奈良 済美地区社会福祉協議会
第450回

2010年4月のご案内

春爛漫「せいび歩こう会」も歳を重ね37年余りとなります。皆様に愛され育まれ今や済美の郷っ子となりました。「歩こう会」、この記念すべき時、陰ながらご支援賜りました方々をお迎えし、ささやかな記念式典と歩こう会を行いたいと思います。ぜひ皆様もご参加下さい…。

日 時

4月11日(日)鳴川町 於音声館(2階ホール) 午前8時30分(受付)

式典

午前9時 開始

セレモニー

せいび歩こう会=「裏話」 語り 社協副会長 巽舜一

講話

『みんなで発見・まちの魅力』 市長  仲川げん氏

みんなで
合唱

せいび歩こう会の歌

ウォーク 音声館出発(10時30分)…法徳寺…地蔵堂…超願寺…大乗院庭園文化会館(お抹茶による接待)解散


文化会館でのお接待
ここでのお接待は琴とフルートによる日本調の演奏を聴し、名勝庭園を愛で、抹茶のお手前を拝見ささやかながらの和菓子とお抹茶を味わっての一時の寛ぎをお楽しみください。

毘沙門天
(伝毘沙門町所蔵
=法徳寺毘沙門堂に安置)

毘沙門天はまたの名を多聞天とも申します、憤怒の相で甲冑を身に付け片手に宝塔を捧げ片手に鉾を持つ武神、寅の神で四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)の一、また福徳と富貴の天として七福神の一に数えられる、大海に高く聳える聖山須弥山を守護する天という、この毘沙門天像は伝説によると信貴山の朝護孫子寺の本尊で伏見桃山時代約400年前多門山に城を築いた(現在の若草中学校地)城主松永久秀が豊臣秀吉に謀反し信貴山に立て篭もりその戦火により寺は焼失、何者かが本尊毘沙門天を助け出しこの辺りの叢に棄てられていたのを後の世に祀ったのであろうと伝えられる。
将軍地蔵
=鎧地蔵ともいう
(傘屋町所蔵
=地蔵堂に安置)
身に鎧・冑を着け乗馬の姿で南北朝時代約650年程前に足利尊氏が創らせ各地に祀らせたその一つであろうと伝えられる奈良市内は勿論県下でも希に見る地蔵尊でこの近くの福智院に近年新像が安置された。将軍地蔵の謂れは平安初期東北蝦夷において天皇に反逆した蝦夷を征討するため題50代の桓武天皇が坂上田村麻呂という武将に討伐を命じられ勝利を得て田村麻呂は京に凱旋した、その功績により「正三位大納言」の位を授けられた。平安京三代目第52代嵯峨天皇の御代田村麻呂は亡くなり天皇は深くその死を悼まれ京山科の丘陵に円墳を築き遺体に甲冑を着せ弓箭と剣鉾を持たせ完全武装の姿で京御所に向って埋葬された、その後事ある毎にその塚は鳴動し、前兆を示したと伝えられる。その後東北遠征のときはその墓に詣で武運長久を祈願したという。お堂に隣接する地蔵町の名の由来はこの地蔵堂によるという。この将軍地蔵尊は元この辺りにあった福智院の地蔵堂に安置されていた仏であったのではと言われる、明治以前福智院はもっと大寺であった、一時寺は荒廃し荒野に放置されていたのを住民が祀ったことによりこの町の地蔵尊になったと考えられる。
浪切り観音菩薩
(地蔵町の超願寺)
観世音菩薩・観自在菩薩などと呼ばれます、自在とは意の侭思いのまゝに大慈大悲の心で衆生を救う、即ち人間をはじめ総ての生物を救う菩薩、菩薩とは悟りを求める仏と聴く、観音様には聖観音を根本仏とし十一面観音・千手観音・如意輪観音・馬頭観音・不空絹索観音を合わせて六観音、更に准胝観音を加えて七観音が坐すという。所謂千変万下の相(姿)をもって苦を除き慈悲を行ずるという仏である。この超願寺には非常に珍しい浪切り観音菩薩がお出でになります。観音様は世の中の激しい辛い悲しい波を切り開きそれを乗り切るために導きくださる菩薩と伝えられる。
名勝大乗院庭園
大乗院は興福寺の門跡寺院として平安時代から室町時代にかけて栄えた子院で元禅定院の庭として平安時代築造された庭を大乗院門跡の尋尊が庭師の善阿弥に依頼改造されたと伝わる、昭和33年に国の名勝に指定された。門跡寺院とは皇族、貴族が入寺された寺院を云い興福寺には門跡寺院はもう一つ現在の裁判所の地にあった一条院がそれである。この大乗院は元現文化会館の辺りにあったという。
   

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