ハーフサイズで遠出・編 2
布原・呉・糸崎
伯備線2492レ……いまも忘れることのない列車番号のひとつだ。回送とはいえ、3輌のD51が山間の信号場を力強く出発するシーンに憧れて、中学2年の夏休み、父にねだった1泊旅行。シャッターを押す瞬間が近づくにつれ、胸はドキドキ、足はガクガク……いまも時おり「大事な列車」を撮るときに経験する緊張感を、このとき初めて、味わった。
1969.8.3 布原(信)―新見
この頃、山陽新幹線はまだ開通していない。京都を快速電車で出発し、姫路から姫新線のC58牽引の客車列車で津山へ向かう。たしか、津山からはDCの普通列車に乗り換え、新見に着いた記憶がある。津山の手前で交換した貨物もまだC58だった。
1969.8.2 姫路(左2枚)
翌日の下見を兼ねて、さっそく午後の布原へ。この時間は訪れるファンもまばらで、信号場の駅舎でお茶と、撮影記念のカードを頂いた。カーブした構内を芸備線に直通するC58が通過してゆく。
8.2 布原(信)
三重連のお立ち台も、前日に下見した。後に物議を醸した、入場料徴収騒動はまだ起こっていなかった。
8.2 布原(信)−新見
信号場のすぐ米子方にも、撮影に適した鉄橋があった。左の写真は、三重連のカットとともに、初めて六つ切りに引き伸ばした写真で、当時のお気に入り。
8.3 布原(信)−備中神代
たぶん、暑くて信号場に引き上げたのでは、と思う。逆後補機のC58は、珍しい後藤デフ、新見に向かうD51の客レに、夏の青空と雲が眩しい。ありがとう、1969年のフジカラーN100!
8.3 布原(信)
この頃、布原とともに、京都の中学生にとって、現実味のある憧れの地は、C59、C62が活躍する電化直前の呉線だった。折りしも、急行「安芸」に、蒸機の最後を飾るヘッドマークが登場、それが撮りたくて、中2から中3への春休み、今度は祖父に連れられて、夜行急行「音戸」で京都を出発した。思えば、この列車の糸崎〜呉間が、唯一の現役蒸機の牽く寝台車経験となっている。降りた呉は雨、そして、憧れのヘッドマークは……。
1970.4.4 須波
まずは、当時、朝の通勤列車を捉える名所だった小屋浦へ。左のC6216は、のち北海道へ転属する。ポール、新トンネルなどの建設さなか、飛び出しを撮ろうとすると、嗚呼、忍法雲隠れ。
1970.4.3 小屋浦−天応
雨も小降りになり、安芸川尻へ移動。海を見下ろすポイントでC59+D51の重連をキャッチしたあと、いよいよ待ち構えた「安芸」は、なんとD51の牽引、ヘッドマークもなし…
4.3 仁方−安芸川尻(左)、
安芸川尻−安登(右)
雨が止まないまま夕暮れを迎え、有名な鉄橋でC59の通勤列車を撮影。
4.3 広−安芸阿賀
後ずさるC62の影が川面に映る。
4.3 広−安芸阿賀
常磐線からやってきた「ゆうづる」のクイーン、C6223。
4.4 糸崎機関区
いまは梅小路で静かに佇むC59164の現役時代。イベントで「安芸」のヘッドマークを付けることもある。
4.3 呉
何と翌日も、「安芸」はD51の牽引だった。失意のうちに沿線撮影を終え、C59161の牽く列車で糸崎へ。構内入換のC50に迎えられる。本線のECも、嗚呼、70年代モノ。
4.4 糸崎
乗ってきた列車を牽引してきC59161が入区してきた。前面ナンバープレートが交換されていて、雑誌で何度も見た印象と違ったのを、いまも思い出す。
4.4 糸崎機関区
C62もクラの中か、外でも位置が悪く、山をバックにした「これぞ糸崎」の形式写真アングルもD51……。でも、今となっては、あの日のすべてが、懐かしく、いとおしい。
4.4 糸崎機関区
当時、1本だけ山陽本線下りにC62の運用があった。三原でその列車を見送って、京都への帰途についた。C62が発車していった後、隣のホームには、電車急行全盛時代のワンシーンが展開していた。山陽本線の駅は、いまも広い構内が随所に残っているが、ここ三原はどうだろうか。
1970.4.4 三原
呉線と同じネガにあったのが、この写真。
30年を経て、常時公開の保存施設のないのが、残念!
1970.4.19 京都市電千本線