奈良 済美地区社会福祉協議会
第451回

2010年5月のご案内

菖蒲の節句、紺碧の空の下新緑の季節、歩きましょう。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と琵琶法師の語る源平合戦悲話の里、一ノ谷、須磨浦方面を歩きます。

日 時

5月23日(日)近鉄奈良駅地下東出札前 午前7時50分 集合

コース

奈良=(近鉄)=西大寺=学園前=難波=(阪神)=三ノ宮=(高速)=高速長田…(歩く)…長田神社…高速長田=(山陽)=月見山…離宮公園…須磨寺…源光寺…綱敷天満宮…平重衝捕われの地(遺跡)…須磨寺(駅)=(山陽)=須磨寺公園(駅)…須磨寺公園(平敦盛供養塚)(五輪塔)…一ノ谷合戦場(平敦盛激戦地)(急坂・石段・上り)…安徳帝内裏伝承地・モルガン母子献灯の灯篭あり…急坂・下り…須磨浦公園(駅)=(山陽高速・阪神・近鉄)(三ノ宮又は西宮又は尼ケ崎で奈良行に乗替て下さい)=奈良

歩行距離

約5km

費用

2,900円切符は特急券販売所にて購入して下さい。

※西大寺・学園前・高ノ原の各駅からでも同額(同じ切符)です

乗車券の求め方:スルットKANSAI(カンサイ)(拡大版)神戸観光1day(ワンデイ)クーポン 2,900円

 

弁当・飲物ご持参下さい(雨天の時は食堂で)



長田神社

およそ1,800年の昔、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后息長足姫(おきながたらしひめ)(神功皇后)が新羅より帰還の途中この先の沖で「吾を長田の国に祀れ」とのお告げがあり創建された社で、この神のお使いは「赤えい」という魚、200年程前川の中州に在って参拝者は川の中の置石を裸足で渡り参拝していた。或年赤えいの群が暴風雨により増水した苅藻川を溯り境内に入ったので、近隣が捕えようと追って樟の樹の近くで見失った。魚はこの神の使いとし、樟の樹は御神木と云われるようになった。祭神は事代主尊(一説に恵比寿様)大国主の第一子、国譲りの神
離宮公園
元大谷家の別邸を大正3年買収され離宮となった。大正・昭和両天皇、満州国皇帝閣下のご来遊もあり、昭和の戦火で焼失し、昭和33年皇太子殿下(今上天皇)のご成婚記念事業により整備、市民の公園となった。現在植物園、バラ園、子供の森が増設されヨーロッパ風噴水広場が中央にある。
須磨寺
真言宗須磨寺派の大本山、第58代光孝天皇の御代、仁和(にんな)2年1,100年前開鏡上人が創建平敦盛(たいらのあつもり)の首塚と愛用の「青葉の笛」弁慶が源平合戦に用いた鐘等蔵。
源光寺
紫式部の書いた源氏物語の主人公光源氏が京より従者と共に須磨に退去の時、立ち寄った寺で謡曲「須磨物語」に藤原の興範(おきのり)が伊勢参宮の帰途この寺に来たその夜、光源氏が老樵(きこり)の姿になって現れ源氏一代記を物語り、明け方消えていったという伝承がある。震災で倒壊場所も少し西方に在って近年ここに再建された。
綱島天満宮
菅原道真が大宰府へ流罪の時西国街道須磨浦に立ち寄り一時の休息をした所、綱島の名は道真が立ち寄った時、漁師が座布団がないので漁に使う大綱を巻いて円座を造り座らせた所から名付けられた。
平重衝捕らわれの遺跡
清盛の重衝は一の谷で敗れここ迄逃げ延びて来て捕らえられた所。後木津の河原で奈良興福寺の僧に斬首された。
須磨浦公園
敦盛の供養の五輪塔がある。高さ3.3m(日本で2番目の高さを誇る)
一の谷古戦場
源氏の鵯越(ひよどりごえ)により平家の陣は破られこの辺り迄逃げ延びて来た平敦盛が源氏の熊谷直実に呼び止められ一騎討ちとなり敦盛が討死、首を切られた所、一の谷一帯が源平合戦古戦場であった。
安徳帝内裏跡(皇居)
背後は鉄拐山(てっかいさん)の坂落し、前は海、左右に川、難攻不落のこの地、平家の武将それぞれの陣に、背後から源氏の各武将、各陣が攻め、不意をつかれた平家はその奇襲攻撃により惨敗した所、安徳天皇の内裏はその中央に在った。
隣接してモルガンユキ母子が献灯した二基の石灯篭がある。近くにアメリカの実業家モルガンの屋敷があったが今はなく震災後建てられたと思われる家が散在する。

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