奈良 済美地区社会福祉協議会
第389回

2005年3月のご案内


日 時

3月13日(日) 午前8時40分 JR奈良駅集合

コース

JR奈良駅9:00発ー快速ー新今宮ー貝塚・・・歩く・・・感田神社・・・願泉寺・・・貝塚駅ー(水間鉄道)−水間・・・北の坊「往生院」・・・水間寺・・・水間駅ー貝塚(南海電車)−新今宮ーJR−奈良

費 用

JR奈良〜新今宮540円 新今宮〜(南海電車)〜貝塚540円 貝塚〜〈水間鉄道〉〜水間280円        計1,360円〈往復2,720円〉

歩行距離

2Km弱  

食 事

食堂あり 弁当の方・お茶 敷物ご持参ください  雨天時はお寺の部屋にて食事します


感田神社

宗福寺の鎮守 天照大神・すさのおの尊・菅原道真を蔡神とする創建年代不詳 現建物450年前再建、三之社は海幸戎として名高い 

願泉寺

450年前無住の草庵に紀州の根来寺の僧が浄土宗一向衆の寺院として寺内町を形成、信長に焼討ちされ焦土と化した。400年前本願寺が御堂として再興した

北の坊〈往生院〉 行基の開基 除地2,431坪 300石 貢米の大寺であつた 本尊阿弥陀如来
水間寺

比叡山から僧が出向、水間町住民の経営という珍らしい運用の寺、聖武天皇勅願、行基の開基、阿弥陀如来・聖観音・文殊・伝教大師の像が安置・天正の乱により全て焼失、徳川時代に再興された。水の流れと流れの交わる川の所にあるところから水間寺の名がある

奈良時代聖武天皇が南西の方角に光の差すそを見て行基に調べさせたところ水の流れの交わるところで観音の蛇身に逢いここに天皇の勅命により寺を創建したのが起源

(三重塔) 元の塔は多宝塔で多宝如来を安置、孝謙天皇が仏舎利を納めたが現建物は江戸期の三重塔である。矢張り多宝如来が安置
(経堂) 聖武天皇の晨書の妙典・光明皇后の般若経・慈覚大師の妙法経を納められていたが灰燼した。中国南北朝時代1,500年の昔、難民救済に生涯を全うした傳田井大士とその子、普建・普成〈ふしょう〉の像が安置、水面に映つた父の影の頭部に光が差しているのを兄が見て弟に指を差して教え二人は驚いている像がある
(開山堂)

奥の院 行基堂 行基自作の像が安置されている

〈観音出現の滝〉 蛇淵ともいう。 観音が蛇身と化し滝の岩上に出現、行基が出会つた所
お夏・清十郎の墓 伏見天皇の勅使が参詣の折、宮中の武士、山名清十郎が従役、寺での接待に村の娘、お夏が給仕に出、想思の仲となり、身分の違いからお互い隔てられ、お夏は愛染明王に願掛け椿の木の枝に縁結びの紙を結び祈願。折りしも南北朝の戦乱に清十郎は従軍大阪住吉で戦死と聞きお夏は戦場を彷徨い住吉の松原で巡り合い水間に連れ帰つた。 このことが京都の御所に知れ追手に捕らえられ首を斬られたが清十郎の家来が身代わりとなつたので2人は水間の里で隠れ住んで睦まじく暮らし、死後椿の木の根元に2人はうずめられた。身代わりになつた山名忠平の首は岸和田淨円寺門前に清十郎の首塚として今もある

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