奈良 済美地区社会福祉協議会
第461回

3月せいび歩こう会

春弥生お雛祭り賑う梅花の候、昔の暗がり峠越大阪街道追分本陣跡、梅の名所を訪ねます又聖武天皇勅願、行基菩薩建立の登美山の御寺、霊山寺の御仏薬師に導かれ皆様と共々楽しい一時を遊びたいとお誘い致しました。ご参加下さい。

日 時

3月6日(日)近鉄奈良駅地下東改札前 午前8時40分集合

コース

近鉄奈良駅A9時04分発(なんば行急行)=西大寺(乗換)9時14分発(普通尼崎行)=学園前9時18分発=富雄@9時35分発(若草台行)=(バス)=藤の木…大倭神宮…大和国鹿島鹿取本宮…葛上神社…霊山寺…追分(本陣)梅林…砂茶屋(まおとこ地蔵)…砂茶屋バス停=(バス)=富雄=(近鉄)=奈良

歩行距離

3km

費用

交通費1,020円 
 往路:奈良〜(近鉄250円)〜富雄〜(バス260円)〜藤の木 
 復路:砂茶屋〜(バス260円)〜富雄〜(近鉄250円)〜奈良
拝観料(霊山寺)400円

 

※老春手帳ご持参下さい
※弁当飲物ご持参下さい(梅林にて)敷物あれば重宝です。



大倭(おおやまと)神宮 「金鵄霊時鳥見山中聖蹟」と聖蹟の前に大きな石柱が建つ、祭神、武隈(たけくま)大明神・鵄嶽大和美(とびたけやまとみ)という。大和の豪族長髄彦(ながすねひこ)と後の神武天皇若御毛沼(わかみけぬ)命と争った地、御子(みこ)苦戦の時突然眩い光が差し金色に輝く鵄(とび)が現れ御子の持つ弓の先に止まり輝いた。賊は目が眩み手足は痺れ動けなくなり敗残、大和が平定された。ここが金鵄発祥の地、鵄の里(富雄の地名由来)
大和国鹿島香取本宮 千葉県香取神宮、茨城県鹿島神宮及び奈良春日大社の二神、武甕槌(たけみかづち)命、経津主(ふつぬし)命を祀る。創建は詳らかでないが桃山時代には存在した。郡山城主豊臣秀長の支援厚くそれ故徳川時代には極端な圧力があった。この辺りは広大な自然神木の繁った森で春日の森を凌ぐ大密林で大和の民族の蟠踞(ばんきょ=勢力のあった集団の地)した陣屋があり横穴式の住居の森であったという、35万坪余りの神の聖地を維持するため国土開発に大功あった鹿島香取の大神をこの地に祀ったのがこの本宮の初めと云う。
葛上(くずかみ)神社 祭神、素盞鳴(すさのお)命・大山昨(おおやまくい)神(素盞鳴尊の孫)・上賀茂神社祭神加茂別雷(かもわけいかづち)命の父神を祀る。
(摂社)美神、木花咲耶媛(このはなさくやひめ)を祀る。天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妻、天孫降臨した後散歩の時見初めその父神大山津見(おおやまつみ)神の許しを得一夜を共にしその夜の契りで妊娠、尊は我子でない他の国っ神の子であろうと云ったので媛は疑いなら証明してみせようと産室を建てその中に入り出られないよう内部を土壁で塗り中に火を放って無事三子を産んだ、火照(ほでり)命=海幸彦、火須勢理(ほすせり)命、三番目に生まれたのが火遠理(ほおり)命=山幸彦、又の名を穂々手見(ほほでみ)命、神武天皇の祖父
霊山寺(りょうせんじ)
1,300年の昔右大臣小野富人が薬師三尊(右文殊、左普賢)を祀り、薬草風呂を造り行基菩薩が聖武天皇の命により寺を建立、この地が印度の霊鷲山(りょうしゅうざん)に似ているところから印度の菩提遷那(ぼだいせんな)という僧が後に霊山寺と名付けた。鎌倉時代北条時頼や後の豊臣秀吉、徳川家康が寺領を寄進、建物の修復工事を行って最盛時は21坊を数えた大寺院であったが明治の廃仏令により200体にも及ぶ仏像が焼かれ寺の規模が半減した。境内バラ園1,200坪に200種2,000株のバラが植えられていて5月中旬から11月は見頃です。
追分宿本陣と梅林

暗峠越浪速より(玉造神社)伊勢街道追分宿本陣村井家が今残る江戸時代30件余の宿場町で脇本陣等在った。現在20余軒の民家がある。この周辺は梅の名所として近年梅林が賑う。

砂茶屋のまおとこ地蔵 砂茶屋のまおとこ地蔵と説明があり昔水害により川上から砂が流れ積って台地ができた地。伊勢街道上に在ることから、宿や茶店が出来たので砂茶屋と呼ばれた小さな宿場であったようです。現在この街道は国道308号線伊勢街道(奈良街道)という。

もどる