奈良 済美地区社会福祉協議会
第438回

2009年4月のご案内

花の季節となりました。京は桜の名所の一つ古い歴史に涙する鹿ケ谷から大文字山如意ケ丘の麓を流れる疎水に沿った哲学の道を歩きます。ご参加下さい。


日 時

4月5日(日) 近鉄奈良駅地下東改札前・午前8時集合

コース

近鉄奈良駅=(C8:19発・京都行急行)=京都=(市バスD銀閣寺行)=永観堂前(バス停)…永観堂…熊野若王子社…大豊神社…円城寺址…冷泉天皇陵…(鹿ケ谷・浄土院)…慈照寺(銀閣寺)…八神社…銀閣寺前(バス停)=(バス)=京都駅=近鉄=奈良

費用

交通費 合計1,660円

奈良〜(近鉄610円)〜京都〜(バス220円)〜永観堂前・銀閣寺前〜(バス220円)〜京都〜(近鉄610円)〜奈良

拝観料 合計1,000円

永観堂500円(団体) 銀閣寺500円

歩行距離 3km弱
昼食 花の月混みます。弁当・飲物・敷物ご持参下さい。但し雨天の日は食堂ご利用下さい。



禅林寺

(永観堂)

弘法大師の高弟眞紹(しんしょう)が建立、56代清和天皇から「禅林寺」の名を賜った。200年後、永観という僧が入寺して「永観堂」と呼ばれるようになった。本尊阿弥陀像は首を左に向け見返り衆生救済のお姿が有名。「見返り弥陀」という。本堂の阿弥陀堂前の松は永観念仏のとき諸菩薩が木の上に集まったという。開山堂後方の多宝塔は東山の景観に欠かすことのできない名塔で、各お堂を繋ぐ臥竜廊は面白い。

熊野若王子(にゃくおうじ)社

77代後白河法皇が紀州熊野権現を勧請され若王子の鎮守又永観堂の鎮守社ともいう。祭神 国常立(くにとこたち)・伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の尊と天照大神を祀る。大神の別名を若王子ということから、社名となった。応仁の乱で荒廃、秀吉の再建。

大豊神社

少彦名(すくなひこな)命・応神天皇・菅原道真を祀る。円成寺の鎮守社、末社(大国社)の狛鼠、一方に酒器、もう一方の鼠は子宝の宝を鼠は大国主を助けたという由来による。
(日吉社)大津坂本の日吉大社祭神、大山咋(おおやまくい)神のお使い狛猿の三番叟(さんばそう)も珍しい
(愛宕社)の狛鳶(こまとび)も余り他に類を見ない。

円城寺址

59代宇陀天皇(上皇)の尚侍(しょうじ)、藤原淑子は病気で悩み祈祷の結果、平癒したので亡夫の山荘を寺とした。応仁の乱で焼失、その後大和大柳生に再建され忍辱山(にんにくせん)円成寺である。

冷泉(れいぜい)天皇陵

63代の天皇で皇位2年間(19才〜21才)62才で崩御
鹿ケ谷(ししがたに) 談合谷ともいう。法勝寺の僧、俊寛僧都(しゅんかんそうづ)の山荘であった所。77代後白河天皇(法皇)も参加され、公家、法師も加わり、平家を亡ぼす密談が再々開かれ、加わっていた一人が裏切り、平家に漏れ法皇は押し込められ、西光法師は斬罪、他は鬼界島に流された。後に許されて帰ったが俊寛だけは一人残され島で果てた「俊寛という歌舞伎」が有名。ところが奈良興福寺の僧によって助けられ匿われ興福寺で果てたと伝説がある。大御堂の南側池の堤下に塚がある。
浄土院 大文字送り火管理寺である。

慈照寺(銀閣寺)

室町幕府8代将軍足利義正が将軍職を隠退、将軍の跡目争いがその後10年も続いた応仁の乱で都は焼野が原となった。乱後、義正は東山に山荘を建て遊興に明け暮れ山荘の建設費調達には各方面からの批判も蒙ったであろうと云われる。ここでの生活は7年足らず子供義尚戦死の後新盆に如意が嶽に大の人文字の床を掘らせ8月16日夜点火、義尚の菩提を弔った。翌年正月7日56才で亡くなった。遺言により寺となり義政の送り名を寺名とした。
銀閣(観音堂)上の階に観音を、一階奥に千体地蔵尊を安置、銀閣というが内外共建物は黒漆塗(くろうるしぬり)で銀箔で仕上げる予定があったかどうか解らない。完成をみずに死んだという。
八神社 浄土寺の鎮守であったと伝わる。地域の産土(うぶすな)神という。天御中主神(あめのみなかぬし)他7神を祀る。

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