ハーフサイズで遠出編 1
竜華、亀山、名古屋。
1969年の京都から、ハーフサイズカメラとの遠出は、まず大阪の城東貨物線から始まった。画面に堂々写っている友人の父に付き添われての撮影。ナメクジとデフなし、行きかうD51のバラエティがなかなかマニアックだ。ヘビの草、と書いて、「はくさ」と読む。その信号所の名前は、雨の日のD51の息づかいと相まって、中学生には、何かおどろおどろしい感じがした。

1969.2.11 蛇草(信)
城東貨物線に運用される吹田一区のD51には、数輌のナメクジが残っていた。
1969.2.11 蛇草(信)
その城東貨物線、もうひとつの基地、竜華には、和歌山線へ向かうC58も配置され、活気を呈していた。後に青梅鉄道公園に保存されるD51452が転車台に姿を見せる。
1969.5.4 竜華機関区
竜華の扇形庫は、木造の渋い雰囲気。国鉄末期、EF58最後の定期運用区となったとき、残っていたのに驚いた。
検査時の塗装中なのか、庫内で黒光りを見せるC5831。
1969.5.4 竜華機関区
京都発のDC急行「志摩」で亀山へ。加太の峠を越えると、まさに要衝と呼ぶのにふさわしい雰囲気の構内に入る。自区のカマだけでなく、奈良、竜華、名古屋、稲沢第一からのカマがひっきりなしに出入りする。
1969.3.28 亀山機関区
最も駅側にあった、こじんまりとした感じの矩形庫。C11の皿型クルクルパーが、関西では珍しい。
入換用に2輌のC50が残っていた。75、76の連番だ。75は足立区の保存されていると聞くが、再会はまだ果たしていない。
亀山のカマはほとんどが集煙装置を装備、信楽線などで運用されるC58には、シールドビーム1灯化されたものも見受けられた。
1969.3.28 亀山機関区
後に転じた紀伊田辺時代に横浜へ貸し出され、汐留〜横浜港の鉄道100年記念列車牽引で名を馳せるC577。この当時はまだ集煙装置付きのスタイルだ。
このC57148も、数奇な運命を辿る。一度は廃車解体が予定されながら、煙突を復元して大阪の共栄興業の屋内に保存され、美しい姿を今に保つという幸運にめぐり合う。
この当時は関西本線名古屋口にも、まだ煙が残っていた。赤ナンバーを彩った名古屋のC57、貨物運用の稲沢第一のD51はともに集煙装置を装備しないカマが多く、美しさを誇っていた。「名」の独特の字体の区名札も懐かしい。この年秋の無煙化で、この区名札も記憶の彼方に…と思いきや、何とJR東海発足直後に、ごく短期間だが復活している。
1969.3.28 亀山機関区
今日は祖父に連れられて、参宮線のC57詣で。京都から近鉄のビスタカーで着いた宇治山田、隣の国鉄伊勢市から、C57146が力強く発車して行く。
1969.9.14 伊勢市
鳥羽の手前の海岸線を走る区間は、今も撮影地として名高い所だ。磯遊びの子供が、すべるように走るC57の姿に振り返っている。
1969.9.14 松下−鳥羽
亀山から名古屋に向かう客車列車の入換と発車。たえず煙が立ち昇り、カマの往来は激しい亀山だが、昼下がりのせいか、広いホームに人影は少なく、がらんとした駅だなあ、と思ったのを憶えている。
1969.3.28 亀山
こちらは、亀山のC57が参宮線での運用中に停泊する伊勢管理所。腐食防止に角型ボイラ化されたカマが多い。この当時すでに配置はDCのみとなっていた。
1969.9.14 伊勢管理所
この当時の名古屋名物といえば、新幹線ホームをかすめるD51貨物。新幹線はもちろん0系のみ。京都駅ではさすがにこういうカットは不可能、関西線や名古屋港へ行くD51のほか、武豊線のC11も堂々「ひかり」の横を通過していた。
1969.7.29 名古屋
お正月に出かけたのは、三重県津の叔父の家。いまもむかしも「日本一短い駅名」の駅をD51832の牽引する貨物が発車していく。
1970.1.5 津
夕方の参宮線に残っていたC57重連。たしか翌年の伊勢市〜鳥羽間無煙化で姿を消した。
1969.9.14 鳥羽
左は名古屋駅新幹線ホームから、右は貨物線を挟んだ在来線ホームからの撮影。ちょうど、どこの大都市でも、蒸機の定期運用が消える寸前で、都会に煙はそぐわないと言われながら、肩身狭そうに走っていた時代だ。
1969.7.29 名古屋
関西線ホームには、赤ナンバーのC57が行ったり来たり。御召機C57139は、のちに御召整備でさよなら列車の先頭に立つ。この当時はさほどの美しさはなく、現役感漂う様相だ。
1969.7.29 名古屋
名古屋から、祖父の会社の方に付き添われて、稲沢第一機関区へ。火は入っていなかったが、9600を初めて見て、武骨な姿にけっこう迫るものがあった。いま見ると、美しい化粧煙突のカマだ。梅小路とはまた違った、歴史を感じさせる庫の雰囲気にも圧倒された。
1969.7.29 稲沢第一機関区
この中学生、どの機関区でもこうして1枚、庫の写真を撮っていた。自分で自分をほめてあげたい(笑)
初めて撮る9600、扇形庫を振り返れば、開け放された扉がものものしい。この動輪は、C58? 美濃太田あたりのカマだろうか。吹田と同じように、広いヤードでは、デフなしのD51が活躍していた。
1969.7.29 稲沢第一機関区
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