奈良 済美地区社会福祉協議会
第441回

2009年7月のご案内

盛夏の候、梅雨の季節うっとうしい日が続きます。でも、歩きましょう山野を。「近つ道飛鳥」の名峰二上山の麓、上の太子を巡ります。

日 時

7月5日(日) JR奈良駅東口改札前・午前7時40分集合

コース

奈良B8:00発=(JR・快速)=王寺(乗換)=(JR・普通)=柏原(乗換)=(近鉄)=道明寺(乗換)=(近鉄)=古市(乗換)=(近鉄)=貴志A9:35発=(バス)=太子前…(歩く)…叡福寺…隔夜堂…西方院…三公廟所…小野妹子の墓(塚)…用明天皇陵…推古天皇陵…仏陀寺・石川麿墓…山田バス停又は六枚橋バス停=(バス)=貴志=(近鉄)=古市

A:古市=(近鉄)=道明寺=(JR)=柏原=(JR)=王寺=(JR)=奈良

B:古市=(近鉄)=橿原神宮前=(近鉄)=西大寺(各地)

費用

奈良〜JR〜(柏原経由)〜近鉄〜貴志 630円

貴志〜バス〜太子前・山田・六枚橋(バス停) 往)200円  復)260円

往復合計1,720円

歩行距離 約2km
昼食

弁当、飲物ご持参下さい。

食堂・売店ありません。




叡福寺

(上の太子)

聖徳太子の墓前に営まれた寺院で創立は不明、約1,400年の昔大和時代第3代推古天皇の時代、太子の陵墓を守るため一堂を構えたのが始め、奈良時代第5代聖武天皇の勅願によって伽藍を造営されたともいわれる。後部の高所に生母・穴穂辺間人(あなほべのはしと)皇后と太子の妃膳部太郎女(かしわでのいらつめ)の三人が一所に葬られている。三骨一廟という。信長の兵火で焼失したが秀頼が再建した。

隔夜堂

(かくやどう)

本尊 阿弥陀如来(石仏)坐像(鎌倉期)叡福寺住職が天王寺又は法隆寺に参詣される数日、隔夜ここに参籠されたことから隔夜堂といわれるようになった。

西方院

聖徳太子の侍女兼乳母(めのと)・善信(ぜんしん)=月益、蘇我馬子の娘、禅蔵=日益、小野妹子の娘、恵善=玉照、物部守屋の娘は太子の死後尼となって太子の冥福を祈った寺である。

三尼公廟所 太子の御侍女三尼公の墓塔

小野妹子の墓

(供養塔)

蘇我馬子の墓とも云う
用明天皇陵

第31代(大和時代)

推古天皇陵 第33代(大和時代)
仏陀寺 本尊は親鸞上人31才の仏陀、寺を創建した秦川勝の子孫盛光の依願によって彫られたもので、親鸞が19才の頃、興福寺高僧光俊と法隆寺の高僧覚運の2人に会い覚運に学び、太子廟に参籠した時、途中この寺に立ち寄り逗留された。その後、当寺の住職盛光は太子の廟に参篭祈願すると霊夢により廟の中から声がして「親鸞は凡僧ではない」と告げられ親鸞の弟子となり仏陀寺の本尊を彫ってほしいと再三お願いし彫刻されたのがこの寺の本尊である。
石川麿墓

仏陀寺境内にある。一部に石窟が見える石棺の蓋らしいものがある。山門外に蘇我倉山田石川麿(そがくらやまたいしかわまろ)の石碑に並んで祖師御舊跡とある。寺内の片隅に親鸞上人の腰掛石という椅子の型をした座石がある。石川麿は蘇我の馬子の孫、藤原鎌足と共謀して蘇我の入鹿を誅した、後右大臣に任じられたが讒言(ざんげん)されて自殺したといわれる。

もどる