奈良 済美地区社会福祉協議会
第462回

4月せいび歩こう会

春爛漫、花の吉野路へ悠久の歴史の里を訪ねます。この御山は役行者縁の聖地、数々の悲哀、悲恋今に残す哀史の山里、花に誘われ神に詣で仏に導かれての散策、日々の無沙汰に交わりの絆深めて頂きたいと願い策定しました。多くの方のご参加を……。

日 時

4月10日(日)近鉄奈良駅地下東改札口前午前7時45分集合

コース

奈良駅A8:05発(なんば行急行)=西大寺@8:22発(橿原神宮前行急行)=橿原神宮前=(吉野行急行)=吉野=(ケーブル)=山上…(歩く)…金峯山寺(仁王門・二天門跡・四本桜・稲荷二社・愛染堂・観音堂・蔵王堂・本地堂・天満宮…吉野朝址・良寛旅日記碑・八角三重塔・役行者像・倶梨伽羅不動・脳天大神示現霊地・御滝・狐忠信霊碑・水かけ観音・白龍大神・脳天大神・石仏石神群)…石段を戻る 後醍醐天皇導稲荷…東南院…吉水神社…桜本坊…竹林院…如意輪寺…後醍醐天皇塔尾陵・世泰親王墓…吉野駅=奈良

歩行距離

4km弱 金峯山寺境内石段多くあります。

費用

交通費 奈良〜近鉄830円〜吉野〜ケーブル350円〜吉野山 往復2,360円

拝観料 一寺につき400円程度 希望者のみご自由に拝観して下さい。

 

たいへん混み合いますので弁当・飲物・敷物必ずご持参下さい。



金峯山寺(きんぷせんじ) 飛鳥時代1,300年の昔、葛城の豪族加茂氏の小角が大峯山で修行中蔵王権現が現れた小角は山桜の木にその姿を彫り、大峯山とここ吉野に蔵王堂を建て蔵王権現を祀った。金峯山とは大峯山からこの吉野山を含む広大な総称をいう。吉野ではこの伝説により桜の木を霊木と云われ多くの桜の献木があり桜の名所となった。本尊は三体の蔵王権現立像、向って左から弥勒菩薩・釈迦如来・千手観音・の化身で後の本地堂には金色の本地仏が安置されている。奥の院に多くの神仏や伝承地、南朝の古跡、女性の修験地脳天大神を祀る又お滝等がある。
威徳天満宮 竹林院の僧日蔵が大峯山で修行中死亡、あの世へいった。冥土で天使のような人に会ったわけを聞くと醍醐天皇だ。「生前善政を行ったつもりだったが藤原時平の告げ口で菅原道真を九州に流したその罪で死後苦しんでいる。お前生き返って道真の霊を祀ってほしい、そうしたら私の罪が消える」と言われ日蔵は生きかえりここに道真を祀った。
後醍醐天皇導稲荷
京都から脱出された天皇は吉野へ行幸の時に迷われとある。稲荷社の前で「むば玉の暗き闇路に迷うなり、我にかさなむ三つのともしび」と願われると紅い雲が現れ吉野へ導いた。その稲荷を祀る。
吉水神社 修験道の僧坊で吉水院と云った。96代後醍醐天皇が京都を脱出笠置から奈良へ後吉野山へ逃れ、南北朝初代の天皇として再び帝位に就き吉野行宮とせられここで亡くなった。鎌倉倒幕を勧められた御所。
東南院

金峯山寺守護のため蔵王堂の巽(東南)に役行者が開いた宿坊、江戸時代芭蕉が宿泊、平安時代72代白河天皇参詣の宿舎、本尊役行者像、多宝塔は元紀州の八幡宮に在った。昭和12年移築。

桜本坊 1,340年昔34代舒明天皇の皇子大海人皇子はある夜光り輝く桜の木の夢を見た、翌年壬申の乱で勝利、都を大津から飛鳥へ戻し、40代天武天皇に即位、吉野に来て夢で見た桜の木を見付けそこに寺を建立、桜本坊とした。秀吉が吉野山で桜の宴を催した時ここを家康の宿舎としその後ここを徳川家歴代の菩提所となり家康始め多くの徳川将軍の位牌がある。明治に一時廃寺
竹林院 聖徳太子が一宇を建て椿山寺とし、空海が修行の時ここに参籠し大峯に参拝、北朝の天皇100代天皇(北朝6代)・後小松天皇が竹林院と改称された。不動明王を中心に役行者、蔵王権現、延命地蔵、聖徳太子像が安置されている。
如意輪寺 楠木正行兄弟が足利氏と戦った四条畷の戦に出陣の時、一族郎党の名を板戸に書き連ね「かえらじと かねて思えば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる」と矢じりで書き残した辞世の歌の戸板がある
後醍醐天皇塔尾陵 1336年8月15日丑の刻(午前2時)崩御675年前、96代天皇陵在位21年、京都の方向にとの遺言により御陵は南向き、一般に御陵は南向きが普通。
世泰親王墓 98代長慶天皇(南朝方第3代)の皇子の墓
金峯山寺(奥の院) 南朝4代天皇皇居址、八角三重塔、一階に釈迦・普賢・文殊像安置、上階に南北朝戦乱の死者、近年の戦争による死者15万霊を合祀、更に渓谷に沿って下ると多くの神仏像が続く、とりわけ首から上の病気に霊験のある脳天大神を祀る龍王院、吉野は男性の行場に対し、ここは女性の行場、女性信仰の場として盛んである。高さ9mもある二階造りの金龍の滝行場がある。

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