ラージャ・ヨーガ瞑想
浄化と解放のメソッド
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ヨーガスートラの世界を自ら体験する為に
そしてそれを超えるために


火の呼吸やアーサナは、ほとんど使いません。
段階的にメディテーションやシャクティパッドを活用しながら
真の意味で、しかも最短距離で、ヨーガの完成を目指します。
ヨーガスートラの説くプラーナヤーマからサマディまでを5段階に分け
このクラスでは「調気〜制感」、レベル2では「凝念〜サマディ」をテーマとして
とても精密なカリキュラムを構築しています。

まさにヨーガの本質というか
ヨーガスートラの境地を体得するための「流派を超えたレクチュア」です。
つまり、「これこそヨーガ!」という核心に迫るメソッドなのです


サマディは遥か彼方にあるのではなく
いままさに手の届くところにあるのです


@ラージャ・ヨーガ〜浄化と解放のメソッド
Aレベル−2 (参加資格限定・少人数制)
Bレベル−3 (参加資格限定・原則マンツーマン)

健康でない方及び手術経験者等の方にはクラス編成上現在受講をご遠慮頂いています。
お申込みに際しては、必ず「諸注意上とお願い」をご覧の上、同ページの
「実践(&講座のお申込み)にあたっての諸注意」に同意された方のみお申込み下さい。

<追加事項〜服喪期間について>

2012年11月より、
顕教ヨーガの瞑想をレベルアップさせることに致しました。
それに伴いまして、下記の様に参加規定を
一部変更させて頂きたいと思います。

密教ヨーガについては構いませんが、顕教ヨーガについては
葬儀や法事などに参列された場合に、
服喪期間をお願いすることに致しました。
その期間は、参加できませんので、その旨ご了承ください。
大変恐縮ですが、よろしくお願いします。

ラージャ&ジニャーナ・ヨーガの場合
近親者(血族2親等)の葬儀の場合、服喪期間として50日間。
他の方の葬儀であれば、服喪期間として7日間。
法事と墓参の場合は、服喪期間として5日間。


中央区立総合スポーツセンター
(東京都中央区)
月島社会教育会館 (東京都中央区)
京橋プラザ(東京都中央区)
築地社会教育会館(東京都中央区)
東京スポーツ文化館(東京都江東区)
古石場文化センター(東京都江東区)
東大島文化センター(東京都江東区)
大阪府立体育会館(大阪市)

京都アスニー(京都市)
愛知県スポーツ会館(名古屋市)
日本ガイシ・スポーツプラザ (名古屋市)

ご希望の日程(必須)
(複数選択可)



★ラージャ・ヨーガ集中講座 7時間・・終了しました
東京
 2013年2月2日
 午前9時半から午後4時30分まで

 
東大島文化センター 第一和室・・敷物必要
  受講料 10,000円

ヨーガスートラの世界を自ら体験する為に
そしてそれを超えるために
瞑想の奥深さを体験してください!

ヨーガスートラは大変精密な技術書です。
佐保田博士、中村元博士の学問的な解釈を踏まえつつも
それを検証すると共に、全く独自の視点と手法で
技術面からヨーガスートラの謎を解き明かします。

これまで語られることのなかった深奥の扉を開けたいと思います。
ラージャ・ヨーガの真髄をぜひ体験され、ヨーガ本来の素晴らしさを
味わっていただければ幸いです。

ヨーガに壁や限界を感じておられる方、
これから真剣にヨーガに向かいたい方
ヨーガを指導する立場に居られる方、
サマディを得たいと真摯に望まれる方等、に最適な講座です。
これ以上ない!これに尽きる!
というレベルを目指しますのでご期待下さい。




★名古屋 2013年2月16日・・・終了しました
 午前10時から午後1時まで
 
日本ガイシ・スポーツプラザ 
第1・2和室・・敷物不要
 受講料 3000円


★ラージャ・ヨーガ集中講座 7時間・・終了しました
京都
 2010年10月16日
 午前10時から午後4時55分まで
 京都アスニー 3階 第五和室
・・敷物不要
 受講料 10,000円



Level-2について


下記の各講座を合計で24回受講された方は
レベル−2の審査を受けることが出来ます。
(過去の受講歴もカウントされます)

@瞑想の極意(2010年1月〜10月の講義)
A先賢の叡智と瞑想(2010年11月よりの講義)
Bラージャ・ヨーガ(浄化と解放のメソッド)
Cジニャーナ・ヨーガ(ウパニシャッド瞑想)
D禅定会(ディヤーナ)
以上は、それぞれ一回ずつカウントします。


以下は、それぞれ4回分のカウントをします。
E2010年と2011年の
B〜Dの集中講座
FYogini主催の古代史リトリート(大和・伊勢、諏訪)
G渾身のクンダリーニ・ヨーガ・セミナー
Hチャクラ集中研修(2011/6/25-26)



送信後5日経っても返信が届かない場合はこちらへメール下さい。

当方より受講受付の確認メールをお送りしますので
それを以って受け付け完了とさせて頂きます。
確認メールの届かない方は受講できませんのでその旨ご了承下さい。


瞑想の階梯


浄化と解放のメソッド・・・ヨーガの原点ともいえる熱エネルギーの発現と制御を練習します。
               ラージャ・ヨーガ系の技法によりチャクラの活性化を図ります。 

LEVEL-2・・・制感から凝念への特殊な技法によりチャクラの制御を練習します。
         凝念から静慮への特殊な技法を練習します。 
         静慮からサマディへの特殊な技法を練習します。

LEVEL-3・・・ヨーガを超えるウパニシャッドのサマディを会得します。

 浄化と解放のメソッドでは、表層意識から潜在意識へかけての浄化を試みます。
   プラーナヤーマ、バンドゥ、マントラ(1種類のみ)、ムドラーそして止観系の技法を活用します。

 LEVEL-2では、潜在意識の浄化を試みます。
   ムドラーと止観系の技法だけとなります。ヨーガのサマディの真実を体得されてください。

 LEVEL−3では、深層意識の浄化そして真我の独存と解放を目指します。
   ここではムドラーや止観すら不要となります。
   ただ、私に一対一で対峙し、無為に在るだけ。
   そこで何が起こるか、サマディの究極を会得されてください。


(注・・レベル−3はレベル−2を卒業した方だけのクラスとなります。試験有り)

  アーサナ プラーナヤーマ バンドゥ マントラ ムドラー 止観系技法
  調気法 体内操作   手印 瞑想
浄化と解放のメソッド (注@) (注B)
レベル2 (注@) なし なし
レベル3 (注@) なし なし なし なし なし

注@・・半跏趺座、正座、仰臥(サヴァアーサナ)、スパインフレックス、スイングのみ使用

自宅での日常的練習が必要なのは浄化と解放のメソッドまで。


★浄化と解放のメソッドについて★

ヨーガスートラの時代には、アーサナとは安定を得るためのものであり
現代に伝わるような技法はほとんど行なわれていませんでした。

「坐り方は、安定した、快適なものでなければならない」(ヨーガスートラ2-46)
「そのような坐り方は、緊張をゆるめ、こころを無辺なものへと
合一させることによって得られる」(2-47)
「その時、行者はもはや寒熱、苦楽、毀誉、褒貶の相対的状況によって
悩まされることはない。」(2-48)

ヨーガスートラに於いて
8部門の説明をする段での「坐法(アーサナ)」に関する記述はこれだけです。
アーサナ(体位)に拘るハタ・ヨーガ・プラディーピガーとは対照的です。

それはつまりヨーガスートラの時代
あのような体位群が特に必要とされていなかったことを示唆しています。

ですから佐保田博士も翻訳に際して、同じアーサナという語に
ヨーガスートラでは坐法、ハタ・ヨーガ・プラディーピガーでは体位と
別の訳語を充てられたのだと思います。

ヨーガスートラの流儀に於いては、いくつかの坐法はあっても
それらは積極的にチャクラやクンダリーニに対して
その活性化を促すものではありませんでした。

佐保田博士の分類によれば、顕教ヨーガということですが
肉体的鍛錬ではなく、メディテーション中心の穏やかな方法であったことは
様々な文献などからも容易に推測できるところです。

今日ヨーガというと、肉体的鍛錬である程度の成果をあげてから
メディテーションへと進むように考えられていますが
これは多分にハタ・ヨーガ・プラディーピガーの記述による所が大きいと思います。

「ハタ・ヨーガは、高遠なラージャ・ヨーガに登らんとするものにとって
素晴らしい階段に相当する。」(1-1)

しかしながらハタ・ヨーガ・プラディーピガーの書かれた時代は
ヨーガスートラ(紀元5世紀頃)から遥かに後世(16−17世紀)になります。

もしもハタ・ヨーガにおけるアーサナ等の技術が
ヨーガ完成に必要不可欠なものだとするならば
1000年以上もの間、ヨーガを完成することは不可能だったことになります。

実際には、ヨーガスートラ自体
それ以前のサンキャ・ヨーガ派の600−700年間にわたる功績の
集大成なのですから、隔たりとしては都合1600年以上になるわけです。

ハタ・ヨーガの開発者として知られるゴーラクシャ・ナータにしても
13世紀の人ですから、そこには1200年を超える空白期間があります。

ということは、このような密教ヨーガの厳しい肉体的鍛錬がなくとも
長年にわたって、ヨーガは本来の目的を果たしていたと
考えるべきではないでしょうか。

だとすれば
あのような肉体的鍛錬なくして、いかにしてサマディに至ることができたのか?
そして、なぜハタ・ヨーガのような密教系ヨーガが求められたのか?

この二つの疑問について何らかの答えを出さなくてはなりません。


******************

私は、サッド・グルの存在が
後世のアーサナ等の肉体的鍛錬に期待された要素を充分に満たしていたと考えています。

よって当時は、あのような練習に時間を費やすことなく
すぐにプラーナヤーマに進めたのでしょう。

つまり顕教ヨーガは、
サッド・グルによって生命を吹き込まれるものなのです。

しかしサッド・グルがいつも近くにいるとは限りません。
むしろいない方の確率が遥かに高いでしょう。
その場合、何かがサッド・グルの代わりを務めなくてはなりません。

そこで、誰もがある程度の効果を得られる技術
つまり密教ヨーガが開発されたと考えられます。

いわゆる密教(タントラ)が5〜6世紀に最終段階に入りながら
密教ヨーガの技法が14世紀頃に出現してくるというタイムラグも
その傍証として考えて良いでしょう。

ハタ・ヨーガ、マントラ・ヨーガ、ラーヤ・ヨーガ、クンダリーニ・ヨーガなどは
密教ヨーガの代表的流派として、まさにその目的を果たす為の技術ですが
これらの成就にはグルの指導が不可欠だといわれています。

私はサッド・グルとグルの違いを次のように定義しています。

サッド・グルは、その存在それ自体を以って、真摯な修行者を真理へと導く。

グルは、様々な技術の指導を通して、熱心な修行者に真理への道程を指し示す。

つまり
ラーマナ・マハーリシやクリシュナムルティのようなサッド・グルには
アーサナ等は無用の長物なのです。

なぜなら、彼らの一瞥を受けるだけで
修行者の心身に大きな変化が起こるからです。

それは彼らが到達した境涯の高さを暗示するものですが
同時に「顕教ヨーガとは何か?」を現しています。

対して、段階的にアーサナなどの技術を指導することで弟子たちを導くのが
グルの役目ですので、サッド・グルとは質的に大きな隔たりがあります。

20世紀を代表する聖者の一人、ラーマナ・マハーリシ師の見解は次の通りです。
(以下引用はすべて「あるがままに」ナチュラルスピリット刊)

「アーサナは安定した坐りをつくるためにある。
真我以外のどこに、どのように、揺るぎなく住まうことができるというのだろうか?
これこそが真のアーサナである。」(P263)

彼は、
「ハタ・ヨーガをしないかぎり心を静めることができない者たちにとって、
それは役に立つといえよう。」(P263)として、
ハタ・ヨーガが必須であるという考え方を否定しています。

ですから、彼の説くアーサナとは単なる身体の使い方ではなく、
遥かに深い意味を持った「境涯」を意味しています。

「全世界がその上に揺るぎなくおさまっている土台(アーサナ)、それが真我である。
それは真の知識の空間、輝かしい基盤。
この知識から逸脱することのない安定を達成すること、
それが優れたサマーディのためのアーサナである。」(P263)

******************

密教ヨーガは、確かに数多くの技術を提供しています。
その意味では、大変有意義なものであり、素晴らしいというべきでしょう。

ですが、ハタ・ヨーガ・プラディーピガーが言明しているように、
本来ラージャ・ヨーガへの準備段階でありながら、
現実には、それを達成するのに数十年を要するような状況になっています。

でもそれでは、ヨーガの本命とも言われる凝念以降の修行に、
人生の晩年のごく僅かな時間しか充てられません。
なにか本末転倒しているような印象を受けるのは私だけでしょうか。

サッド・グルは、個々の状態に応じて臨機応変に多様なアプローチを採ることができます。
そのサッド・グルの役割を技術によって代用しようとするならば、
相当多くのメニューが必要とされるでしょう。

数百年にわたって偉大な先人たちは、ありとあらゆる角度から、開発と検証を繰り返しながら、
その不可能とも思える試みに挑戦してきました。
そしてその答えが今日に伝わる密教ヨーガの技術体系だといってよいでしょう。

しかしながら、その先人たちの努力は新たな問題を引き起こしました。
それは本来手段としてあるべきものが目的と化してしまったことで、人々に誤解を与え、
彼らを迷路に誘ってしまったのです。
この思い込みは、実に長い年月にわたっているため、解除するのは容易ではありません。

そこであえて困難を承知の上で、私はこの一連の流れのスタートライン、
つまり顕教ヨーガに立ち還り、
ヨーガスートラに直接向かい合うことに致しました。

浄化と解放のメソッドは、まさに私の得た結論に基づくこの問題への解答なのです。

「瞑想を行うために意識的にある態度、姿勢をとれば
それは精神の慰みもの、玩具になってしまう。(中略)

光明の瞬間には意識はしぼみ去っている。
それゆえ光明を経験しようとする意識的努力も、光明についての記憶も
過去の出来事についての言葉を残すだけであり
しかも言葉は決して事実起こったことと同一ではない。

時間を超越した啓示の瞬間には、窮極なるものは直接現れる。
しかし窮極なるものはいかなる表象(シンボル)も持たず
人格でも神格でもない。」
(「クリシュナムルティの瞑想録」P78 J・クリシュナムルティ著 平河出版)

******************

クンダリーニJPでは
浄化と解放のメソッドを「Rebirth Program」と名付けています。

ラーマナ・マハーリシではありませんが
「私は誰か?」との問いに答えを得られた時
私たちは、禅で言う「見性」つまり本性を見ることになります。

その時が真の誕生だと考えるならば
Rebirth<再誕>という言葉は、的外れではないと思います。

「意識下のネガティブな要素を浄化し、真の自由を得るために自らを解放する。
アーサナなどに頼らず、ヨーガの原点に立ち還り究極のサマディを体得する。」

それこそがこの浄化と解放のメソッドの目的なのです。

このプログラムの特徴は次の通りです。

1.さまざまなアーサナやマントラ等はほとんど用いません。
汗を流しながら肉体的鍛錬をしている内は、サマディには手が届きません。
そこで緻密で高度なメディテーションを駆使すると共に
レベル2からは適切なシャクティパッドを併用します。

2.信仰や戒律等の宗教的要素などサマディ実現にとって不要なものをすべて排除し
必要最低限のエッセンスだけを練習します。

3浄化と解放のメソッドでは自宅で日常的な練習(5〜10分程度)を行ないますが
レベル2からは、それすらも無くなります。
なぜならレベル2以降は「場」が重要な意味を持つようになるからです。
ですからこちらで用意した「場」でなければ、練習それ自体が成り立たないのです。

4.浄化と解放のメソッドまでは、ひとクラスの定員はある程度多くても構いませんが
レベル2以降は少人数限定で行ないます。
それは一人ひとりに対して個別にケアをしてゆかなければならないからです。
そしてレベル3では、マントゥーマンのレクチュアになります。
サマディとは、高度な緻密さと厳格さを経て起こるものなのです。

5.レベル2では、沈黙と静寂の中で淡々と時間がすぎてゆきます。
ここではムドラーと止観系技法だけになりますが
もはやマントラなどで誘導するようなレベルではないので
技術的にかなりの難しさが要求されます。
ところがレベル3では、一転して「無為」が求められます。
つまりムドラーや止観系技法すらも一切無くなりますが
今度は「何もしない」ことの難しさを味わうことになります。
真のサマディは、無為にして起こるものだからです。

「瞑想は言葉を反復することでも、まぼろしを目のあたりにすることでも
あるいは沈黙を養うことでもない。
数珠(じゅず)や経文は、精神の雑音を静めはしても
結局のところ一種の自己催眠にすぎず、催眠薬を口にするようなものである。」
(「クリシュナムルティの瞑想録」P21 J・クリシュナムルティ著 平河出版)


******************

浄化と解放のメソッドは、まさにヨーガの原点ともいえる最も純粋で高度な技術です。
ハタ・ヨーガがラージャ・ヨーガの準備段階であるように、
火の呼吸などの肉体的トレーニングは、
浄化と解放のメソッドの予備的な役割にすぎません。

もちろん、これまで火の呼吸メソッドのセットメニューを練習されてきた方には、
この浄化と解放のメソッドの階梯に於いても、
一日の長ありと言えるだけの蓄積があるはずです。

ただそれは内観を重視してきた場合に限られます。
もしも単に汗を流しながら体を動かしてきたとするならば、それは体操の範疇にすぎず、
浄化と解放のメソッドにはほとんど貢献しないでしょう。

なぜなら浄化と解放のメソッドは、
内観の繊細さを高めることからスタートするからです。
しかしながら、このメソッドは、
それ自体がひとつの完成されたプログラムになっています。
ですからアーサナなどの肉体的鍛錬なくしても、
充分に成就できるようなカリキュラムになっています。

浄化と解放のメソッドでは内観を高めてゆく内容になっていますが、
ここでは極限の繊細さが要求されます。

レベル2では内観と外観の充実、そしてその結合がテーマで、
自力での「肉体感覚の消失」を目指します。
そして空を体得できたならば、次に、視座を変え、今度は虚を体得します。
これはスシュムナーを拡大して、自らを内包するようにし、
さらにマハムドラーの詩に言う「中空の竹」と化すことで達成します。
受け手としての虚が完成したら、いよいよレベル−3に進みます。
ここからが無為に起こる真のサマディの世界です。

2000年以上かけて幾多の先人たちが目指した究極のサマディを体得されるならば、
有形から無形への深遠な世界を知ることが出来るでしょう。

「瞑想は言葉の終わったところからはじまる。
思考の器である言葉によっては沈黙は生まれない。
沈黙から湧き上がる行為は言葉から生まれる行為とは全く異質である。
瞑想とはあらゆる表象やイメージ、記憶から、精神を自由にすることである。」
(「クリシュナムルティの瞑想録」P170)