奈良 済美地区社会福祉協議会
第444回

2009年10月のご案内

秋も深まりました。京は東北、黒谷山と吉田山を歩きます。吉田山は室町幕府・足利氏将軍の跡目争いに10年続いて京都を焼野原と化した応仁の乱、東軍の陣地。その昔岩戸開きのあった高天原の天降った聖地、そこには内宮・外宮を始め天神地祇(てんじんちぎ)、八百万(やおよろず)の神、全国六十余州総ての神を祀る大元宮や奈良興福寺、春日神社に思いをよせた藤原氏の勧請による社が鎮座します。

日 時

10月18日(日)近鉄奈良駅地下改札口・午前8時集合

コース

奈良C8:19発=(近鉄・急行)=9:03着・京都=(A−1・バスD)=東天王町…(歩く)…岡崎神社…金戒光明寺…真如堂…極楽寺…東北院…後一条天皇陵…陽成天皇陵…宗忠神社…在原業平塚…斎場所大元宮…(山陰神社)・(菓祖神社)…吉田神社…京大正門前=(バス)=京都駅=(近鉄)=奈良

費用

近鉄 奈良〜(610円)〜京都  (往復1,220円)

バス 京都〜(220円)〜東天王町  京大正門前〜(220円)〜京都駅

合計1,660円

歩行距離 約2km 社寺内石段、坂道は下りのみ。
昼食

弁当飲物ご持参下さい。食堂売店ありません。




岡崎神社

東光寺の鎮守で応仁の乱で寺共に焼失、社のみ再建素戔嗚尊(すさのおのみこと)と櫛稲田媛命(くしなだひめのみこと)とその子八柱を祀る。
(雨社)大山祇(おおやまぐい)神他四柱を祀る。上賀茂神社の別雷(わけいかづち)命の父

金戒光明寺

(こんかいこうみょうじ)

比叡山西塔黒谷から法然上人がこの地に移り念仏道場としたのが起こり、一般に当寺を「黒谷さん」と呼ぶ「金戒」の寺名は後小松天皇より賜り門の勅額は天皇の宸筆(しんぴつ)、熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)・平敦盛(たいらのあつもり)縁の寺。日本三文殊の一つ、当寺の起りとなった西雲院、霊石・紫雲石は法然上人縁の石。

真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)

(真如堂・しんにょどう)

比叡山・戒算上人(かいざんしょうにん)が一条天皇母の御願により延暦寺の阿弥陀如来像をここ女院の離宮に移した。壮麗な寺院であったが応仁の乱で荒廃、元禄時代に再建された。鎌倉地蔵、縣井(あがたい)観音堂等、三重塔近く散在する。
本堂を真如堂と称しこの寺の呼び名となっている。

極楽寺 恵心僧都(えしんそうず)の創建、念仏踊を広めた一遍上人の再興、本堂に勝敵毘沙門天を本尊とし蛭子・大黒を脇侍とする。
東北院 1000年前一条天皇中宮上東門院の御願により創建、当時は善美を尽くした、鎌倉時代貴族のサロン的な場であった。
(軒場の梅)上東門院に仕えた和泉式部は一隅に住し、その軒端にあった梅を愛した。現在の梅は昔に因んで近年植えられた。謡曲(東北)に謡われている。
※極楽寺・東北院又付近にある迎称寺(こうしょうじ)・大興寺は「四軒寺」と称し、元、市中に在ったが応仁の乱で荒廃・焼失し、その後ここに再建されたもので、真如堂も元の位置吉田山東側山裾、「錦林車庫前付近」にあった。
後一条天皇陵(68代)・陽成天皇陵(57代)  

宗忠(むねただ)神社

幕末の新興宗教「黒住(くろずみ)教教祖」備前岡山の神官を祭神とする。脇に天照大神。
在原業平(ありはらのなりひら)塚 平安初期の歌人、天下の美男、遺言によりここに廟が造られた。今は跡形もない。

斉場所大元宮

(さいばしょだいげんぐう)

91代後宇陀天皇勧請、内・外宮八百万神総てを祀る。
山陰(やまかげ)神社 料理の祖神中納言藤原山陰を祀る。昭和32年創祀(吉田神社由来)
菓祖(かそ)神社 田道間守(たぢまもり)・菓子の祖、林浄因(じょういん)・饅頭の祖を祀る(吉田神社由来)
吉田神社 平安中期、中納言藤原山陰が祖神、奈良の興福寺・春日神社を勧請法成寺を氏寺とし吉田神社を氏神とした。法成寺は廃寺となり神社だけが残った。四殿の春日造りで若宮は一段高い所に在り、その石段下南に小さな池がある、竜沢池と有り、猿沢池に因んだもの水は水量はないが日照りにも水が絶えることなしと云う。亀と鯉も少しいるようだ。

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