奈良 済美地区社会福祉協議会
第400回

2006年2月のご案内

400回記念

早春とは申せ、寒風身に凍みる如月の候、炬燵の温もりに過ごしてはいませんか?
歩こう会も開始以来33年余りを数えます。簡略な式典と講話のあとひき続きなら町の一隅をウォークします。

日 時

2月19日(日) 午前8時40分 鳴川町音声館2階ホールへ集合

セレモニー

式典 午前9時開始
一口トーク講話『大人のお伽噺』奈良市社協大川靖則氏
合唱 せいび歩こう会の歌

コース

なら町ウォーク音声館(10時40分出)…十念寺…阿弥陀寺(11時30分解散予定)




小塔院(元興寺の別院叉の名を飛鳥寺)

元興寺は飛鳥の飛鳥寺が移建した寺、飛鳥時代法興寺といい、この小塔院8万400基の小塔が安置されていたからその名がついた。また一説には現在極楽坊の五重小塔がここに安置していたからともいう。西門に流れる鳴川に蛙が多く住み奈良時代元興寺の名僧護命僧正がここで学問中蛙が喧しく鳴いた僧正が法力で声を封じた、その為鳴かなくなった、鳴か不の川、それが後に鳴川と鳴った所以。それ以前は飛鳥川といい、この当たりより東を飛鳥と呼ばれ、現在飛鳥小学校、また飛鳥地区と名を止める。飛鳥とは早く飛鳥の都を懐かしんだことからで、この辺りが飛鳥によく似ていたからでもあろうと伝えられる。

十念寺(おしろい地蔵) 710余年前鎌倉時代中頃、僧忍性菩薩が添上郡八条村(現大安寺地区の八条町)に創建した寺で200年余り後、今から約400年前安土桃山時代初期、織田信長の時代ここ南風呂町に移建された。現在の本堂は江戸中期約270年前に再建された。忍性は11歳で信貴山で学問し、17歳で東大寺で受戒、奈良北山にハンセン病患者救済の十八間戸を建てた。また道路、橋、河川の改修等公共事業に功献、般若寺等多くの寺院の建立力を注ぎ寺の建立83、塔婆建立120基、端を架けること189、道を造ること71ヶ所、貧民救済3万3千に一生を捧げた高僧である。生駒市近鉄一分近く有里趙の竹林寺に眠る。本寺は忍性が創建した寺で忍性の供養塔がある。また愛染明王を安置した愛染堂があり本堂と愛染堂の間に金比羅大権現祀られている航海安全を守る神が、漁夫の信仰する神が何故海のない奈良にと、疑問を感じられるが当寺の住職の話によるとならの名産、筆、墨、蚊帳を全国に販売に行く行商人が時には海を渡って四国、九州に出掛ける人々が海上安全を願って信仰したためでは、と解説しておられる。また「おしろい地蔵さん」と呼ばれる菩薩像が東端の小祀に安置されている。この地蔵尊に祈願しご利益を頂くとお礼にお化粧されるそうです。そのため頬や唇に紅、白粉が塗られている。
阿弥陀寺悲田寺(観音堂) 福祉救済にあらたかな慈悲に富んだ「三駆一仏」の観音像を本尊とした奈良時代(養老7年…西暦723年)1283年前、興福寺の境内(現在の半田町)に第45代聖武天皇の后(藤原鎌足の孫娘、光明子)光明皇后が福祉に篤き慈悲心により発願、建立された日本最初の悲田寺で、凡そ800年後、平重衝(たいらのしげひら)の乱、またその後の百姓の年貢減量要求のための土一揆など再度の焼討ちにより東大寺・興福寺・元興寺など多くの寺の堂宇が焼失、悲田院も焼失した。その後観音像は同じ興福寺領、現南城戸町に再建され、その120年余り後阿弥陀寺の四世が悲田院を再興したが、300年余り経過した今日、阿弥陀寺29世が堂宇の荒廃その極に達した為、平成元年悲田院本堂が解体され、翌年阿弥陀寺境内が拡張されて同寺門内に観音堂再建されるに至ったのが現在のお堂。観音堂には右に阿弥陀如来、その中央に観音菩薩を、いわゆる「三駆一仏観音」が安置され、脇侍に不動明王と毘沙門天という古式に則ったいわゆる悲田院形式というもので、それは人々を平安な仏堂に導き貧困、孤独の苦を救い煩悩の絆を断ち、福徳を与えんとされた光明皇后の深い御心をそのまま顕したものである。
因みに阿弥陀寺はもと元興寺の一庵で、創建は南北朝時代625年前。

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