奈良 済美地区社会福祉協議会
第471回

1月せいび歩こう会

新年を迎え、明けましておめでとうございます。皆様には無事ご息災のこと、なによりに存じます。今年も例年に倣い、神に詣で、仏に祈り、辰年に因み本年の龍昇(隆昇)を願い、皆様と共に歩みたい、喜びに浸りたいとお誘いしました。ご参加下さい。

日 時

1月8日(日)午前8時45分JR奈良駅前奈良市観光案内所集合

コース

案内所 午前9時出発…(歩く)…手分森 月日の宮…開化天皇陵…浄教寺…率川神社…伝香寺…道路元標…南円堂…春日奥の院…夫婦大国社…若宮社…春日大社(本社)…感謝共生殿 (解散 午前中の解散となります)

歩行距離

約2km 

費用

今月は不要です

 

※春日大社内拝殿にてご祈祷後ご神酒を拝受します
※感謝共生館にて神官のお話後、春日荷茶屋の甘酒を賞味頂きます



手分森 月日の宮

祭神 川上大明神 中央 止与日女(とよひめ)神・左 早珠日女(さずひめ)神・右 満珠月(まんじゅつき)神、一説に神功皇后が三韓征伐のとき諸神を配祀、手分の森と号したとの伝承、然し小説家の野村胡堂等は単なる伝説だとの説、この宮はこの辺りに在った法楽寺の鎮守社でこの隣に接する家の二階に観音堂があり救世観音が安置され毎年数回開扉、同町住民に拝観させていると、この町の住人が話す。

開化天皇陵

大和時代第8代孝元天皇の第2皇子稚日本根子彦日日(わがやまとねこひこひび)後の第9代開化天皇坂上陵、天皇は2,100年の昔この辺春日と呼ばれていた所、吾が宮居とされた。記述により近くに率川神社のある所からこの地がその宮居であろうと明治の初め全国の天皇陵整備にあたり、この所が天皇陵として整備された。

浄教寺

真言宗本願寺派九条山浄教寺、大阪河内の庄司、真野将監行延の開基、後徳川家康よりこの地を賜り郡山に在ったこの寺をここに移した。寺紋の菊水は第7世空信が入寺してから、空信は楠正成の弟正季(まさすえ)の孫、初陣に深手を負い第6世圓誓の養子となり出家して空信と法名する。その後楠家の家紋九耀菊水が寺紋となった。九耀菊水とは菊の花びら九枚清流に輝く、楠家の輝き彌栄(いやさか)をという意味。

率川(いさかわ)神社

大神神社の攝社で真中の社は媛蹈?五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)、左は父神 狭井大神、右は母神 玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)を祀る子神が真中に両親神を両側に、それで子守明神。明神とは尊敬を表す言葉、疫病鎮護のため国家の祭りとして第42代文武天皇が行われた。鎮花祭(はなしずめさい)、五十鈴姫は第1代神武天皇の后、三輪の狭井川の畔に住みその辺りに笹ゆりが多く咲いていた。それで姫神を慰めるため神殿に酒樽を供える時笹ゆりを共に供えた。それで三枝(さいくさ)祭(=ゆり祭)と云う。例祭は6月17日。古名は笹ゆりを「佐韋」と云う。
伝香寺 奈良時代の創建、鑑真和上の弟子思託と伝わる。現在唐招提寺の末寺、昔は同寺の長老の隠居所、現本堂は筒井順慶が母の菩提を弔うため建立、本尊釈迦如来、地蔵堂に奈良三裸仏の一つ「裸地蔵」、また奈良三椿の一つ「散り椿」がある。昔この辺りは賽の河原と云った。
道路元標 江戸時代徳川幕府が一里という里程を定めた。主要道路に一里毎に塚を設け樹を植え旅人の休息所とした。主要な地点に元標と云う石碑を建てその町の基点としそこから一里、二里の塚を置いた。この元標のある所奈良の基点である。江戸は日本橋、京は三条大橋の地点が道路元標の在る所、在った所、全国的に今も存在する所数少ないであろう。この元標は今年春頃迄はこの地点の南向側、餅飯殿通りを三条通りに出て東へ10m南側の民家の軒下に在ったが永久保存の必要性からここへ移設されたのであろう。今は元標の台石の上に木柱が建てられこの地点から次の主要地迄の距離が示されている。

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