奈良 済美地区社会福祉協議会
第474回

4月せいび歩こう会

春爛漫大宇陀の本郷滝桜を観桜し「ひんがしの・・・」と人麻呂が詠んだかぎろいの丘で昼の宴を楽しみ古社寺を訪ね宇陀の古い町並を散策、織田信長の二男信雄から三代の居城、西口関門に遠く後方城山を眺め皆様と春の終日を楽しみたいと思います。皆様のご参加を・・・

日 時

4月8日(日) JR京終駅 午前7時40分集合

コース

JR京終駅8:03発(なんば行)=(JR)=桜井駅=(近鉄)=榛原駅=(臨時バス)=又兵衛桜前(又兵衛桜)…(歩く)…阿紀神社…かぎろいの丘…人麻呂公園…大願寺…道の駅…森野旧薬園…(古い町並を歩く)…春日神社…松山城西口関門…西山バス停=(バス)=榛原駅=(近鉄)=桜井駅=(JR)=京終駅=奈良駅
※参考 奈良から榛原まで近鉄電車ご利用の方は、奈良7:45発(なんば行・快速急行)〜西大寺7:56発(橿原神宮前行・急行)〜八木8:24発(榛原行・普通)〜榛原

歩行距離

3km

費用

交通費 合計2,140円
京終(奈良)〜(JR320円)〜桜井〜(近鉄290円)〜榛原〜(臨時バス500円)〜又兵衛桜前
西山バス停〜(バス420円)〜榛原〜(近鉄290円)〜桜井〜(JR320円)〜京終(奈良)
  ※全線近鉄ご利用の方 榛原〜(近鉄670円)〜奈良 

見学料 森野旧薬園270円(団体)

食事

敷物・弁当・飲物ご持参下さい。近くに食事処(飲食店)一軒あります。



又兵衛桜(本郷の滝桜)

樹齢300年余、九州筑前の黒田藩の武士で15,000石の小城主、後浪人となり、大阪冬の陣に豊臣方となり夏の陣で負傷、徳川の世に僧となった又兵衛(定説では夏の陣で討ち死に)の子孫が住んでいた屋敷跡に生えた桜と云う

阿紀神社

天孫(てんそん)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)のひ孫、若御毛沼命(わけみけぬのみこと=神武天皇)が難波から孔舎衛坂(くさえさか)を上り生駒から大和に入ろうとして敗残、熊野灘から紀州熊野に上り、八咫烏(やたがらす)に導かれ大和に入りここ阿騎野(あきの)で祖神天照大神を祀り戦勝祈念された所、後、垂仁天皇の御代皇女倭姫(やまとひめ)が天照大神を祀った。宇陀秋志野宮が当社の起り、元伊勢と云われ神明造である。

かぎろいの丘

柿本人麻呂が軽皇子(かるのみこ)(後の42代文武天皇)に仕えここ阿騎野へ再三狩猟に供し天然現象のかぎろい(陽炎)を見た「ひむがしの野にかぎろいの立つ見えて、かえり見すれば月かたぶきぬ」と詠んだ所、陽炎とは冬の明け方快晴の空に月西に傾き日の出間際東の空に現れる自然現象。

人麻呂公園

飛鳥時代の狩場跡、当時狩猟の時使った建物の一部が又板塀が復元並びに柱跡も表示され弥生時代の住居(土坑)。掘った穴に草の屋根を付けたものも復元、当時の暮らしを窺い知ることが出来る。園内に柿本人麻呂像が立つ。
大願寺 薩垂山成就院(さったさんじょうじゅいん)、聖徳太子が蘇我馬子に命じて建立、本尊十一面観音は太子の作と云う。又徳道上人の作とも、弘法大師が長谷観音の試し彫りとも、その為、試(こころ)みの観音とも。明治18年本堂全焼、又2年後暴風により寺は総て倒壊、その後の発掘で土中から無事な姿で掘り出されたので焼けずの観音と云われる。
(毘沙門堂)織田信長から5代目織田城主信武が室生山の大杉一本で建てたお堂である。
森野旧薬園 当家は元下市に住し吉野朝に奉仕、ここ宇陀に移って農業を営み、かたはら葛粉を製造、薬草を研究。徳川八代将軍吉宗は薬学を好み全国に薬草を探させた。その時大和の代官の命により、森野家が薬草探索を命じられ各地を行脚、かたくりを発見カタクリの製造を行い持ち帰った薬草を裏山に植え薬草園とし幕府の薬草補助機関となったそれが今日の旧薬園の名の由来。
春日神社 後の山が松山城跡。春日社の鳥居に並び城への登り道が並行している。徳川時代初め福島氏の居城で松山城と云った。後、織田信長の二男信雄(のぶかつ)から3代にわたる居城であった。(元和元年から元禄8年迄の80年間)
松山城西口関(せき)門 黒く塗られているところから黒門と呼ばれる。福島氏の居城であった頃からの門でこの門は当時の名残を留める唯一の遺構。江戸初期に建築された。関門と呼ばれるこの門は松山城にとって重要な門で通行にも相当厳しかった所以がそこにあったのであろう。
重伝建地区

(重要伝統的建造物群保存地区)

古い町並がある森野旧薬園・薬の館や市の管理により、又館自身で有料入館や非公開の大きな町家が並び道路面においても配慮されている。

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