砂むしとは、浴衣を着て適度な温度になるように攪拌かくはんされた砂に埋まって温まる入浴方法である。一人で行うには困難が伴うので、通常はシャベルを持った係員に砂を盛ってもらう。頭部には、タオルを巻くなりして砂の付着を防ぐ。
歴史: 「指宿」の名称は「湯豊宿ゆぶしゅく」に由来すると言われているが別の説もある。江戸時代以前は高温の温泉や噴気口が点在する湿原であり危険な場所とされていたが、麻の加熱処理や炊事用、浴用として古くから利用されていた。江戸時代後期の地誌『三国名勝図会』にも多くの温泉が紹介されている。
 明治以前は自然に湧出する泉源を利用するのみであったが、地面を数メートル掘削することにより容易に温泉が得られることから広範囲にわたって開発が進められた。特に1919(大正8)年頃から1955(昭和30)年頃にかけて温泉熱を農業や製塩に利用するために地下から大量の湯がくみ上げられ、古くから使われている泉源の枯渇や温度低下などの問題が多発した。このため新たな温泉源の探索が行われ、1957(昭和32)年に地下200〜300mの新たな温泉地層が発見され利用されるようになった。1964(昭和39)年以降、温泉の製塩への利用は禁止されているが、農業や魚の養殖への利用は現在も行われている。
 高度経済成長以降、大規模なホテルが建設されるなど観光地としての開発が進み、日本国内および海外から多くの観光客が訪れるようになった。1982(昭和57)年から毎年1月の第2日曜日に指宿温泉マラソン(1984年からいぶすき菜の花マラソン)が開催されるようになり、毎年1万人以上の参加者を集めている。

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<3日目 2014(平成26)年5月1日(木)>
長崎鼻
 長崎鼻ながさきばなは、鹿児島県南部、薩摩半島の最南端にある岬である。鹿児島県指宿市いぶすきし(旧山川町)に位置する。指宿カルデラの外輪山の一角を成しており、一帯は火山岩にて形成されている。
概要: 「鼻」と付く地名は名の如く、岬の基部が末広がりになる三角形状の地形であることが多い。鼻と名の付く岬は全国の至る地方で見られ、特に九州で多いが、その中でも「長崎鼻」は特に有名な岬である。
 長崎鼻からすぐ西方には、海越しに端整な山容で知られる開聞岳かいもんだけがそびえ、妨げる障害物は何もないため、岬から眺める山容は非常に美しい。また、晴天時だと岬の展望台から遠く屋久島の宮之浦岳みやのうらだけ硫黄島いおうとうを遠望できる。このように非常に風光明媚な土地であることから古くより観光開発されており、岬の展望台から1〜2kmの沿線に土産物屋や飲食店がびっしりと建ち並び、長崎鼻パーキングガーデンという観光施設が設けられている。
 また、この長崎鼻一帯にも浦島太郎伝説が伝わっており、竜宮神社が鎮座する。
 岬および周辺の海岸線一帯が「霧島錦江湾きんこうわん国立公園」の一角を成している。また、近辺に国の特別天然記念物であるソテツ自生地がある。

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池田湖
 池田湖いけだこは、鹿児島県の薩摩半島南東部にある直径約3.5km、周囲約15km、ほぼ円形のカルデラ湖。九州最大の湖である。湖面の標高は66m、深さは233mで、最深部は海抜−167mとなる。湖底には、直径約800m・湖底からの高さ約150mの湖底火山がある。池田湖を含む窪地地形は池田カルデラと呼ばれている。池田湖は古くは開聞かいもんの御池または神の御池と呼ばれており龍神伝説がある。
地質学的側面: 約5,500年前、阿多あたカルデラに関連した火山活動があり、合計約5km3の軽石や火山灰を噴出した。噴出物の抜けた後に地面が落ち込むことによって池田カルデラが形成され、カルデラの底に雨水が溜まることによって池田湖が形成された。ほぼ同時期に山川湾、成川盆地、鰻池うなぎいけ、池底、松ヶ窪などの地形も形成されており、これらの噴火口群とともに池田山川としてランクCの活火山に指定されている。
 開聞岳かいもんだけの噴出と池田湖の陥没が連動して起きたという俗説があるが、地質学的観点では両者の活動時期に1,000年以上の差があり、池田カルデラの大きさに見合う火山噴出物(池田湖テフラ)が周辺の地層に残されていることなどから、直接的な因果関係はないとされている。
環境の変化: 1929(昭和4)年の観測では透明度26.8mと当時世界第7位であったが、その後、生活排水や工業廃水の流入などによって汚染が進み、1983(昭和58)年には赤潮あかしおが発生するに至った。このため「池田湖ブルー化計画」が策定され水質改善の活動が進められている。
 また、冬季の平均気温上昇によって、この季節に以前あった湖水の鉛直循環えんちょくじゅんかんが1980年代後半に停止してしまった。合わせて表層水の富栄養化傾向の影響も加わり、湖の底層水の酸素濃度の低下が進み、1990年代以降は、湖底における溶存酸素濃度ようぞんさんそのうどが0mg/lの状態が続いている。 このため、湖底では好気性生物が死滅した。水深233mの水底は硫化水素による黒っぽい泥が堆積たいせきしている。

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知覧特攻平和会館
 知覧特攻平和会館ちらんとっこうへいわかいかんは、鹿児島県南九州市知覧町郡にある太平洋戦争末期に編成された大日本帝国陸軍の特別攻撃隊に関する資料を展示する施設である。
展示内容: 写真、遺書などの遺品約4,500点、特攻隊員の遺影1,036柱などが展示されている。その展示されている遺影、遺品のほとんどは、「知覧特攻平和会館」初代館長 板津忠正いたつただまさ(元特攻隊員)が集めたものである。
戦闘機: 四式戦闘機「疾風」I型甲(実物)。世界で唯一原型を留めた良好な状態で現存する機体。フィリピンの戦いにおいて、アメリカ軍に鹵獲ろかくされた経歴を持つ第一線からの里帰り機。
・三式戦闘機「飛燕」II型改(実物)。世界で唯一原型を留めた良好な状態で現存する機体。元陸軍航空審査部所属機で、終戦直後にアメリカ軍に接収され日本航空協会に譲渡された機体。日本航空協会所有の貸与機。
・一式戦闘機「隼」III型甲 - 復元複製機。映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』の撮影に使用され、映画配給元の東映より知覧町へ譲渡された実寸大精巧レプリカ。
・零式艦上戦闘機五二型丙(実物)。損傷が激しく機体前部と主翼及び主脚のみ現存の状態。薩摩川内市の甑島こしきじま沖約500m、水深約35mに沈んでいたものを引き上げ修復したもの。
跡地: 太平洋戦争中に太刀洗たちあらい陸軍飛行学校知覧分校として設立。大戦末期に、知覧分校から「知覧特攻基地」に名称変更。 ここから多くの特攻隊員が出撃し、戦死している。
特攻平和観音: 特攻隊員の精神の顕彰と世界平和の祈念を目的に、1955(昭和30)年9月28日に建立、観音像が安置されている。毎年5月3日に知覧特攻基地戦没者慰霊祭が行われている。

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仙巌園
 仙巌園せんがんえんは鹿児島県鹿児島市吉野町字磯にある薩摩藩主島津氏の別邸跡とその庭園。別名磯庭園いそていえん。敷地面積は約5ha。
 1658(万治元)年に第19代当主島津光久しまづみつひさによって造園され、その後も歴代当主による改築が重ねられてきた。借景技法を用い、桜島を築山に、鹿児島湾を池に見立てた素晴らしい景色と広大な庭園が特徴で、1958(昭和33)年に国の名勝に指定された。
 幕末には第28代当主島津斉彬しまづなりあきらがこの敷地の一部を使ってヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を建設するなどの近代化事業(集成館事業)を起こした。1857(安政4)年には、園内の石灯籠にガス管をつないで点火させ灯火として用いたことから、日本のガス灯発祥の地の一つとして挙げられる場所になっている。
 1888(明治21)年からは焼失した鹿児島城に代わり島津忠義しまづただよし公爵一家の住まいとなっていたが、忠義の死後に跡を継いだ島津忠重しまづただしげは薩摩藩出身の新政府高官らによって東京市に移住させられ、仙巌園も住人不在となった。
 1949(昭和24)年、華族制度廃止に伴い鹿児島市の管理下に置かれたが、1957(昭和32)年には島津家に返還され、現在は島津興業が管理している。
  春の曲水の宴(上流から流される杯が自分の前を通り過ぎないうちに詩歌をよみ、杯を手に取って酒を飲んでから杯を次へ流すという遊び)や、江戸時代の作法にのっとって行われる端午たんごの節句、七夕の展示、初冬に行われる草鹿式くさじししきなどが有名である。

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霧島神宮
 霧島神宮きりしまじんぐうは鹿児島県霧島市霧島田口にある神社。旧社格は官幣大社。坂本龍馬が新婚旅行で霧島連峰を訪れたことで有名である。
祭神: 天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊あめにぎしくににぎしあまつひたかひこほのににぎのみこと木花開姫尊このはなさくひめのみこと彦火火出見尊ひこほほでみのみこと豊玉姫尊とよたまひめのみこと鵜?草葺不合尊うがやふきあえずのみこと玉依姫尊たまよりひめのみこと神倭磐余彦尊かむやまといわれひこのみこと(神武天皇)
 天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊あめにぎしくににぎしあまつひたかひこほのににぎのみことを主祭神とし、相殿に木花開姫尊以下の皇祖神と神武天皇を祀る。
歴史: 欽明きんめい天皇の時代(6世紀)慶胤けいいんなる僧侶に命じて高千穂峰と火常峰(御鉢)の間に社殿が造られたのが始まりとされる。実際のところは高千穂峰に対する山岳信仰から始まった神社であろう。
 しかし、火山のふもとにあるという立地のためたびたび炎上する。天暦てんりゃく年間には性空しょうくうにより瀬多尾越(現在の高千穂河原・古宮址)に遷されるが、ここもたびたび噴火の巻き添えで炎上する。1484(文明16)年、島津忠昌しまづただまさの命により兼慶かねよしが再建したのが現在の霧島神宮である。ただし、建物はそののち幾度も炎上し、現在の社殿は1715(正徳5)年、島津吉貴よしたかの奉納により再建したものである。
 歴代島津氏の尊崇篤く、島津義久よしひさは、1578(天正6)年、耳川みみかわの戦いに臨む途中に参拝してくじを引き、また九州北上にあたっても1585(天正14)年6月に日向国惣先達職の面高おもだか善哉坊と重臣山田有信ありのぶを、再び9月に吉田清存を、それぞれ遣わしてくじを引き侵攻方面を決めるなど、重要事の決定に際したびたび神慮しんりょを仰いでいる。
 また、坂本龍馬が日本最初といわれる新婚旅行で霧島連峰を訪れたことで知られている。その頃すでに山頂には天津日高彦あまつひだかひこ火瓊瓊杵尊ほのににぎが突き刺したという天の逆鉾さかほこがあった。
 明治期の神仏分離令が発令されるまでは西御在所霧島権現と称し、本地堂は十一面観音。別当寺に華林寺を有する。霧島山を中心とした修験僧による霧島六所権現信仰の中心的役割を果たしていた。
 また、神木の杉は樹齢約800年と推定され、南九州の杉の祖先ともいわれている。
境内: もともと霧島山一帯が霧島神宮の境内であったが、1871(明治4)年の廃藩置県の際に霧島山の頂上に沿って県境が引かれ、宮崎県内は神宮境内から外された。1882(明治15)年にはさらに7810ヘクタールが削減され、1946(昭和21)年の日本国憲法制定による宗教法人化で山林の大部分は日本国に譲渡された。その後、祭典行事に必要な789ヘクタールが神宮へ返還されている。

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ツアー概要
出発日2014(平成24)年4月29日(火)
集合時間7:45(時間厳守)
集合場所羽田空港 第2ターミナル
2階全日空3番カウンター
旅行社阪急交通社(トラピックス)

旅行代金@39,990×2名=79,980円
空港使用料 @580×2名= 1,160円
旅行保険料 @1,900×2名= 3,800円
合  計84,490円