奈良 済美地区社会福祉協議会
第406回

2006年8月のご案内

残暑の候、まだまだクーラーの恋しい季節、でも健康の為歩きましょう。 

遠くに旅するのは魅力を感じますが、近郊を発掘するのも新しい発見があります。

頑張ってご参加下さい。

日 時

8月20日(日) 午前7時50分 JR奈良駅前バスターミナルD乗り場へ集合

コース

JR奈良駅前D番乗り場 8時15分発・高麗行き〜(バス・近鉄奈良駅前北側のA乗り場8時18分発)〜市坂南口…(歩く)…幣羅坂神社…市坂念仏堂…安養寺…岡田国神社…和泉式部墓…大智寺…平重衝首洗池(不成柿)…安福寺…御霊神社…宮之堀(バス停)〜岡崎(バス停)…恭仁宮址・山城国分寺址…岡崎(バス停)JR加茂駅〜奈良

料金

交通費 奈良〜(バス)〜市坂南口    340円(老春手帳170円)

    宮之堀〜(バス)〜岡崎     440円

    岡崎〜(バス)〜加茂      170円

    加茂〜(JR)〜奈良      230円        合計1,180円(老春手帳1,010円)                                          ※バス料金小銭ご用意ください

歩行距離

3km弱

食事

弁当・飲物ご持参下さい。食堂・売店ありません。

【ご注意】70才以上の方「老春手帳」をお忘れなくご持参ください。 



幣羅坂神社
(へらさか)

崇神天皇御代大彦尊は勅命によって高志国(こしのくに・北海道)に赴こうとして山背の平坂(現在の辺り)に至ったとき不思議な童女のうたう歌で武埴安彦(たけはにやすひこ)の謀反の企てを知って事前に防いだ。平坂とは(古事記には幣羅坂)祭神の天津乙女神(あまつおとめ・童女を祀ったもの)併せて大彦尊(おおひこのみこと)を祀る。

市坂念仏堂
(いちさか)

法然上人は南都の大仏再建の時、落慶法要の導師に招かれ、終って帰洛に際し多くの衆人に請われ上人は路傍に座し、念仏を唱えた。これを土構座(つちこうざ)という、上人は一枚の紙に「南無阿弥陀仏」と念書を書いて傍らの石とこの紙の重さを比べた。紙は重く大石は軽く上がった。念字を書いた名号の紙は安養寺に納められた。人々は仏教の有難さに驚きひれ伏した。その後大石はこの名号を慕って光を放ちながら、寺の門前に飛来、念仏堂に祀られている堂内右に役行者又右側に隣りあって動観音(ゆるぎかんのん)が安置。(由緒不明)

岡田国神社
(おかだくに)

木津町の産土神(うぶすながみ)で元は岡田(現在の加茂、瓶原[みかのはら])郷にあった神社で木津川(泉川)の洪水によって流出木津に再建、現在木津町の鎮守社(ちんじゅのやしろ)、生国魂尊(いくたまのみこと)、旧本殿は向かって左一段低い社で、相殿は八幡社とあり春日造りで京都府下では珍しい貴重な社殿である。又中央の舞台に向かって両側に傾斜がつき手摺のついた観覧場があり村民が楽しんだ様子が伺える。

和泉式部墓 和泉式部(平安の女流歌人)の屋敷跡

大智寺(橋柱寺)
だいちじ(きょうちゅうじ)

僧行基の造った泉川(木津川)に架かる泉橋がその後流失、柱朽ち川中に放置されていたのを西大寺の僧慈真(じしん)が水底に光る柱を引き上げ文殊菩薩を刻み安置したのが起りである。

平重衡首洗池と不成柿
たいらのしげひら ならずがき

重衡が死にのぞんで食べた柿の種が後に生長、不思議に実がならず、たまたま実がなった年は忌み嫌われたと伝えられる(不吉な年とされた)。
安福寺 重衡は清盛の子で南都の寺、東大寺等を焼いた。後に源義経に敗れ一の谷で捕らえられ、鎌倉に送られたが東大寺の要請により引き渡されて木津川の辺りで斬られた。菩提を弔う為建立された寺で4.5mの十三重石塔はその墓である。

恭仁宮址
(くにのみやあと)

天平12年12月聖武天皇が造営発表され約4年間の都でその後難波に遷都された。1km四方の都であった。因みに平城京は4km四方に外京があった。大養徳恭仁宮(おおやまとくにのみや)と天皇が命名された。
国分寺址 聖武帝が恭仁宮に遷都を発表された翌年、勅願により建立された都の中心にあり、七重の塔のある大寺で全国各国に国分寺を創建されたその一寺で、総国分寺は東大寺である。その後200年以後の沿革は不明。金光明四天王護国之寺。

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