奈良 済美地区社会福祉協議会
第384回

2004年10月のご案内


日 時

10月17日(日) 午前7時50分 近鉄奈良駅地下集合

コース

奈良8:18発(近鉄京都行急行ーー丹波橋〔京阪)ーー五条・・・本覚寺・・・歩く・・・上徳寺・・・新善光寺・・・白豪寺・・・市比売神社・・・蓮光寺・・・長講堂・・・文子天満宮神社・・・渉成園・・・東本願寺・・・西本願寺・・・興正寺・・・宗徳寺・・・道祖神社・不動堂明正院・・・京都駅ーー(近鉄)ーー奈良

費 用

運 賃 奈良〜(近鉄・京阪)〜五条740円 京都駅〜(近鉄〕〜奈良610円  計1、350円

入園料 渉成園 お心持 100円

歩行距離

約4Km     平坦で坂道・石段ありません 

食 事

近鉄百貨店で食事・弁当の方東本願寺接待所で・お茶あり。 数席です


本覚寺

鎌倉三代将軍源実朝(サネとも)の夫人本覚尼が約800年前西八条の遍照心院に一宇を建立、その後転々と移転してこの地に移った。阿弥陀尊と源融(トオル)の像が安置されている。

上徳寺

家康の息女泰譽院と生母上徳院の菩提を弔うため創建された。

新善光寺

信濃善光寺本尊阿弥陀如来の分身像安置、京の新善光寺4ヶ寺の一つである。

白豪寺

聖徳太子像安置、知恩院の境内に西大寺の忍性上人の弟子が400年前創建した。

市比売神社(イチヒメ)

1、200年前藤原冬嗣(左大臣)が筑前より宗像三神(ムネカタ)を勧請、東西の市の守護神として祀った。現在は京都中央卸売市場の守護神である「境内に天の真名井と称する井戸あり」

蓮光寺

本尊阿弥陀像は南都の仏師快慶が東国の僧の依頼により彫った像であまりの出来栄えに快慶は僧の後を追って再度の拝観をと山科で追いつき、願って僧の背に負う笈〔オサ)を開けると像は二体になつていたので一体づつ分けた。負別阿弥陀(オイワケ)と呼ばれ負別山(フベツザン)と号された。 境内に平清盛が駒を止めたという駒止地蔵がある。

長講童(チョウコウドウ)

後白河法皇が五条西洞院の六条御所内に持仏堂を建立、法華経(ホケキョウ)を長講された所、再々火災にあい430年前この地に再興された。

文子天満宮神社(アヤコ)

菅原道真の没後京に住む乳母多治比文子(タジヒアヤコ)に「右近の馬場(現在の北野天満宮)の地に吾の祠を構えよ」と道真の託宣(タクセン)があり、当時文子にはそんな力がなかつたので我邸内に小祠を建てた。これが我国で最初の天満宮で後に乳母は北野に天満宮を建てたのが現在の北野天満宮である。

渉成園(ショウセイエン) 東本願寺の別邸、周囲に生垣として枳殻「カラタチ」が植えられたことから枳殻邸(キコクテイ)と呼ばれる。200m四方の広域である。
東本願寺 400年前真宗の大本山で十二世法主、教如上人が家康の帰依(キエ)を得て建立された。浄土真宗大谷派本山
西本願寺 730年前親鸞の末女亡父の遺骨を奉じて大谷に創建、400年前この地に移つた。浄土真宗本願寺派の大本山
興正寺(コウショウ)  680年前僧了源が山科に一宇を建立、後に東山に移り仏光寺と改名十四世が本願寺の蓮如上人に帰依、同志を連れて仏光寺を脱し元の山科の地に一宇を建立、旧名の興正寺とした。一時本願寺と共に大阪に移転、その後京に移り明治に本願寺と分れ独立寺院となつた。
粟島堂(アワシマ)・宗徳寺(ソウトク)

紀州の淡島神(天照大神の第6の姫神を勧請、境内に粟島明神を併せ祀った。明治の神仏分離令により神社を廃止、明神のみを祀る仏寺となつた。
粟島神の本地仏は虚空蔵菩薩である。

道祖神社

宇陀上皇の御所、西洞院にあつた亭子院(テイジイン)の鎮守社、亭子院の廃止後この地に移された。

不動堂明王院

元道祖神社と同じく亭子院の封内にあつた。
石造の不動明王像が安置されている。

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