奈良 済美地区社会福祉協議会
第472回

2月せいび歩こう会

如月の季、寒さに染む今日この頃でも、水仙の花が目を覚ます候、今月は早春の北山辺りを歩きます。ご参加下さい。

日 時

2月19日(日)午前8時50分 近鉄奈良駅一階観光案内所前集合

コース

JR奈良駅前D9:19発 青山住宅行=(バス)=近鉄奈良駅前北側A9:15発=(バス)=手貝町(転害門前)…(歩く)…転害門…聖武天皇陵…多門城址…北山十八間戸…少年刑務所…般若寺…奈良豆比古神社…那保山墓…黒髪山神社…元正天皇陵…元明天皇陵…黒髪奈保町=(バス)=近鉄奈良駅前=JR奈良駅前

歩行距離

3km余 

費用

交通費 合計400円
近鉄奈良駅前〜(バス200円)〜手貝町
黒髪奈保町〜(バス200円)〜近鉄奈良駅前
拝観料 般若寺 一般500円 団体400円 老春手帳持参300円

※老春手帳ご持参下さい。バス代及び拝観料割引になります。

 

弁当・飲み物・敷物ご持参下さい。食堂(そば処)一軒あり、少し高い。



転害門

その昔、平城京の東西南北4本の京極通りの内2本東と北の通りに接し、東大寺西側三門の一つが転害門、又の名を手掻門(てがいもん)・景清門(かげきよもん)と呼ばれ、それは歴史的事件が由来する。東大寺創建当時の八脚門、国宝である。門内の小学校表門周辺にウコン色の花弁の桜3本と奈良八重桜がある。

聖武天皇陵・光明皇后陵

第45代奈良時代3代目の天皇と皇后の御陵、お二人とも敬仏の念篤く又皇后は福祉事業、貧窮者や孤児救済事業に努力、今日の正倉院御物保存に心なされた功績者といえよう。この地は元多門城築造に際し移築した眉間寺の跡という。

多門城址

戦国の武将松永久秀が築城、彼は多聞天を信仰していたから多門城と名付けた。優美華麗な城としてその後の築城のモデルとなった。イタリアの旅行家マルコポーロは東方見聞録の中に日本は黄金の国と天守閣を誉めたという。又ポルトガルの宣教師ルイス・ダル・メイダが本国に送った報告書には「世界中にこの城の如く善美を尽くしたものはない」と、久秀は主家を滅し足利将軍義輝を自害させ、一時は信長に従属したが反逆、信長に攻められ城は焼失、信貴山城を築城秀吉に攻められ自害した。

北山十八間戸

鎌倉時代の僧忍性が諸国を遊歴、道路や橋等土木事業や貧民救済等社会事業に貢献、700年前癩患者を救済収容した所、東西十八間、南北三間の共同長屋で救済事業の遺跡として史跡指定されている。
少年刑務所 明治41年総工費30万円、ヨーロッパの城や礼拝堂の形式でドイツ人が設計、受刑者の手によって造られ当時は奈良監獄署、昭和21年奈良少年刑務所。
般若寺 1,350年前飛鳥時代第36代孝徳天皇ご病気平癒祈願のため蘇我氏が建立とも、又その4年前第34代舒明天皇が高麗の僧慧潅に勅令により建立させたとも。本尊文殊菩薩、最初は僧他2,000人を数えた大寺、平家により焼討により焼失、鎌倉時代叡尊・忍性により再建、十三重石塔は高さ12.6m宇治の塔に次ぐ高さである。
奈良豆比古(ならずひこ)神社 第49代光仁天皇の父志貴の皇子を祀る毎年10月祭礼の時翁舞を、無形文化財である。
(道しるべの石柱)江戸270年程昔安永の頃の石の道標が前街道にある、京・なら・伊賀・伊勢街道のここは三差路を示す。
黒髪山神社 多くの稲荷神社を祀る、鯉に?る稲荷神社標は珍しい、この辺りはそれは若い男女の髪のような樹林に覆われているという意味、又大和時代第10代崇神天皇に背いた武埴安彦を討つため彦国茸と大彦命を差し遣わした時官軍がこの地の草木を踏みならしたので、この地を那羅・寧楽・奈良と呼ばれるようになった。従って奈良山・那羅山とこの地を指す。奈良の地名の由来。
那富山陵 聖武天皇の第一子、生後一年で崩御された皇太子の墓、四隅に隼人石がある。十二支ではないかという。
元明天皇・元正天皇陵 第45代奈良時代の第1代元明天皇と第46代奈良時代の第2代元正天皇の陵。いずれも女帝である。元明天皇は第38代天智天皇の皇女、元正天皇は元明天皇の皇女、奈良時代7代の天皇の内4代は女帝、但し奈良時代4代目孝謙天皇と第6代称徳天皇は同一人物である。
参考 第1代元明 第2代元正 第3代聖武 第4代孝謙 第5代淳仁 第6代称徳 第7代光仁 第8代桓武
桓武天皇は天皇継承4年足らず都を長岡京へ、その後、都は完成途中、京平安京へと都は遷都した。

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