奈良 済美地区社会福祉協議会
第447回

2010年1月のご案内

新しい年を迎え今年も無事息災を願って地域の氏神の社に詣で、併せて春日社並びに末社の佐良気(さらけ)神社の十日えびすに参ります。皆様のご参加を。

日 時

1月10日 御霊神社(薬師堂町)・午前9時集合

コース

御霊神社(9:10出発)…柳生屋敷跡(元市庁舎跡)…鬼界島伝承地…菩提院…飛火野(雪消沢・春日龍神出現の地・野守の鏡伝承地・地僧道)…夫婦大国社…佐良気神社…春日大社

費用

費用は不要です。  

歩行距離 約2km

午前中の解散です。
春日大社では内拝殿にてご祈祷、その後ご神酒を頂戴します。
「感謝・共生の館」で荷茶屋の甘酒を召しあがって頂きます。




柳生屋敷跡

 

興福寺塔頭光林院のあった所、江戸時代興福寺と春日神社との争いがあった、柳生宗冬が仲立ちをして治めたのでそのお礼に興福寺から貰った屋敷で南都柳生屋敷といった。明治の廃藩置県により奈良町役場となり、明治31年市制施行により市役所となり昭和53年市役所移転により現在奈良町センターとなっている。東南側にある「ホテルサンルート」の前身は大正9年奈良に初めて歌舞伎の殿堂「尾花座」のあった所

俊寛塚

(しゅんかんづか)

平安時代末、平家を滅ぼそうとした。京鹿ケ谷(ししがだに)の法勝寺の僧俊寛僧都(しゅんかんそうづ)が自分の山荘で、時には後白河法皇も密談に加わり、仲間の多田倉人の裏切りにより平家に密告され法皇は鳥羽殿に幽閉、全員九州の鬼界島に流され後、赦されたが、俊寛だけが生涯赦されず死んだが、一説に弟子の有王に助けられ興福寺に隠れ住みこの地が終焉となった。この塚は供養塔でこの所を俊寛ケ辻と書かれている。
菩提院 阿弥陀如来座像を安置、稚児観音が坐す。朝の七つ時と暮れ六つ時に梵鐘が撞かれることから「十三鐘」の名がある。江戸時代この寺で手習いをしていた小坊主が鹿に草紙を食べられたのを怒って文鎮を投げた、鹿はその為死んだ。春日の神のお使い鹿を殺すと死刑になる掟により鹿と共に生きたまま石子詰の刑により埋められた。母親は毎日香華をし供養したがいつか自分は死ぬ、そのため花が供えられないので楓を植えた。鹿に紅葉の由来となった。(浄瑠璃十三鐘の由来)

雪消の沢

(ゆきげのさわ)

四季を通し水が枯れることもなく雪が降ってもすぐ溶けることからその名がある。
春日龍神出現の地 鎌倉時代、京・栂ノ尾の明恵上人が天竺で修行するため暇乞い(いとまごい)に春日明神に参詣しようと、ここ春日の地に就いた時、年老いた社人現れ「釈迦入滅後はこの春日野は仏跡の地、鹿野苑(ろくやおん)で春日山は霊鷲山、我は明神の使い時風秀行なり」と云って消えた。すると大地鳴動し八大竜王一族が春日野に参会、法会を聴聞、やがて社人となり春日竜神となって猿沢池に青波を蹴立て大蛇と化し昇天したという(謡曲春日竜神)

鷺原の池跡

(野守の鏡伝承地・地僧道・旧ささやきの小道)

その昔常陸(ひたち)の国の山伏がここで龍神に会い鏡で地獄を見せられたとの伝説がありその鏡を「野守の鏡」という。又その鏡はここ鷺原の池(沼)の水面を水鏡として見せたとも云われる。
この道は地僧道とも云う、それはこの西側鬼隠(きおん)山の南山腹にある興福寺の一院大乗院の僧侶が春日の杜に向かう参詣道からいう。又ささやきの小道と呼ばれたのは一昔前のことである。

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